第八話というか、第三戦の三回裏・マイナス伍対弐
@×20
獏也、おい。アレ、矢崎那子じゃないか?
獏也の視線が窓の外に向けられた僕の人差し指を這う。そしてその延長線上に居る人物をその目が捉えると、獏也は「あ」と声を出した。その後、僕に「ちょっと行って来る」と言うが早いか獏也は席を立った。僕の目にはソファを出た獏也の背中と先程まで獏也が摘んでいた鮪がテーブルに落ちていく様子がスローモーションに写った。視界の隅で識乃ちゃんが、よく分からないと言った風に口をもぐもぐしている。
五分ほどして帰ってきた獏也、他一名を僕と識乃ちゃんは忙しなく口を動かしながら迎えた。他一名、那子さんは後ろ手に腕を掴まれ、息が上がっていた。
「おい、なんだよお前ら。折角捕まえてきたのに」
「いや……、だって捕まえて来いだなんて言ってないし」
「言ってないです」
獏也は僕らに鋭い視線を送ってきたが、僕は肩を竦めてやり過ごした。そして那子さんに「まぁ、どうぞ」と着席を促した。那子さんは「クッ」と声を上げ獏也の手から逃れようと体を捩じらせていたが、諦めたのか暫くしてから腰を下ろした。
「お久しぶりです、那子さん」
「誰が下の名前で呼ぶことを許可した」
僕はその返答に満足して、口角を吊り上げた。
「あれ? 偽名では無かったのですか?」
「なっ……、お前、図ったな!」
「こないだ、即座に否定しましたよね? 急にあんなになったから少し『あれ?』と思ったんですよ。ほら。識乃ちゃんってあっけらかんと言うか何と言うか、まぁ、こんな性格だから嘘が付きにくいんですよ。僕が身を張って実証しましたから間違いありませんね、はは」
僕が話している間、那子さんは絶えず悔しそうに「うぅ」と唸っていた。
殺人グループにプライベートなどと言うものがあるのか、僕は殺人グループに所属したことが無いので分からないのだが、どう見ても今の彼女はその状態だった。はっきり言ってセンスの良い私服だとは思えなかったが、自分で選んだのであろうその服装が、よりプライベートらしさを演出していた。
識乃ちゃんが耳打ちをしてきた。「トモさん、トモさん。」
「トモさんだって人のことをやいやい言えるほどセンスよくないですよ?」
「だから、人の心を読むな。っていうか面と向かってセンス無いとか言ってくれるなよ」
そこで那子さんが「おい、笹本」と口を挟んだ。
「さっき、『捕まえなくていい』みたいなニュアンスなことを言ってなかったか?」
「えぇ、まあ」
「なら、逃がしてくれないか? あまりこういう事には慣れてなくてな。拷問とか――」
言う途中で獏也が微笑みながら那子さんの口に鮪の握りを押し込んだ。そして、僕が微笑みながら言った。
「いや、でもですよ。ほら、那子さんお寿司食べちゃったじゃないですか。食い逃げはいただけません」
那子さんはモゴモゴと日本語ではない謎の言葉で反論してきたが、獏也は那子さんの口の中に空洞ができるたびに新しいネタをそこに押し込んだ。
周りに客はおらず、店主もこちらを気にしている様子はない。いや、気にはなっているのかもしれないが、それでも気にしていないフリをしてくれていた。
僕はまだモゴモゴ言っている那子さんに話しかけた。
「では、特に反論も無いようなのでこのまま話を続けさせていただきます。まずですが、あなたは『ピエロ』の中でどういう立場なのですか? ……ちょっと獏也、そろそろいいよ。那子さんが答えられないよ。というか結局、その皿の分は僕が払わなくちゃならないんだろ?」
「おぉ、そうか。悪い悪い。」
獏也は手を止め、那子さんを開放した。彼女の前にはすでに十枚近くの皿が積み重なっていた。もはや拷問である。むしろ拷問以外の何物でもない。酒や水に致死量があるように、寿司にも致死量があるのだろうか。もし致死量があるのであれば、おそらく彼女はすでに死んでいるだろう。
暫くして、那子さんはとつとつと話し始めた。
「……んっむご。その、なんだ……、黙秘権は行使でき…………待って、水もらっていい?」
「はい。どうぞ」
彼女の口調が砕けたことで拷問の恐ろしさを再確認しつつ、なるべく平常を装った。もう少し彼女との会話はできそうにない。
ふと見れば、識乃ちゃんがテーブルに項垂れていた。「どうしたの?」と問うと、どうやら食べすぎで気分が悪くなったらしい。
「トモさん一旦帰りませんか? 回るお寿司を見てると目が回ってきて、吐き気に拍車を掛けます」
「黙れ。気持ち悪くなるまで食べる君が悪い。多分僕のセンスを馬鹿にした罰が下ったんだね」
こんなに物静かな僕の周りに、何故こんな野生動物のように騒がしい面々が集うのだろうか。
「大丈夫ですか? 那子さん。そろそろ答えてもらっても?」
「あ、あぁ」
那子さんは戸惑いながらも頷いた。僕はそれを確認した上で、掌を宙に泳がすようにして先を促した。「では。お願いします」
「答える前に言っておくが、お前たちがウチをこうして拉致したことはお前たちにとってマイナスにしかならないぞ?」
「それはそれは好都合です。今、残念ながら自爆しまくってましてね。点数で言うとマイナス五位になっているんですよ。偶然とは言えあなたを捕まえてプラスニとしてもマイナス三のままですしね」
那子さんは体を起こして、訝しげに首を傾けた。
「だったらなんで好都合なんだ?」
「だってほら」
だってほら、と前置きしてからできる限りニヒルに言った。
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになるじゃないですか」