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とーとつに、辞書から「婚約破棄」が消えた。

掲載日:2026/06/27

「君との、婚約を破棄する」


厳かであった。まるで神託のような言い草だった。私はジッポー・ライターをカチカチやりながら、とりあえず困惑しているような顔を作った。


学園の、卒業パーティの最中である。何の前触れもなく告げられた言葉は、少々の混乱を引き起こすには十分であった。


しかし王子は自信満々の笑みを浮かべている。勇者の末裔の血は、王家に、すなわち自分にも脈々と継がれている、ゆえに自分の発する言葉はすべて正しく皆平伏して聞き入れねばならぬ――と言わんばかりの表情だった。


知らんがな、という気持ちよりも、困惑が勝る。いや実際、私は困惑していたのである――困惑していたからこそ、どういう顔をしていいのかわからなかった。とりあえず近くにいた学友の表情を借りるように、それらしい顔を取り繕って、蝋で作ったような表情で彼を見上げる。


静まり返った会場の中で、彼の太鼓持ちが、ぱちぱちと気のない拍手をしていた。


しかしそれは本当に気のない拍手だったのだろうか。王家の権威に従い、それを唯々諾々として受け入れる――それこそが阿諛追従の真髄であり本質である。冷笑渦巻く現代社会においては、シニカルな笑みさえも一種の知性と言って差し支えない。その高邁なる精神に従って、将軍の息子、宰相の息子、大司教の息子と生まれながらにして貴いことを約束させられた彼ら跡取りたちは、己の家に付随する権力に恐怖し、動悸し、あるいはよくもと慟哭さえするかもしれぬ――それらの恐怖を払拭するために阿諛追従のポーズを演じたところで、それは影である。イデアではない。高貴な人びとが知性を失おうと欲する意志など、本末転倒である。


であるなら、彼らはやはり、その発言の内容を認めながらも、欠如した根拠に立脚しようとするという矛盾に、とりあえず手を打ち鳴らしたと考えるべきであろう。


拍手は止んだ。参加者たちは顔を見合わせている。そろそろと、太鼓持ちたちがさりげなく王子の元から離れ始めた。


満足そうに胸を張っていた王子の顔が、初めて歪んだ。見目麗しい貴族たちと婚姻を続ければ、並の舞台役者など太刀打ちできぬ美貌になろう。不自然なほどに線対称を描き出す美貌が曇る。


「あのう」


と、彼にいつも纏わりついていたはずの、男爵令嬢がここで声を上げた。おおエイミー、と王子が声を出す。


「あのう、婚約破棄とは、なんでしょうか」


男爵令嬢の言葉に、王子は顔をしかめた。


「そこの女との、婚約を破棄することである」

「それでは説明になっておりません」


蚊の鳴くような声で、彼女は反論した。これではいい晒しものである。とはいえ私も、王子お気に入りの少女との一時を妨害して顰蹙を買うほどの愚か者でもないので、とりあえず固唾をのんで見守っているふりをする。ライターの火打石を、カチッと鳴らす。


「婚約破棄であるぞ」


王子はまた、厳かに言った。


「婚約破棄以外の、何がある」

「ですから、婚約破棄とは、なんであるかを尋ねているのです」

「婚約破棄……」


王子は、しばし虚空を睨んだ。それから、視線を私の方に戻した。このような厄介な事態は想定していなかったと言わんばかりである。


しかし私のせいではない。私は慌てて視線を逸らした。できることなら口笛も吹きたかったところだがあいにくそこまで芸達者ではない。


「婚約破棄とはな、婚約を、破棄することを言うのだ」

「四字熟語を、熟語に分解して言葉遊びに堕するのはおやめください」

「な」


始めて王子がぽかんと口を開けた。それから、辺りを見回した。彼は私たちが困惑していることを、ようやく認めようとしていた。彼はわなわな、と唇を震わせた。


「無礼であるぞ、貴様ら」


ひっ、と誰かが息を呑んだ。太鼓持ちが尺取虫のような歩みで王子から離れ始めた。私はとりあえずライターを手にする。シャンデリアは今日も明るい。


「ああいや、その……怖がらせるつもりはなかった」


彼は慌てて、愛想の笑みを作った。美しい笑みに、男爵令嬢も、周囲もホッと胸をなでおろす。私も胸に手を当てて、とりあえずそれらしい動きを模倣した。


「だが、そこの悪女が、エイミーに数々の非道を働いた。もはや、その行為は品位に欠ける。ゆえに、王太子の私が、婚約者である彼女を誅することに決めたのである。私は、婚約を、破棄する」

