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笹本カウンセリング事務所  作者: 和風露カルタ
笹本カウンセリング事務所 第一部
5/18

第四話というか、第二幕の展開

@@@@@@@@@



 帰宅。

 午後一時四十分。

 寿司屋を出た後、僕は識乃ちゃんの友達の悪口や嫌な噂を延々と聞き続けた。自宅に辿り着いた頃には耳に胼胝ができていたのではないだろうか。

 ……、慣用句の使い方が間違っている事など百も承知である。

――女の子は皆、裏ではこんな感じで友達を語っているのかなぁ。

 識乃ちゃんからダウンを返してもらい、少し残った香りを楽しみながら、クローゼットへと向かう。先日、識乃ちゃんが『机とベッドと冷蔵庫に洗濯機、それに数百冊の本。それ以外、本当に何も無いんですね』的な事を言っていた気もするが、さすがにそれは言い過ぎだ。読者諸君、驚くなかれ。僕の部屋にはクローゼットがあるのだ。更に、壁には時計が掛かっている。事務所にある8bitのメロディを出すあんな物では無く、シックなデザインの掛け時計。

 まぁ、兎に角。

 クローゼットへダウンとジャケットをしまい、識乃ちゃんを部屋へと招きこむ。今朝怒って識乃ちゃんが先に出て行ってしまった後に干した識乃ちゃんの衣類を取り込んで、

――あぁ、これを干したのって今日の事か。ずっと前に干した気がする。

 と、物思いにふけた。そして、ふてぶてしくも僕のベットに腰を下ろしている識乃ちゃんの向かって差し出した。

 洗濯した衣類と言うものは勿論濡れている訳で、ベランダに干すのが常識、世の常、世の常識。だと思っていた。が、識乃ちゃんはベランダから戻ってきた僕を見るなりこんな事を口走った。

「ベ、ベランダに干してたんですか!?」

 当然でしょ? と答えると、識乃ちゃんは顔を赤くしてベットの上で暴れだした。

「ちょっと止めてくれるかな。そこは、君の『友達秘密話』でやつれた僕の体を休める憩いの場なんだよ?」

「五月蝿いです! どうしてくれるんですか!?」

――おっとぉ? 識乃ちゃん、何で目じりに涙を溜めているんだ?

「私がこの部屋に入っていく所を見た近所の人たちは私の事を『軽い女だ』みたいな目で見ることになるんですよ!?」

「識乃ちゃん、確かに口は軽いよね」

 はははっ。と笑ってみたら、顔面が枕にめり込んだ。識乃ちゃんが投げた僕の枕であった。

 落ちた枕を拾い上げ、識乃ちゃんを見やると彼女の感情は頂点に達していた。その感情が悲しみなのか恥じらいなのか、はたまた怒りなのか、それはよく分からなかったが。識乃ちゃんは真っ赤なほっぺたをぷくっと膨らまし、その頬を多少の涙が滴っていた。そして、少し垂れ目な目を必死に吊上がらせ、上目使いで睨んできた。

 読者諸君。

 結局、僕が何を言いたいのか分かるだろうか。

 怒った識乃ちゃんは最高に可愛かったのだ。



@×10



――しかし何だったのだろう。

 様々な大きさ、形のテレビを見ながら考える。

 識乃ちゃんの渾身の顔を記録しておこうと、『サケノバ事件』の戦利品であるディジタルカメラで激写したところ、なんだかよく分からない言葉と動きで喚きながら帰ってしまった。

 まぁ、それは良いのだが。

 今から少し時間を遡る。

 識乃ちゃんが帰り、時計の短針と長身との角度が九十度を作り成そうと必死になっている時刻。つまり、昼の三時である。多町さんには『昼の間、忙しいので電話はやめてください』と言われていたが、次のカウンセリングの日程を一切取り決めていなかったので仕方なく電話を掛けさせて頂いたのだ。すると、なんだか多町さんは不機嫌だったようだ。五回の呼び出し音の後に僕がもしもし、と言うと《なんだ?》とぶっきらぼうに返された。

「あぁ、いえ。ちょっと確認事項がありまして」

「……、すまん。また掛け直してくれ。えっと、明日の朝に頼む」

「いや、すぐ終わりますんで……」

 ブツッ

 電話は無造作に切られた。それだけだった。それだけの会話しかなかった。

 そして。

 そして僕は今、大型家電量販店に来ているのだった。テレビの右上の表示を見ると、そろそろ五時になろうとしている時間らしい。しかしこういう店舗には窓が無く、空の様子が窺えないので、『今は夜中の十二時ですよ』と言われても信じられる自信がある。

