第五話 【観測】
暗闇は、長くは続かなかった。
懐中電灯が再び灯る。
サラの手だった。
「……大丈夫」
そう言いながら、彼女自身の声が、少し震えている。
少し離れた場所にいたタツヤが小走りで駆け寄る。
「ちょっと、こっち来て見て下さいっす」
タツヤの照らす懐中電灯の先に、さらに奥へ続く通路が口を開けていた。
その通路の先にゆっくり歩みを進める。
前に一度、辿り着いた場所。
ミサキの心臓が、嫌な速さで打ち始める。
「……ここ」
足が、勝手に前に出る。
「来たこと、あります」
サラが、何も言わずに頷いた。
タツヤだけが、少し遅れてついてくる。
「へえ」
「こんなとこ、あったんすね」
——棒読みな言い方が気になる。
通路を抜けた先、そこには異様に広い空間だった。
天井が高い。
柱が等間隔に並び、まるで地下神殿のよう。
壁には変わらず人の形をした、人ではないものが描かれている。
もちろん病院の構造では、ありえない。
ミサキは、はっきり思い出した。
ここで……
リョウが——
レイコが——
喉が、締め付けられる。
「……やっぱり」
サラが、低く言った。
「ここ、やっぱり病院じゃないよ」
壁には、見覚えのある痕跡。
——血痕に似た染み。
——削られた床。
——何かを固定していた跡。
「でも……」
ミサキは、頭で理解していても、呟く。
「なんで警察は、地下なんて存在しないって」
サラは、ゆっくり首を振った。
「“存在しない”んじゃない」
「“存在できなくされた”」
ミサキは、顔を上げる。
「……どういう意味ですか?」
サラは、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
介護施設、職場のパソコンで調べていた、民俗学の印刷物。
「日本神話にはね……」
「前に“神隠し”って概念があるって言ったよね」
「隠されるのは、人や神だけじゃない」
「土地も、建物も、記録も」
ミサキの胸が、ざわつく。
「じゃあ……」
言葉が、途切れる。
「ヒナたちは……?」
サラは、はっきり言った。
「存在してた」
「でも、“神話的に不都合”になった」
「だから——」
タツヤが、軽く口を挟む。
「消された、ってことっすか?」
その声に、ミサキの背中が、ひやりとする。
「……タツヤくん」
サラが、彼を見る。
「あなた、さっきから」
「この場所に対して、驚きがなさすぎるよ」
タツヤは、肩をすくめた。
「慣れてるだけっすよ」
「それに、都市伝説でもありがちっすよね」
「“後から無かったことにされる場所”」
——逃げ道を作る言い方。
ミサキは、ノートを思い出す。
—— 観測対象
—— 記録者
—— 呼ぶ者
そして、記録されなかった存在。
「……あの」
ミサキは、ゆっくり言った。
「前は……」
「私たち、ここに六人で来たんです」
サラが、頷く。
「うん」
「でも……」
「このノートには、五人分の“観測対象”しかないですよね」
空気が、張り詰める。
タツヤが、笑った。
「そもそも、その観測対象はミサキさん達なんすか?」
ミサキは、首を振る。
「分かるの、これはそうなんだって」
「だから」
声が、低くなる。
「“六人目”は」
「最初から、観測する側だった」
サラが、息を呑む。
「……つまり」
「“六人目”は」
「“人間として存在してから消された”んじゃないの」
ミサキの視線が、タツヤに向く。
「最初から、人間じゃなかったってことすか」
タツヤの笑顔が、ほんの一瞬、歪んだ。
「怖いこと言うっすね」
「俺、ただの一般人っすよ?」
だが。
地下空間の中央、柱の影に、人影が揺れた。
金髪。
懐かしい声。声だけだ。
——久しぶりだね。
ミサキの視界が、白くなる。
以前の記憶が、一気に流れ込む。
——笑っていた。
——説明していた。
——最初から、導いていた。
「……消されたんじゃない」
ミサキは、震える声で言う。
「消されたのは、“人間だったという設定”」
タツヤが、ゆっくり下を向いてから顔を上げる。
「早いっすね、理解が——」
その瞬間、地下の空間が、わずかに脈打った。
「……なに、今の?」
サラの声は、はっきりしていた。
怯えよりも、困惑が勝っている。
「ミサキ」
「あなた、今……なにか感じた?」
ミサキは、答えられなかった。
感じた、という感覚はある。
ただ——
“そこにいた”という確信だけが残っている。
「……分からない」
正直に言う。
「でも、前にも……ここで……」
言葉が、途中で溶ける。
サラは、地下空間を見回した。
「私は、何も見えてない」
「音も、気配も」
懐中電灯の光は、コンクリートの柱と床を、無機質に照らすだけ。
「……でも」
サラは、眉をひそめる。
「この空間、さっきより“重い”」
タツヤが、少し遅れて頷いた。
「そうっすね」
「空気、変わった感じ」
——見えていない。
——でも、分かっている。