「殿下。そのう……婚約破棄とは、なんです」


宰相の息子が言った。いつも己の知性を鼻にかける男であった。その彼が恥部を全世界に晒せと命令されたかのように、屈辱に震えるようにして言った。


「婚約破棄とは、なんなのですか」

「は」


王子は今度こそ言葉に詰まった。宰相の息子は、苛立ちを隠せないように、こめかみをとんとんと指で叩いている。


「困ります、殿下。確かに王命は絶対ですが、ありもしない概念をでっちあげ、法学をないがしろにされては、道理が通りません」

「私はただ、婚約を、破棄すると言っている!」

「ですから、それは何なのです!」

「このうつけが!」


儀礼用のサーベルが抜かれた。一太刀の元に、宰相の息子の首が飛んだ。宰相の息子は、ぱくぱくと唇を動かしている。赤いカーペットの上で、憤然と生首が叫んだ。


「短気は損気というでしょう、殿下。このような非道を神が認めますか。よろしい、たとえ神が認めたとして、法を学ぶものは、誰一人としてこのような真似を認めませんぞ。さあ、暴力に訴えないで説明してごらんなさい。婚約破棄とは、何なのです。その、殿下の頭の中にしかない概念を、会場のみんなの前で、わかるように、説明するのです」

「黙れ黙れ、死人が口を出すな。私は、婚約を破棄すると言ったのだ、おい、神殿」


突然の神殿呼ばわりに、大司教の息子は一瞬かちんと来たように見えた。しかし頭を下げ、命令を待った。


「は」

「あの首を黙らせろ。そして、神の前で誓った、あの悪女との婚約を解消するのだ。お前は大司教の息子であろう。いわば、神殿が歩いているようなものだ。お前が、私とあれとの間の婚約が解消されたと言えば、誰も文句など――」

「畏まりました」


大司教の息子は、生首の元に歩いて行った。それから、静かにせえ、と一喝した。先程まで怒りのダンスを踊っていた生首は、眼鏡を押し上げようと奮闘しながら、とりあえず黙った。


「よし。よくやった。では次に、婚約を解消したと、宣言するのだ」

「あの、殿下」


大司教の息子は、生首を抱えて彼の元に戻ってくると、途方に暮れたように視線を落とした。


「その、婚約というものは、神殿に関係があるのでげすか」

「あ?」

「法律に関係していて、その上神殿まで関係しているとなると、ちょいと私には理解ができませんや。そのような複数の行政機関に跨るような案件は、基本的にどのような部署もやりたがらないもんでげす」

「なにを抜かす、お前もか!」

「そう頭ごなしに怒鳴られたって、わかんねえものはわかんねえって言ってるんでげす」

「お前も生首にされたいか!王命であるぞ!婚姻を解消せよ!」

「そりゃ悪霊を退治しろっていわれりゃやりますが。不死になる水を用意しろって言われりゃ持ってきます。死人を生き返らせろって言われたら、まあ、できんこともないでしょうがね。しかし、しかしでげす。存在しないものは無に等しい。無とは空であり、それが空である限り、それに触れるこたぁおてんとさまだってできやしないんでげす」

「殺すぞ」

「やってみろこのばかちんが」


首が増えた。首が二つ並んで、怒りのタップダンスを踏んだ。


「まずは法律を作りなさい。話はそれからです」

「司教の息子を殺しやがって。呪われちまえ!」

「黙れ、私は次期国王となる身だぞ!」

「他の貴族が認めるものか!」

「政教分離して何年経つと思ってんだこのタコ!」


怒りに任せて、王子は血塗られたサーベルを振り回した。将軍の息子の腕がすぱんと切断された。お気に入りの男爵令嬢の胴体が真っ二つになった。斬られた腕が決闘を申し込み、男爵令嬢の下半身が逃げ出す。王子は男爵令嬢の上半身を抱えたまま、将軍の息子のサーベルと火花を散らした。


「あの、婚約破棄って、なんなの?」


学友が途方に暮れたように言った。私は言った。


「多分それ、私が一番知りたい」



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