 まぁ、ともかく。

 僕は家電量販店が大好きなのだ。『ここに住んでいい』と言うのであれば、即刻住民票をここに移そうではないか。何せ、僕の家に無い物がたくさん並んでいるのだ。それに広い。家電達にも『所、狭し』と騒いでいる様子は見られない。何よりもテレビがある。別に僕も好き好んで時代に遅れる生き方をしているわけではない。当たり前だ。ここに来る事は、時事的な物事を知ることのできる大事な機会なのである。

 ……。

 そうだ、弁解しなければならない事がある。僕は、僕が関係を持つまで『サケノバ事件』の事を知らなかった訳ではあるが。それは諸事情によりここに来る事ができなかった事が起因する。

 月見里獏也ヤマナシバクヤ

 月が見える里には山が無い。故に『やまなし』。昔の人はよく言ったものだ。

 そして。

 悪夢を喰らい邪を払う、熊・象・犀・牛・虎の部位を授かり受ける空想上の動物。獏。

 そんな頓智と頓智を掛け合わせた様な名前を持つ彼は。

――もう居ない。

 死刑という、権力の鎌掛けを受けた彼は。

――もう、どこにも居ない。

 僕の初めての親友であり、天敵であった月見里。救世主であり、殺人者であった獏也。どこにも居なくなってしまったあいつは今、どこに居るのだろうか。

 …………。

 さて。

 物思いに耽るのも、もういいだろう。

 各テレビに映し出される情報番組が、何故だかとてもつまらない。

――そろそろ、外に出ようかな。

 出口に向かおうと回れ右をした所、予想外な人物に出くわした。



@×10 @



 帰宅前。というか自宅前。

 今日も一日疲れた。と、黄昏ながら帰路に着いていた。自分のアパートが近づいてきたので、顔を上げ僕の部屋を見上げると、何故か窓から明かりが漏れていた。消し忘れかとも思ったが、その光を時たま人影が遮るのを見ると、そんな悠長な考えもすぐに吹っ飛んだ。

――なんだなんだ?今日はやけに変な事が起きすぎていないか?

 ジャケットの裏側の専用ホルスターから刃渡り十五センチの鋏を取り出し、支点部分のロックを解除する。二本に分解したそれぞれの刃物を一本ずつ両手に構え、静かに階段に近づくと、一〇五号室のドアが開いて、ご近所さんの顔が現れた。

「あ。笹本さん。どうも。こんばんわ」

 さほど親しくもない人に向ける様な素っ気無い挨拶は愛嬌である。こちらからも簡単に挨拶を返したのだが、達真美たちまみさんの視線は僕の右手と左手を行ったり来たりしていて、僕の言葉を聞いているようには見えなかった。

 急な出来事で完全に忘れていたが、僕の両手には刃渡り十五センチ、柄の部分を入れると二十五センチ程になる大きな刃物が握られていたのだ。そんな豪快に銃刀法を違反している男と対峙しているのだから、まともな思考力を維持する方が難しいだろう。

「あの、なんだったら警察に通報しましょうか?」

「いやぁ、そういうのは本人に聞くものじゃないですよ?」

 達さんの動揺は僕の思った以上だったようだ。構えていた刃物を下ろし、柄の輪の部分に小指、親指以外の三本を通し、刃物をぶら下げる状態にする。

 賭け事好きの二十九歳の彼女はいつでもポーカーフェイスなので感情の抑揚が見えにくい。スッと通った鼻筋、少し尖った耳、遠くを見据えているような透き通った瞳、切れ長の眉、小さな唇、それらのパーツが笑いによって歪む場面を未だに僕は見た事が無い。

「いえ。そうじゃなくて。上の階です。あなたの部屋」

「あぁ、そういう事? 大丈夫ですよ。あまり大事にしたくないですし」

 やっぱり。というか、一切動揺などしていなかったようだ。僕の部屋、自宅の方は、二〇五号室なので彼女の部屋の真上なのだ。誰かが僕の部屋にいる事に勘付いたのだろう。

 因みに事務所は、二一〇号室である。立地条件のおかげか、随分と安い家賃であるのに部屋の中はとても広い。敷地のそれ自体もとても広く、二階建てでそれぞれに十個の部屋がある。折角の機会なので、ここでもう少し、説明しようか。

 …………。

 現状を思い出す。そんなちんけな事をいている暇はない。達さんに声を掛け、刃物を鋏を構え直したところで達さんの右手に包丁が握られている事に気付いた。

「……、えっとー、今からどうするつもりだったんですか?」

「やっぱり、警察は駄目と思いまして。しかし。あなたは帰ってこない。さすれば願わくばわたしが先方に奇襲をば。と」

「……」

――うん、勇敢すぎるぜ!

