不幸労働者
【不幸代行】
報酬:¥8,000
受諾しますか?
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真壁は親指で「受諾」を押した。駅前の雑踏を歩きながら、ポケットにスマホを戻す。信号が青になり、歩き始めると、横断歩道で肩がぶつかった。
サラリーマンの持っていた缶コーヒーが、真壁のパーカーに飛び散る。サラリーマンは謝ることもせず、舌打ちをして去っていった。真壁の胸元に茶色い染みが広がっていく。
着替えもないので、真壁はそのままアパートへ戻る。階段を登る途中、濡れた鉄板に足を滑らせ膝を強く打った。
「っ……」
鈍い痛みが遅れて来る。真壁は舌打ちしながら立ち上がり、部屋に入る。強張った肩を叩きながら床に座り、コンビニで買ったサンドイッチを開ける。サンドイッチはハムが片側に寄っていて、欠損品なのか、入ってるはずの具材が一つ抜けているような気がした。
そして、その時、スマホが震えた。
【不幸の代行が完了しました】
報酬金額:¥8,000
*
そのアプリは、誰かの不幸を代行することでお金を稼げるというアプリだった。
電車の中吊り広告にも出ているし、動画サイトを見れば必ず一度はCMが流れる。街頭ビジョンでは、有名女優が柔らかな笑顔を浮かべながら、「誰かの不幸を、あなたが代わる」というコピーを読み上げていた。
利用は簡単。アプリをインストールし、口座情報を登録する。すると不定期に通知が届く。
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【不幸代行】
報酬:¥3,000
受諾しますか?
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やることは、それだけだった。
通知を受けて「受諾」を押す。すると、その日のどこかで不幸な目に遭う。財布を落とす。知らない相手に怒鳴られる。電車が止まる。鳥の糞が落ちてくる。食中毒になる。階段から落ちる。たまに骨も折れる。その代わり、金が入る。
運営会社の説明は曖昧だった。AIによる社会的リスク分散。不幸偏差の平準化。行動統計学を応用した次世代型マッチング。公式サイトにはそんな言葉が並んでいたが、真壁にはよく分からない。ただ、利用者の間では半ば常識になっていることがある。
不幸のレベルが高くなるほど、報酬金額も高くなるということ。
一万円以下なら、まだ軽い。財布を失くすとか、酔っ払いに絡まれるとか、その程度で済むことが多い。
ただ一度だけ五十万円という高額案件を受けた時は、散歩中に車が突っ込んできた。命に別状はなかったものの、ガードレールに叩きつけられて肋骨を一本折る大怪我を負った。以来、真壁はあまりにも大きな報酬の案件は警戒するようになった。
朝起きて通知を確認する。本業の仕事へ行く。その途中で案件を受ける。不幸な目に遭う。金が入る。それを繰り返して生きている。真壁の体には、治りきらなかった怪我が少しずつ増えていった。右膝の古傷、少し曲がった小指、煙草の火による火傷跡、原因不明の耳鳴り。そのどれもが、金になった。
スマホが震えた。
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【不幸代行】
報酬:¥12,000
受諾しますか?
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真壁は缶チューハイを飲みながら、しばらく画面を見つめた。一万二千円。微妙な額だった。
もちろん好き好んでこんなことを受けているわけではない。だが、それ以上に金を稼がなくてはいけない理由があった。
真壁はスマホで自分の預貯金を確認する。毎日必死に働いても一向に上がる気配のない低い給料。生活は毎月ぎりぎりで将来のための貯金なんて一切できてない。
真壁はもう一度受託案件のメッセージを開く。当然嫌なことは起きる。だが、死ぬほどではない。たぶん。
真壁は親指で「受諾」を押した。
*
駅前の安い居酒屋。油でべたついたテーブルの上に、串焼きの皿と空いたジョッキが並んでいる。店内テレビではニュースキャスターが株価の上昇を伝えていた。
向かいに座っていた、バイト仲間である佐藤がスマホを見ながら、小さく舌打ちした。
「来た?」
真壁が聞くと、佐藤は画面を伏せたまま頷く。
「いくら」
「……四百八十万」
真壁は一瞬、聞き間違いかと思った。
「四十八万じゃなくて?」
「四百八十」
佐藤は苦笑いしながらジョッキを傾けたが、泡だけになったビールはほとんど口に入らなかった。
「やめとけよ。そんな額、普通じゃねえって」
「普通の人生じゃねえんだから仕方ねえだろ」
佐藤はそう言って笑ったが、その顔色は悪かった。元々痩せていた頬はさらにこけ、目の下には紫色の隈が張り付いていた。
「娘の手術、来月なんだよ」
真壁は黙った。
「保険効かねえやつでさ。なんだっけ、先進医療? ああいうの。払えなきゃ、待機だって」
串を一本取る。冷めきった鶏皮から、嫌な油が口に広がる。
「借金は」
「できるとこ全部した。もう残ってねえ」
佐藤はスマホを指で叩きながら続けた。
「昔はさ、十万超えなんて都市伝説だったんだよ。なのに最近は平気で三十だ四十だ飛んでくる。上の連中、どんだけ不幸溜め込んでんだろうな」
テレビではちょうど、大企業の会長が慈善事業について語っていた。
『社会全体で幸福を支え合う時代です』
テロップには、天城ホールディングス会長・天城隆臣の名前が出ている。金融、物流、医療、通信、ありとあらゆる分野に手を伸ばし、最近では政府系の委員会にも顔を出している男だ。テレビの中の天城は、白髪混じりの穏やかな笑みを浮かべながら、被災地支援について語っていた。
