第六章「悪魔の胎動」
それからの数日間、王城の離れでは、奇妙な「尋問」が繰り広げられていた。
衛兵たちは扉の外で、時折聞こえる王女の冷徹な問い詰めと、男爵令嬢の沈黙(と彼らが思い込んでいる無言の時間)を聞き、王女の職務熱心さに敬服していた。
だが、壁一枚隔てた部屋の中では、国の根幹を揺るがす情報の譲渡が行なわれていた。
「……王室付きの主治医、ハインリヒについて」
セレスティアはテーブルに広げた配置図を指でなぞりながら、淡々と告げる。
「彼は優秀だけれど、研究欲と名誉欲が異常に強いわ。『医療先進国への留学』と『次期医師ギルド長への推薦状』、そして私が王位についた際の永続的な研究予算の確約を餌にすれば、確実にこちらの駒になる」
イリスはメモも取らず、その全てを頭に叩き込んでいく。
「王族の健康を預かる医師が裏切れば、毒殺も病死に見せかけることも自在……。最高のカードですわね」
「ええ。それに、彼の作る薬はよく効くわ」
セレスティアは次に、古びた羊皮紙を取り出した。
「それから、これが王城の『血管』よ」
それは、歴代の王のみに口伝で伝えられる、城内と王都の地下に張り巡らされた脱出路と隠し通路の地図だった。
「城の敷地内、そして王都の至る所に出入り口がある。ただし、壁の特定の石を押し込んだり、燭台を回したりといった特殊な操作が必要よ。操作手順はここに記してあるわ」
「……これほどの機密を、こうもあっさりと」
「国を燃やすのに、風通しは良い方がいいでしょう?」
そして最後に、セレスティアは少しだけ声を潜めた。
「私の身の回りの世話をしている侍女について。彼女、私の宝石や小物を少しずつ盗んで換金しているの」
イリスが眉をひそめる。
「ご存知で、放置を?」
「以前の私には、彼女を罰する資格なんてないと思っていたから。……自分もまた、親の悪事に目を瞑り、その恩恵で着飾っている泥棒のようなものだもの」
セレスティアは自嘲気味に笑う。
「でも、今は違う。彼女のその『罪』は、私たちの手足として動かすための首輪になる。脅すなり、利を与えるなり、好きに使って」
次々と提示される王家の弱点。
イリスは、目の前の王女が、自分の国を切り売りすることに一切の躊躇いがないことに戦慄し、同時に奇妙な高揚感を覚えていた。
◇
ある日の夕食。
王家のダイニングルームは、銀食器の触れ合う微かな音だけが響いていた。
最高級の料理が並ぶ中、セレスティアは行儀よくナイフとフォークを動かしながら、両親に「尋問」の進捗を報告していた。
「――というわけで、あのイリス・アッシュという娘は、先の敗戦で領地と両親を失ったことを逆恨みしているようです。国への忠誠よりも、個人的な喪失感を優先し、あのような凶行に及んだと」
セレスティアがそう告げると、上座の国王テオバルトは、極上のワインを口に含みながら、心底呆れたように鼻を鳴らした。
「嘆かわしいことだ。国への奉仕、国難における犠牲こそ、貴族として最大の誉れであるというのに」
王妃イザベラもまた、柳眉を潜めて同調する。
「ええ、本当に。本来ならば、王家のために命を散らせたことを誇りに思うべきですわ。それを『憎む』だなんて……なんと見当違いで、浅ましい考えなのでしょう」
彼らの言葉には、一片の悪意もなかった。
あるのは、自分たちこそが絶対的な正義であり、民や下位貴族は自分たちのために消費される薪であるという、純粋で無垢な傲慢さだけ。
「……おっしゃる通りですわ、お父様、お母様」
セレスティアは完璧な淑女の笑みを貼り付け、同意した。
(それを尊い貢献として敬意を抱くことなく当然のことと考える――だから、あなたたちは憎まれるのよ)
心の中で、どす黒い感情が渦を巻く。
彼らは理解しない。薪にも心があり、痛みがあり、燃やされれば熱を発するのだということを。その熱が、やがて自分たちを焼き尽くす炎になることを想像さえしていない。
「セレスティア」
不意に、王妃が鋭い視線を向けてきた。
「お前も、あの愚かな兄のようにならないよう、気をつけなさい。あの男爵令嬢は、言葉巧みに人の心の隙間に入り込む毒婦のようですからね。決して取り込まれてはなりませんよ」
母の忠告に、セレスティアは伏し目がちに、殊勝に頷いてみせた。
「はい、お母様。……ええ、十分に気をつけておりますわ」
(もう手遅れですわ。お母様)
ナプキンで口元を拭うふりをして、王女は口角が吊り上がるのを必死に隠した。
◇
いつもの殺風景な部屋。セレスティアは入るなり、努めて平静を装っていた仮面を脱ぎ捨て、焦燥を滲ませた。
「公爵家からの引き渡し要請が、日増しに強まっているわ。父上も、これ以上の引き伸ばしは限界だと言っている。……タイムリミットよ」
対して、椅子に座るイリス・アッシュは、静かに目を閉じていた。
その落ち着き払った様子に、セレスティアが言葉を継ごうとしたその時。
「――ちょうど良い頃合いですわ」
イリスが目を開く。その瞳には、計算式を解き終えた学者のような、冷徹な光が宿っていた。
「計画が出来上がりました」
王女セレスティアの顔が輝いた。
彼女は令嬢としての慎みも忘れ、イリスの座る椅子に駆け寄ると、その手を取らんばかりに顔を近づけた。
「本当!? 聞かせて、どんな手を使うの?」
その瞳は、新しい玩具を与えられた子供のように、無邪気で、狂気じみた輝きを放っている。
「……近いですわ、殿下。離れてください」
イリスは冷ややかに言い放ち、王女の体を押し戻した。そして、静かにその恐るべき計画の全貌を語り始めた。
◇
一通りの説明を聞き終えたセレスティアは、口元に手を当て、楽しげに、しかし鋭く評した。
「……随分と危ない橋を渡る、ギャンブル的な策ね」
自身の命すらチップとして賭けるその作戦に、王女は恐れるどころか興奮しているようだ。
「ええ。確かに完璧とは言えません。不確定要素も多い」
イリスは王女の指摘を認めた上で、毅然と答える。
「ですが、現状の手札で組み上げられる中では、これが最善の策です。私たちは二人で、この巨大な国を覆そうとしているのです。この程度の賭けには打ち勝たなければなりませんし、成功すればその後のために自分たちが得られるメリットは計り知れない」
イリスは立ち上がり、セレスティアを正面から見据えた。その瞳が、王女の心臓を試すように細められる。
「セレスティア殿下。確認させてください。この計画を実行すれば、あなたは実の肉親を裏切り、陥れ……そして、城で働くあなたの顔見知りの人間たちを、確実に死なせることになる。その覚悟は、おありですか?」
部屋に沈黙が落ちる。
セレスティアは小首を傾げ、イリスを見つめ返した。
「……あなたなら、もっと誰も傷つかない、スマートな策も思いついたでしょうに」
王女は、すべてを見透かしていた。
「私がどこまで出来るか、試しているのね?」
イリスは答えなかった。ただの沈黙が肯定だった。
すると、セレスティアは躊躇いもなく、まるで野原で花を摘む少女のような、無垢で残酷な満面の笑みを浮かべた。
「いいわ。全て、あなたに任せる」
それは、血の契約の完了だった。
二人の令嬢は、どちらからともなく口を開き、声を揃えた。
「二人で、この国を燃やし尽くしましょう」