 どこの世界に、謎の侵入者に包丁一本で立ち向かう華奢な女性が居るのだろうか。

――そして、彼女ならば勝ちそうな気がする。

「あの、僕の部屋が血で染まるのはいただけないから、ちょっと下がっててもらっていいですか?」

 なんだか刺されそうな気がして、敬語が更に丁寧になってしまう。自然に。

「分かりました。では。お気をつけて。健闘をお祈りしています」

 そのまま部屋の中に引っ込んでいく達さん。

 別に戦う気は無いけれど、任せてくださいと、小声で呟き、階段を一段一段踏みしめる。階段は一階の一〇五号室の前から二階の二〇六号室の前まで伸びているので、二階に辿り着き、自室の前まで少し歩く。壁にへばり付くようにして窓から中を窺うと、……だめだ。すりガラスなので何も見えない。人影がゆらゆらと動くのだけが窺える。

 二本の刃物の柄を左手の中指と人差し指通して持ち替えて、ダガーナイフの様に握りこむ。右手でドアを開く為である。

 あえて、気付いていないように、ただいまと、声を上げて返事を待つ。普段ならば、こんな寂しがり屋の一人過ごしのティーンエイジャーのようなことはしないのだが。異臭が漂っている事に気付く。

――なんだ? 焦げた匂いがするけど。放火か!?

 一瞬焦ったが、すぐに落ち着きを取り戻し、頭の中を整理した。そして、思い至った。

 そもそもプロフェッショナルが電気など点けるであろうか、と。

 そして嫌な予想は良く的中するものなのだった。

「お帰りなさいっ!」

 知った声が聞こえてきて、僕は肩を落とすような、竦めるような、そんな動きをした。

「うん」

 あえて当たり前のような反応をして、ベッドへと足を向け、腰を下ろした。

「ご飯にします? それともお風呂ですか?」

「へぇ、じゃあお風呂で」

 うちのアパートには風呂が無い。僕は二、三日に一度、最寄の銭湯を利用しているが、他の住民がどうしているのかはよく知らない。

 すると、目の前に居る女性が(勿論識乃ちゃんであるのだが)、予想通り、困ったような顔をした。

「お風呂……、ですか。どこにあるんですか?」

 僕は実に大袈裟な身振り手振りで懇切丁寧に説明してあげた。

「離れにお風呂があるから、焚いてきて欲しいんだけど。良い? 離れに行くにはここを出て、北に向かって十二キロ先に交差点があるからそこを右に曲がって。そのまま真っ直ぐ進むと十分ほどで突き当たりになってるんだ。そこを今度は左に曲がって、そのまま山の麓まで進んでくれればいいよ」

 分かりましたっ! と、叫んで飛び出す識乃ちゃん。

 はぁ、と息を吐き出し横になる。寝返りを打って俯きになったところでハッとする。

――これは……っ! 識乃ちゃんの香りっ! そうか、昨日ここで彼女寝たんだ。

 そのまま五分程、鼻だけで呼吸を続けた僕は顔を上げて驚いた。

「や、やぁ」

「……」

 識乃ちゃんが、見ていて辛くなるような瞳で僕を睨みつけていた。

「涎、出てますよ」

「そんな低いトーンで言わないでくれ! そして出てない!」

 がばっと起き上がり、反抗の意志を見せる僕。

「識乃ちゃん、離れに行ったんじゃ?」

「大家さんに聞いたら『離れ? んにゃもん無いよ』って言ってました」

 意外にこの子、頭がいいのかもしれない。そして、大家さんのモノマネが結構似てた。

「ってか、何でここに居るんだよ! 何してんの!」

「いえ、お洋服返して貰って帰ったんですけどね。言い忘れた事があったから、メールしようと思ったらトモさんのメアド知らないし。っていうかトモさん携帯持ってないし。そして家の電話番号覚えてません。っていうか教えてもらってません!」