ミサキは、タツヤを見る。
「……タツヤくん」
「なんすか?」
「さっきから」
「“誰か”がいる前提で話してるよね」
タツヤは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「え?」
「そんなことないっすよ」
無機質な笑顔。
いつも通りの、軽い調子。
でも——
否定が、遅い。
サラが、静かに割って入る。
「ミサキ」
「さっき言ったでしょ」
「前に一緒だった人たち」
「最初から、存在してなかったわけじゃないって」
ミサキは、ゆっくり頷く。
「消された」
「正確には——」
喉が、きしむ。
「“人間として成立していた痕跡”だけ」
サラは、息を吸う。
「神話的に言えば」
「“語られなくなった存在”は、消える」
「でも、裏を返せば……」
サラは鋭い目線をミサキに向ける。
ミサキは、ノートを抱き締めた。
「語る者がいれば、残る」
——記録者。
——呼ぶ者。
「……前に見た記憶、認識した時の記憶」
「それを、それだと認識した瞬間の記憶」
自然と、言葉が溢れた。
「私は、名前を呼んだの」
サラの表情が、強張る。
「真名……?」
「……うん」
ミサキは、はっきり言えなかった。
喉が、拒絶する。
「でも……」
「完全では、なかった……?」
地下の空間が、小さく、軋んだ。
サラが、はっと顔を上げる。
「今の……地震?」
タツヤが、首を振る。
「違うっすね」
「揺れたのは、ここだけっす」
——応答のような。
ミサキは、理解した。
「……不完全ってことなんだ」
声が、掠れる。
「呼びはしたけど、条件が足りなかった」
「だから“姿”までは、現さない」
「だから今は前のような、人の形も取れないんだ」
サラは、目を見開く。
「じゃあ、今ここにいるのは……」
「概念」
「視線」
「意志」
タツヤが、ぽつりと言った。
「それでも、十分っすけどね」
その言葉に、サラが鋭く振り向く。
「……あなた」
「やっぱり、分かってる」
タツヤは、困ったように笑った。
「分かってる、ってほどじゃないっす」
「ただ……」
彼は、地下の奥を見る。
「“見られてる”のに慣れてるだけっすね」
「それに、お二人が考えてるようなもんでもないっす」
ミサキの背中を、冷たいものが走る。
——同じ。
——呼ばれなくても
——常に“そばにいるもの”
サラが、低く言う。
「……姿が見えないのは」
「私たちを試すためじゃない」
ミサキは、続けた。
「“まだ壊す段階じゃない”から」
その瞬間、ミサキの耳元で、声がした。
——ちゃんと、また名前を呼んでね。
姿は、ない。
でも、確実に、声は。
あの…、タケルの声だった。
サラは、何も聞こえていない。
タツヤは、ほんの少しだけ、笑った。
サラは、しばらく黙っていた。
懐中電灯を壁に向けたまま、何かを数えるように、指を動かしている。
「……おかしい」
ぽつりと、言った。
「何がですか?」
ミサキが聞く。
サラは、顔を向けない、壁を見たまま。
「今わかった、この地下空間」
「“禁足地”に、構造が似てる」
タツヤが、軽く首を傾げる。
「でもね」
サラは、ゆっくりとミサキに振り向く。
「禁足地には“入れない”んじゃない」
「“入る理由が存在しない”場所なの」
ミサキの胸が、ざわつく。
「……理由が、ない?」
「うん」
サラは、壁に手を当てる。
「参拝する理由も」
「祀る対象も」
「願う言葉も、ない」
「なのに」
「ここは“整えられている”」
彼女の指が、壁に刻まれた溝をなぞる。
「古事記の神々は」
「役割がある」
「生む」
「治める」
「壊す」
「でも——」
サラは、ミサキを見る。
「“観測するだけの神”は、出てこない」
空気が、張り詰める。
「観測……」
「見るだけ」
「干渉しない」
「でも、見られた側は変質する」
ミサキの頭に、以前の光景が次々に浮かぶ。
——見られていた。
——最初から。
——ずっと。
「それって……」
サラは、息を吸う。
「クトゥルフ神話に近い」
「“外なる神”とか“旧支配者”の性質」
タツヤが、手を口にあて、笑いを堪えながら静かに言った。
「日本神話と、クトゥルフ神話が混ざるんすか?」
「あれは百年も歴史がない、現代神話」
「そもそも外国人の厨二病が書いた小説みたいな物っすよ」
サラは、強く頷く。
「混ざったんじゃない」
「もともと、同じものを別の言葉で書いてるだけ」
ミサキの喉が、ごくりと鳴る。
「じゃあ……」
サラは、続けた。
「神話に書かれなかった神」
「名前を持たない存在」
「役割を与えられなかった観測者」
「それを」
「人は“無かったこと”にしたの」
地下の空間が、わずかに、軋む。
サラは、周囲の変化に気づかない。
「でも、消えなかった」
声が、少し早くなる。
「語られなくても」
「見ている限り、存在し続けるから」
ミサキは、叫びそうになる。
以前の記憶と重なる、どうなるか分かる。
