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第8話:オレンジの森と、赤い影の襲撃

 そこは、視界のすべてが鮮やかな色彩に満たされた、特別な場所だった。

 たわわに実った魔蜜オレンジが、重そうに枝をたわませている。

 木漏れ日が果実の表面で弾け、まるで宝石を散りばめたような美しさだ。


「さあ、着いたわ。……わあ、今年は一段と豊作ね!」


 私はモップの背から降りると、さっそく収穫に取り掛かった。

 鼻をくすぐるのは、もぎたての果実だけが持つ、弾けるような酸っぱい香り。

 けれど、高いところにある実は私の背丈では届かない。


「モップ、ちょっと手伝ってくれる?」


 私がお願いすると、モップは「わふん」と短く鳴いて、巨大な体をすっくと立ち上がらせた。

 前足で枝をそっと押さえ、私が取りやすい位置まで下げてくれる。

 大きな爪を器用に使い、決して枝を折ることのないその配慮。伝説の魔獣らしからぬ、あまりに細やかな優しさに胸が熱くなる。


「ありがとう、モップ。ほんと、いい子ね」


 私が微笑むと、彼は誇らしげに目を細めた。

 収穫したオレンジの皮を指先でなぞってみる。

 厚みは十分、油分もたっぷり。

 これなら、頑固なグリフォンちゃんの羽の付け根に溜まった脂汚れも、一瞬で浮き上がるはず。


(この香りの強さなら、消臭効果も期待できそうね。あの子、最近ちょっと寝汗をかきやすいって言っていたし……)


 お客さんの喜ぶ顔を思い浮かべながら、私はバスケットをオレンジ色で埋めていく。

 平和で、満ち足りた、宝石のような時間。

 この穏やかな森に、あんな「狂気」が潜んでいるなんて、その時の私は思いもしなかった。




 ――ズゥゥゥン!!


 不意に、地面を激しく突き上げるような衝撃が走った。

 平和な鳥のさえずりが一瞬で途絶え、森全体が息を潜める。

 奥の茂みが大きく割れ、巨大な赤い影が飛び出してきた。


「ガアァァァァッ!!」


 現れたのは、身長三メートルを超える巨獣。赤兜熊(レッドヘルム・ベア)

 頭部を覆う真っ赤なたてがみが、血のように鈍く光っている。

 この森の王者とも呼ばれるBランク指定。一体相手に村が滅びるレベルの危険な魔獣だ。

 魔獣、低い声で地響きのような唸りを上げ、その瞳は我を忘れたように赤く血走っていた。


「……まぁ、なんてこと」


 迫りくる脅威を前にして、私の口から出たのは、呆れを孕んだ独り言だった。

 その巨体に泥がこびりつき、それが乾いて毛並みはバサバサに逆立っている。


「なんて汚れた子なんだろう。これじゃあ、せっかくの真っ赤なたてがみが台無しじゃない。今すぐトリミングしてあげたいわ……」


 私のマイペースな呟きなど届くはずもなく、赤兜熊は家を押し潰すほど巨大な爪を振り上げた。


 死を予感させる冷たい風が頬を打つ。

 けれど、その爪が私の髪にかすめることさえなかった。


「――ワオォォォォンッ!!」


 モップが私の前に割って入り、鋭く吠えた。

 それは種族を越えた、絶対的な強者の宣言。

 目に見えるほどの空気の波紋が、衝撃波となって空間を真っ二つに引き裂く。


 ドォォォォン!!


 巨躯を持つ赤兜熊は、まるでぬいぐるみを投げたように後方へ吹き飛んだ。

 巨木を何本もへし折りながら、森の奥へと叩きつけられる。

 モップは鼻息一つ乱さず、私の安全を確かめるように静かに座り直した。


(本当に、圧倒的ね……。モップにとっては、この子も小さなお友達みたいなものなのかしらね)


 圧倒的な戦力差。

 倒れた熊はピクリとも動かず、森に深い静かな時が戻ってきた。




 私は倒れた熊のもとへ歩み寄った。

 近づくと、戦意を完全に喪失し、全身で震えているのが分かった。

 けれど、その震えは死の恐怖からだけではない。


 うわごとのように小さく鳴きながら、視線だけを必死にある一点に向けていた。

 茂みの奥。自分が守るようにして背負っていたはずの場所。

 そして、巨大な手の中には、収穫しようとしていたのか、ぐしゃりと潰れたオレンジが握られていた。


「……自分用じゃないのね?」


 私はその必死な眼差しに導かれるようにして、茂みをそっと覗き込んだ。

 そこには、一頭の小さな子熊が、苦しそうに丸まっていた。


「キュゥ……、キュゥ……」


 子熊の口からは、不吉な、どす黒い霧のような瘴気がゆらゆらと漏れ出している。

 そのお腹は風船のようにパンパンに膨れ上がり、苦痛のために短い手足をバタつかせていた。


(この瘴気臭……まさか、『影ネズミ』?)


 子熊の口元には、黒い毛の残滓が付着していた。

 森の疫病と呼ばれる『影ネズミ』。

 それは純粋な呪いの塊そのものであり、誤って食べてしまえば、内側から体を腐食させ、死に至らしめる恐るべき害獣だ。


「あらあら、大変。拾い食いしちゃったのね……」


 私の胸を締め付けたのは、恐怖ではなく、子供を想う母親への共感だった。

 親熊があれほど荒れ狂っていたのは、襲いたかったからではない。

 死にゆく我が子を救うために、藁をも掴む思いで果実を探していたのだ。


 私は子熊の熱を帯びた額に手を触れる。

 冷たい呪いの波動が指先を刺す。


「大丈夫よ。元・幻獣保護センターの職員だった私にまかせて。……これくらい、すぐに『綺麗』にしてあげるから」


 私は背後で心配そうに鼻を鳴らすモップを振り返り、力強く頷いた。


  

――――――ଘ(੭ˊウˋ)੭✧あとがき✧――――――


ちなみに、キャンプの時の話なんですが。

帰りに、キャンプ地の木に妙な引っかき傷(・・・・・)がありまして。

その近くに「クマ出没注意!」って看板が……。


あれは肝が冷えました。

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