 識乃ちゃんはイラついているのか、長文が続けば続くほど口調が速くなった。そして最後は、ほとんど怒鳴っているに等しかった。

「まぁ、それはおいおい追って話しますよ! それよりも」

 そして、恐い険相を一旦伏せる識乃ちゃん。そして上げられた彼女の顔は、さっきと打って変わって快活そのものであった。そんな彼女はこう言った。

「ご飯にしませんか?」

 なんと、油の回ったような、鉄を焦がしたようなこの匂いの元は識乃ちゃんの作った料理だったようだ。


@×10 @@



 識乃ちゃんの作った料理は、奇想天外そのものだった。食べられそうなビジュアルが一つとしてないのだから、それはもう才能と言って相違無いだろう。料理していると言うよりはむしろ、食材を無駄にする為の作業をしていると言ったほうが正しいようにさえ思えた。

――さて、どうしたものか。

 食卓に出された食材の残骸を前に食べるかどうかを悩んでいる訳では無い。出された物体に対し、先述のような感想をそのまま口にしたところ、識乃ちゃんは号泣し、僕のベッドに潜り込んでしまったのだ。そのことについて悩んでいるのだ。

 僕は立ち上がり、キッチンへと向かう。結局、識乃ちゃんはご飯を食べれば機嫌がよくなる。そう思ったのだ。

 冷蔵庫の中を覗くと、……肉だけが綺麗に無くなっている。

――あの残骸は、鶏さんや豚さんのものでしたか。

 すでに生ごみ用のゴミ箱に放り込まれた黒い物体に合掌してから、もう一度冷蔵庫へと向かう。

――えっと? キャベツ、ピーマン、萌やしに、おっ! 無事であったか、ひき肉さん!

 更にキッチン下の収納からキムチ鍋の素を入手し、少し考えてから調理に移る。鍋は使わず、フライパンにキムチ鍋の素を入れて、水や片栗粉でねばりけを調整する。下処理を済ませたひき肉と野菜類をそこに投入し、餡と具材を絡める。オリジナル野菜炒めである。最後に調味料で味を調え、大皿に盛ってから箸と共にテーブルまで運んだ。

 テーブルの前には食べ物の匂いを嗅ぎ付けたのか、識乃ちゃんが座っていた、目に涙を溜めながら。

「はい、どうぞ。召し上がれ」

 ため息混じりに声を掛けるといただきます、と小さく言ってから箸を手に取り、食べだした。暫く食べてから識乃ちゃんはおいしいです、と言った。

「料理にはこういう応用力も必要だけど、まずは基本的な料理方法を学ばなきゃいけないんだよ?」

「分かります……けど。あんな言い方……しなくたって……良いじゃないですか」

 箸が、口と野菜炒めの間を目まぐるしく往復し、その合間合間に識乃ちゃんは喋った。

「食べ物を食べながら、喋らないでくれる?」

「うっさいですね。良いじゃないですか、それぐらい」

 軽く聞き流し、自分の箸を取りに行く僕。箸を入手し、テーブルに戻ると、野菜炒めは無くなっていた。

「はぁ、ごちそうさまでしたっ」

 飛びっきりの笑顔で合掌する彼女を咎めるのも何だか後ろめたくなり、僕は肩を落し、小さく呟くだけなのだった。

「お粗末さまです」



@×10 @@@



 聞いてみると、識乃ちゃんが僕の家に忍び込む事のできた理由はなんとも些細な事であった。彼女が家を訪ねてきた理由も実にしょうもない物であった。

 前者に関しては、ただの鍵の閉め忘れだった。なんだ、そんな事かと思われるかもしれないが、現に家の中に不審者が忍び込んでいたのだから、笑うに笑えない。

 そして後者の理由。彼女が僕の家を訪れた理由、それは金銭関係の相談の為であった。

「なんだ、そんな事か」

「『なんだ、そんな事か』じゃ無いですよ! 今日から私、ここの……助手? になったんですから、そこら辺はしっかりしませんと」

「何言ってんの? 依頼料、つけてること忘れたの?」

 減った腹から気を逸らせるために体をベッドに放り投げ、淡々と、だけれど冷たくはならないように識乃ちゃんへと返事を返した。

「違いますよ。知ってますか? 私の家、こっから電車で二十分掛かるんですよ? トモさん、お金持ちなんですから、それぐらいどうにかなりませんか?」

「じゃあ、僕の家に住む?」

 完全無欠の冗談であったのだが、何故だか識乃ちゃんは本気にしてしまったようだ。

「プ……プロポーズ……?」

「うん、断じて違う」

――何だよ、この茶番劇。

 「でもでもマジですか!? でもアレですよね? 事務所もトモさんの家ですから、あっち私が使っても問題ないですよね。そっかそっかぁ、じゃあ、今度荷物持ってきますよ。……電気とか水道とか、通ってましたっけ? あぁいや、でもそれは後からでも何とかなりますよね」