——やめて。
——そこから先は。
「……サラ先輩」
声が、震える。
「それ以上は……」
サラは、止まらない。
「つまり、この廃病院の地下は」
「“見るための場所”」
「人間が……」
「人間であることを保てるか」
「それを——」
言葉が、途中で途切れた。
サラの視線が、虚空に固定される。
「……ぁ…」
小さな声。
「見えた」
ミサキの心臓が、止まりそうになる。
「サラ先輩?」
サラの瞳が、細かく震えている。
「……姿じゃない」
「でも、分かる」
「“名前”を持ってないのに」
「“呼ばれてる”感じがする」
タツヤが、後ずさる。
「……それ、ヤバいやつっす」
サラが、ゆっくり笑った。
「……なるほど」
「だから、神話には——」
その瞬間。
懐中電灯が、砕けた。
真っ暗。耳鳴り。
ミサキは、叫んだ。
「サラ先輩!」
返事が、ない。
闇の中で、声が、重なる。
——知りすぎたね。
——もう人の形は保てないよ。
ミサキは、膝をつく。
タツヤの息遣いが、近い。
「……サラさん」
「今の、見えちゃいけないとこまで」
「行っちゃったっすね」
闇の奥で、何かが、サラを“記録から削除し始めている”気配がした。
闇は、完全ではなかった。
どこかで、微かに光が滲んでいる。
ミサキは、床に膝をついたまま、必死に目を凝らした。
「……サラ先輩」
声が、空間に吸われる。
返事はない。
だが——
“在る”感じだけが、残っている。
それは、人の存在感とは違った。
重さも、温度もない。
ただ ——
「ここにいたはず」という記録の残骸。
「……サラ先輩!」
立ち上がろうとした瞬間、足元で、何かを踏んだ。
——紙。
古い、施設の記録用紙。
今まではそこに無かったはず。
拾い上げる。
そこには、見覚えのある文字。
《観測対象》
《サラ》
ミサキの呼吸が、乱れる。
「……え?」
◉観測開始
対象:境界
結果:理解に到達
——書いた覚えがない。
——見た覚えもない。。
「理解に……到達?」
その瞬間。
空間が、反転した。
音が、上下を失う。
壁が、歪む。
ミサキの視界の端で、人の形が、崩れかけている。
「……あ」
サラの声だった。
だが、口から出た音ではない。
「……そういう、こと…ね…」
サラの姿は、はっきり見えない。
輪郭だけが、過去の記憶をなぞるように揺れている。
「ミサキ」
声は、穏やかだった。
「私、分かったよ」
「ここ……」
「“殺す”場所じゃない」
ミサキは、首を振る。
「やめて……」
「もう、喋らないで……!」
サラは、続ける。
「“存在を成立させない”場所、なんだ」
「だから」
「死ぬ必要もない」
「ただ——」
空間が、サラの言葉を待っている。
「“意味を持ちすぎた人間”は」
「維持できない」
ミサキの視界が、滲む。涙が溢れる。
「……サラ先輩」
「ごめんね、ミサキ……」
その瞬間——
サラの身体が、内側から折れた。
骨が砕ける音は、しない。
血も、出ない。
ただ、“構造”が崩れる音。
彼女の腕や足が、違う方向に、曲がる。
顔が、複数の角度に、同時に向く。
目が、大小に縮むことを繰り返す。
それでも、痛みの叫びはない。
代わりに——
「……なるほど…ね……」
サラが、最後に理解した者の声で呟いた。
「だから ——」
言葉は、途中で削除された。
サラの姿は、最初から存在しなかったかのように薄れていく。
床に落ちたのは、紙切れ一枚。
◉観測終了
結果:記録不可能
ミサキは、声を失った。
その背後で、タツヤが、静かに言った。
「……ここま理解するとは思わなかったっす」
ミサキは、振り向く。
「……タツヤくん」
喉が、震える。
「あなた……」
「何を、知ってるの?」
タツヤは、少し困った顔をした。
「知ってる、っていうか」
「“立場”の問題っすね」
彼は、地下空間を見回す。
「ここは」
「“直接触れない”ための場所」
「だから、俺みたいなのが必要になる」
ミサキの頭に、一つの言葉が浮かぶ。
「……外なるもの」
タツヤは、否定しなかった。
「呼ばれなくても」
「見守る役」
「壊れるタイミングを」
「見誤らないための」
ミサキの胸が、軋む。
「……じゃあ」
「私も?」
タツヤは、少しだけ、優しい声で言った。
「まだっす」
「でも」
「もう、戻れないっすね」
その瞬間 ——
ミサキの脳裏に、以前の光景が、映像のように、鮮明に蘇った。
—— ヒナの携帯 —— 暗転 —— 声が、消えていく。
「……忘れてたんじゃない」
ミサキは、呟く。
「忘れさせられてた」
闇の奥で、何かが、満足そうに息をした。
——いいところまで、来たね。
姿は、ない。
でも、タケルは、確かにそこにいた。
ミサキの視界が、ゆっくり歪む。
思考が、少しずつ
“観測される側”から
“観測する側”へと
書き換えられていく。
ここから先は
もう「探索」じゃない。
解体だ ————