その姿を見ていると、真壁は時々、どうしようもなく腹が立った。
自分は今日、たった八千円のために膝を打った。佐藤は娘の命を繋ぐために、四百八十万円の案件を前に震えている。なのにテレビの向こうの人間は、皺ひとつない顔で幸福を支え合うなどと言っている。
上の連中は、転ばない。財布を落とさない。知らない相手に怒鳴られない。自分たちみたいな人間が、代わりに階段から落ち、車に轢かれ、骨を折っているからだ。
佐藤のスマホが、また震えた。画面を見る。佐藤は数秒だけ黙り、それからゆっくりと息を吐いた。
「別の案件が来た」
「いくら」
「……七十」
真壁は思わず手を伸ばした。
「やめろって」
「娘が死ぬよりマシだ」
佐藤は笑った。その笑い方が、妙に疲れて見えた。
*
通知が来たのは、派遣先の倉庫で段ボールを運んでいる最中だった。ポケットの中でスマホが震える。真壁は荷物を床へ置き、汗ばんだ手で画面を開いた。
⸻
【不幸代行】
報酬:¥8,000
受諾しますか?
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こういった手頃な金額の案件はリスクも少なく、早い者勝ちになっている。真壁は迷うことなく「受諾」を押した。
それから仕事を続けていると、別の着信がやってくる。携帯に表示されたのは滅多に電話なんてかかってくることのない叔母の名前。その名前に心をざわつかせながら電話に出る。
『悠人くん? 悠人くんのお父さんなんだけど、今……病院で』
叔母の続く言葉に真壁は何も返せなかった。いつかくるはずだというのはわかっていた。わかっていながらもそれから目を背け、決して考えないようにしていた。
『今日、たぶん……』
そこで叔母の言葉が止まる。電話の向こうで、誰かが泣いていた。気がつけば真壁は倉庫を飛び出していた。
エレベーターを待つ時間すら惜しく、非常階段を駆け下りる。途中で足を滑らせ、膝を強く打った。痛みはほとんど感じなかった。駅へ向かう。雨が降り始めていた。最寄りの新幹線に乗れば、まだ間に合うかもしれない。父親とはもう何年もまともに話していなかったが、それでも、最後くらいは顔を見ておきたかった。
改札へ着いた瞬間、人だかりが見えた。電光掲示板が赤く点滅している。
【人身事故のため運転を見合わせています】
真壁は一瞬、立ち尽くした。ざわめき。駅員の怒鳴り声。スマホを握る手が汗で滑る。別ルートを検索する。高速バス。飛行機。乗り継ぎ。どれも中途半端な時間だった。
タクシー乗り場へ走る。長蛇の列。ようやく一台を捕まえ、高速道路へ乗った直後、今度は事故渋滞に捕まった。車列は、ほとんど動かない。真壁は焦燥感に駆られながら何度も時計を見た。窓の外では、赤色灯が雨を染めていた。そのタイミングでスマホが震え、通知が表示される。
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【不幸の代行が完了しました】
報酬金額:¥8,000
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真壁は、その画面をしばらく見つめていた。それから、静かにスマホを伏せた。
病院へ着いた時には、もう白い布が顔にかかっていた。叔母が何かを話していたが、ほとんど頭に入ってこなかった。真壁はただ、その場でぼんやりと立っていることしかできなかった。
待合ロビーのテレビでは、生放送の情報番組が流れていた。スタジオでは、スーツ姿の天城隆臣が笑っていて、テレビの司会者からの質問に答えていた。
『いやあ、実は今日も使ってたんですよ。最近話題になってる不幸代行アプリ』
司会者が笑う。
『え、本当ですか?』
『使いますよ。だって嫌じゃないですか。生放送の日に事故渋滞とか電車の人身事故とかに巻き込まれるの』
天城は軽く肩をすくめながら続けた。
『特に今日は大事な番組出演でしたからね。だから、そういう小さい不幸は、お金を払って誰かに代わってもらった方がいい』
『まさに現代的なリスク管理ですね』
『でしょう? 昔は運が悪かったで終わってたことを、今はちゃんと事前に対策できる時代なんです。本当にいい時代になりましたよね』
穏やかな口調だった。まるで宅配サービスか何かを説明するみたいに、天城は「不幸」を語っていた。
真壁は、画面から目を離せなかった。人身事故高速の渋滞。濡れた階段。全部が頭の中で繋がる。
もちろんアプリで代行した不幸が一体誰の不幸であるかなどわかるはずがない。ただの偶然の一致である可能性の方が高かったし、根拠なんてなかった。
それでも真壁は確信した。確信したかった。
今日、自分が受けた不幸は、こいつの不幸だった。こいつの不幸を肩代わりしたせいで、自分は父親の死に目を奪われたのだ。
佐藤の顔が浮かぶ。娘が死ぬよりマシだと言っていた時のあの疲れた笑い方。骨を折って、血を流して、命を削って、それでも金が必要な人間たち。一方で、テレビの向こう側にいる裕福な男は、笑いながら不幸を誰かに肩代わりさせている。
この社会は壊れている。真壁はそう思った。
真壁は静かにスマホを取り出した。不幸代行アプリが新しい案件の通知を知らせている。真壁はその通知を見ることなく、消す。真壁は初めて、「受諾」ではなく、別の行動を選ぼうと思った。
*
その日は雨だった。
会場前には規制線が張られ、傘を差した人間たちが列を作っていた。天城ホールディングス主催の医療支援フォーラム。政治家、医師、企業関係者、記者。入口付近には黒塗りの車が並び、警備員たちが慌ただしく無線を飛ばしている。
真壁は列の後方に立ちながら、スマホを見た。
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【不幸代行】
報酬:¥7,000
受諾しますか?