「勝手に話を進めないでくれるかな? ってか、そんなにお金無いの? そこまで言うなら通帳見てみたいな」

 すると識乃ちゃんはいいですよっと言って、鞄の中から片手サイズの書物を取り出した。

「持ち歩いてるんだ……」

「世の中物騒ですからね。というより、私の家警備スッカスカですから」

 何故か識乃ちゃんは胸を張った。渡されたそれを開いてみると『水曜日・晴れ、トモさんの助手になる。多町こうじんさんの家に行く。変死体を見た後、寿司をたらふく食べる。』

 などと書いてあった。実際には色ペンを使いまくって、ハートは何やらが書き込まれていたのだが、要約するとこんな感じであった。

「これ、手帳なんだけど」

「えっ? は、はぁわわぁああはわあわ! 駄目です! 返してください!」

 『あたふた』を体で表現したような動きを見せた識乃ちゃんは、バッと僕の手の内から手帳を奪い去った。そして、それを鞄にしまい、代わりに同じ程の大きさの書物を取り出し、僕に差し出してきた。

「こっちです。こっちが本物です!」

「うん」

 確かにそれは通帳であり、中を開いてみると吐き気がした。

「よ、四桁……?」

「そうですが?」

「『そうですが?』じゃないよ。なんか、二桁とかだともうなんか笑えてくるけど、四桁って! なにそのリアルな貧乏!」

 僕は通帳を識乃ちゃんに投げ返した。そして、ベッドにぶっ倒れて、なんとか言葉を紡いだ。

「あ、そうだ。識乃ちゃん、クライアントの名前ぐらい漢字でかけなきゃだよ?」

「露骨に現実逃避しないでください!」

 通帳を鞄に直しながら、識乃ちゃんは叫んだ。そして、落ち着いてから、識乃ちゃんが再び口を開いた。

「でも、『こうじん』ってどんな字書くんでしたっけ?」

「辞書引きなさい。そこにあるでしょ?」

 識乃ちゃんが本の山へと近づき、漁りだした。

「どの辞書が良いんですか?」

「やっぱ、収録数は広辞苑が一番だけど、僕的には広辞林が好きかな。例文が面白いし、文法的に読みやすいからね」

 識乃ちゃんはへ~っと気の無い返事をするだけで、その手にはすでに広辞苑が握られていた。

「あからさまに興味が無いのはさすがの僕も傷つくよ?」

「……」

 完全に僕を無視して、ページを捲る識乃ちゃんは暫くそうした行為を続けた後、わぁ、と声を上げた。

「『こうじん』って項目がいっぱいですっ! どれが多町さんのか分かりませんよ?」

「あぁ、そういえばそうだね。ちょっと見せて」

 僕は立ち上がり、識乃ちゃんの横から広辞苑を覗き込んだ。見てみれば『こうじん』という単語が二十一項目もあった。

【後塵】人や馬車の走ったあとにたつ塵。

【幸甚】何よりもしあわせ。

【黄塵】黄色のつちけむり。

【巷塵】俗世の汚れ。俗塵。

【荒神】三宝荒神の略。竈の神。

などなど。

「これだよ」

 と、親切に指を差して教えてあげてからベッドに戻る。

 そして、腰を下ろしたところで識乃ちゃんが話し出した。

「そう言えば、今日の昼三時頃に多町さんを見かけましたよ。こっちに来る途中」

「へぇ、どこで?」

 識乃ちゃんは手帳を取り出し、多町さんの名前を書き直しているようだ。

「商店街です。なんか、携帯を耳にあてて実に嫌そうな顔しながら、二十秒ほどで切ってました」

「……多分、その電話相手、僕だ」

「へぇ、そうなんですか。嫌われてるんですか?」

 そこであることに気付き、体を起こした。

 僕がガバッと体を起こしたのを見て、識乃ちゃんがビクンとうろたえる。

「びっくりしました! どうしたんですか? トモさん。気でもおかしくなりましたか?」

「ちょっとテンション上がってきたよ。識乃ちゃん、ちょっと黙ってて」

 立ち上がり、電話の前まで足を動かして、メモ用紙を一枚千切り、そこにボールペンで文字の羅列を書き連ねる。