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真壁は少しだけ口元を歪めた。画面を閉じる。受諾はしなかった。もう、真壁には金はいらなかった。
会場へ入ると、空調の効いたロビーに人の熱気がこもっていた。高級な香水の匂いと、濡れたコートの湿気が混ざっている。壁際の大型モニターでは、天城の過去の慈善活動が映し出されていた。
『幸福を分け合う社会へ』
真壁は受付を抜け、ホールへ入る。壇上には巨大なスクリーンが設置され、その中央に天城隆臣の名前が表示されている。客席は既に半分ほど埋まっていた。
真壁は中央通路側の席へ座った。警備員の配置を確認する。入口付近。壇上脇。後方通路。思っていたほど厳重ではない。
開演時刻になり、照明が落ちた。拍手とともに司会者が笑顔で天城を呼び込む。
天城隆臣は、テレビで見るのと同じ顔で現れた。白髪混じりの髪。穏やかな笑み。落ち着いた足取り。何万人もの不幸の上に立っている人間には見えなかった。
真壁は立ち上がった。最初、周囲の人間はそれを質問者か何かだと思ったらしい。数人がちらりと見るだけだった。
真壁は歩く。通路をまっすぐ。一歩ごとに、父親と佐藤の顔が浮かぶ。
天城がこちらを見る。一瞬だけ、不思議そうな顔をした。その時にはもう、真壁は懐から刃物を抜いていた。
悲鳴が上がった。異変を察知した警備員が動く。だが間に合わない。真壁は壇上へ駆け上がり、そのまま天城の胸へ刃を突き立てた。
柔らかい感触だった。熱い血が手にかかる。天城の顔が歪む。真壁はさらに押し込もうとした。
横から誰かが体当たりしてくる。視界が揺れる。次の瞬間、真壁は壇上脇へ叩きつけられていた。
警備員と男たちが一斉に覆いかぶさってくる。腕を掴まれ、床へ顔を押しつけられる。誰かの膝が背中へ食い込んだ。
息ができない。それでも真壁は笑った。
壇上の向こうで、天城が倒れているのが見えた。白いシャツが赤く染まっている。
やった、と思った。やっと届いた。ずっと安全な場所にいた人間へ。自分たちの不幸の上で笑っていた人間へ。
その時、背中へ強い衝撃が走った。
誰かに蹴られたのか、それとも押さえ込まれた拍子だったのか、真壁には分からなかった。肺の奥で何かが潰れる音がした。口の中へ、生暖かい血が広がる。
周囲は悲鳴と怒号で満ちていた。救急を呼べ、という声。警察、という声。泣き叫ぶ誰かの声。
真壁の視界は急速に暗くなっていく。最後に見えたのは、壇上の巨大スクリーンだった。
『幸福を分け合う社会へ』
その文字だけが、白く浮かんでいた。
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「続いてのニュースです。本日午後、港区で行われていた医療支援フォーラムの会場で、天城ホールディングス会長の天城隆臣氏が男に刃物で襲撃されました
警視庁によりますと、午後二時過ぎ、会場内へ侵入した男が壇上へ駆け上がり、天城氏の胸部を刃物で刺したということです
天城氏は都内の病院へ搬送されましたが、命に別状はないということです
次のニュースです。本日午後、品川区のJR駅前ロータリーで男が通行人を無差別に襲う事件が発生しました
男女七人が重軽傷であり、このうち死亡したのは佐藤 恒一さん、四十二歳⸻
品川区にJR駅前のロータリー。雨に濡れたアスファルトの上へ、規制線の赤色灯が滲んでいた。
佐藤の死体のすぐそば、ブルーシートの脇に、スマートフォンが落ちている。血のついた画面が小さく震え、通知メッセージが表示される。
⸻
【不幸の代行が完了しました】
報酬:¥4,800,000