 …………。

 二十分程ペンの走る音だけが部屋の中に流れ、その後に僕が『閃いた!』と声を上げるのを想像してくれた人も居るのかも知れないが、そんな事には成らなかった。

 横で識乃ちゃんが五月蝿いからだ。二十分間、絶え間無く話しかけてくる。

「どうしたんですか?」「見せてください」「多町さんの件ですか?」「なんで黙ってるんですか?」「トモさん、お腹減りました」「まだ何か書いているんですか?」

 と、まぁ兎に角五月蝿かったのだ。

「ちょっと! なんで、静かにできないの?」

「これでも抑えてる方なんですよ? あの物騒な刃物にツッコまなかっただけ褒めて欲しいぐらいですよ!」

 ホルスターごと部屋の隅に放置された例の物を指差しながら、識乃ちゃんは言った。

「今、聞いちゃったね」

「なら仕方ありません、説明してください」

 何だ、その身勝手なルールは。

「はぁ、アレは『対刀ついとう鋏剪刀はさみばさみ』って言うんだ。知り合いのご老人に刀鍛冶が居てね、特注で作ってもらった」

「ほう、高そうですね」

「まぁね。それでさっき言ったのが鋏の状態での名前、分解したときはそれぞれ『カネハサ』と『マエガタナ』って言うんだ」

「……、なんか、アレですね。」

 識乃ちゃんの口が《かっこつけ》と動いた。

「そうかな? ……、そうかもね」

「なんで鋏なんですか?」

「カモフラージュだよ。よっと。ほら、こんなに刃渡りが長い刃物を持ってると、法律違反で捕まっちゃうからね」

 ベッドから手を伸ばし、ホルスターから鋏剪刀だけを抜き取り、刃を識乃ちゃんに見せた。そして、分解して、マエガタナを識乃ちゃんに持たせてやった。

「これとそれに違いなんてありますか? 見分けられませんが」

「そっちの方が刀身が細いから、刺すことに特化してるんだよ。こっちは若干反ってるから斬るほうが向いている」

 説明の後ちょっとの間、カネハサとマエガタナを交互に見やっていた識乃ちゃんだが、なるほどと適当に言いながらしだいに興味を無くしていった。そして投げやりにマエガタナを返してきた。

「あまり役に立たなさそうです。なんだか急激に興味を失いました」

「だろうね。僕ならともかく君には一生要らない物だろうね。というより、君には扱えないだろうね」

 鋏剪刀をホルスターに直しながら、識乃ちゃんに声をあげた。

「それはそうと、さっき何を書いていたんですか? 見せてください」

 識乃ちゃんは僕がテーブルに投げ捨てたメモ用紙を手に取った。そして眉間に皺を寄せて、むむむ? と声を上げて思考していた。

「意味が分かりません。何ですか、この文字の羅列。ヤバイ小学生の書く落書きの方がまだ見やすいですよ。クスリ乱用者の筆記テストみたいですね」

「無駄にリアルな例えはやめてくれない?」

「どっちが?」

「両方」

「すみません」

 ……。と無言になる二人。そして暫くして、先に根負けしたのは僕であった。

「まぁでも、大体分かったよ。もう大丈夫だ」

 両手を広げて安心の笑みを識乃ちゃんに見せた。

「へ? 何が分かったんですか? 大丈夫? え? 何、気持ち悪い」

 自分の両肩を掴んで、ブルブルッと震える識乃ちゃん。

「その反応は止めてくれ」

 と、まぁ。

 誰が僕ら二人の会話を心待ちにしているのだろうか。いや、そんな人は殆ど皆無であろう。そういう変態は、獏也一人で十分である。僕と識乃ちゃんのラブコメ路線など、どうせデッドエンドしか待っていないだろう。

 しかしまぁ、真面目な話、もうそろそろ解決編に入るべき頃合であると思う。そろそろ、この登場人物が少な過ぎる事件に幕を下ろしてやろうではないか。




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