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炎へ堕ちる〜王女と男爵令嬢の国崩し〜  作者: ゆりんちゃん


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第四章「彼女の憎悪」

 王城の敷地内、その一角にひっそりと佇む離れがあった。

 王族が週末の短い休息を過ごすために建てられた、小規模な別荘のような建物。

 イリス・アッシュはそこへ移されていた。


 セレスティアがその扉の前に立つと、護衛の兵士が二人、恭しく一礼した。

「開けてください。私一人で入ります」


 セレスティアが静かに告げると、兵士の一人が慌てて制止した。

「お待ちください、セレスティア殿下!それはあまりに危険です。我々も同行いたします」

「彼女の身体検査は済ませたのでしょう?」

 セレスティアは冷ややかに問い返す。

「武器の類は一切所持していない。安全は担保されているはずですが」

「しかし、相手はあの王子殿下を唆した女です。万が一、殿下のお身体に何かあっては……!」


 なおも食い下がる兵士に、セレスティアは一切の感情を排した声で言い放った。

「これは『命令』です。あなたたちは扉の外で待機し、私が呼び出すまで誰も中に入れないように」

「……っ」

 兵士は一瞬言葉に詰まったが、王女の絶対的な命令には逆らえない。不承不承といった様子で鍵を取り出し、扉を開けた。

「……かしこまりました。御用の際は、すぐにお呼びください」


 セレスティアは頷きもせず、一人、部屋の中へと足を踏み入れる。


(――それでも主の身を案じ、命を懸けてでもお止めするのが、あなたたちの役割でしょうに)

 扉が背後で閉まる音を聞きながら、セレスティアは内心で吐き捨てた。

(私が『命令』した。強く拒んだ。だから、仮にこの中で何が起きても、自分たちの責任は問われないとでも思っているのかしら。そんなわけがないのに)

 彼女は、自分にも、そしてこの国の全てに染みついた腐敗の匂いに、静かな嫌悪を抱く。

(まあ、それも当然か。自分たちの私腹を肥やすことと、権力の維持しか考えていない王家や貴族に仕えているのです。末端の兵士の士気など、高いはずもありませんわね)


 部屋の中は、予想以上にがらんどうとしていた。

 不測の事態を警戒し、装飾の類は徹底的に取り払われている。部屋の中央に、テーブルと一対の椅子が置かれているだけ。

 イリス・アッシュは、その片方の椅子に座り、静かに入ってきたセレスティアを見つめていた。


(……こんなに、広かったのね)

 セレスティアは場違いな感想を抱いた。普段は絵画や花瓶でごちゃごちゃと飾り付けられた部屋しか知らない。何もかもが取り払われたこの空間は、まるで「空っぽ」な自分自身に相応しく、妙に落ち着いた。


 イリスが、王族への礼儀か、椅子を引いて立ち上がろうとする。

「そのままでいいわ」

 セレスティアは、それを手で制した。


 そして、イリスの目の前で、彼女自身の手で、もう片方の重い椅子を引き、音も立てずに腰を下ろした。

 その一連の行動に、それまで表情一つ変えなかったイリス・アッシュが、わずかに目を見開いた。その反応を、セレスティアは少し楽しく思う。


「……まさか。お付きの者も連れず、王女殿下が『お一人』でいらっしゃるとは」

 イリスが乾いた声で言った。

「王女という立場上、仕方なく他人の手を煩わせているけれど」

 セレスティアはテーブルの上で指を組む。

「本当は、他人に触れられるのが嫌いなの」


 セレスティアは、イリスの驚きが残る顔を見つめ、イタズラっぽい笑みを浮かべた。

「どうやらあなたを出し抜くことができたみたいね」


「……出し抜かれたのは、あなた様だけでなく、アレクシオス殿下にもですわ」

 イリスは、セレスティアの笑みに乗ることなく、淡々と答えた。

「殿下は元より、王家の権限が十三貴族会議に押さえつけられている現状に、強い不満を感じておいででした。ご自身が王となった後、自身の権力の障害として、公爵家の力が増すことを酷く懸念されていた。だから、私が少し『背中を押す』だけで、あっさり乗ってきたのです」

 イリスはふ、と息を吐く。

「まさか、何の根回しもなく、いきなり公の場で『糾弾』という愚行をしでかすとは、思いませんでしたが」

「ですが、理解できない点が。あれほど公爵家を警戒していた殿下が、なぜ、あのエレオノーラ様と婚約なさっていたのですか?」


 セレスティアは、イリスの鋭い指摘に、もはや驚きはなかった。

「父上と母上は、他人を信じないくせに、他人を侮る傾向があるの」

 それは、この国の中枢を知る、致命的な情報開示だった。

「両親は、公爵家が何を考えていようと、最終的には自分たちが『御せる』と信じて疑わなかった。だから、本来は十三貴族の持ち回りである王家との婚姻に、公爵家が無理を言って割り込んできた時も、それを『脅威』とは感じなかったのよ」

「……なるほど」

 イリスは、セレスティアの言葉で、最後のピースが埋まったかのように深く頷いた。

「ご両親が楽観視する一方で、婚約者という立場で公爵家の脅威を誰よりも身近に感じておられた。なのに肝心のご両親に理解されないことに、王子殿下はより『焦って』いた。……だから、あんなにも簡単に私的提案に乗り、あの愚行をしでかした、というわけですか」


 セレスティアは、その完璧な理解力に満足した。

「……それは自分が兄を利用していたと、白状したということでいいのかしら」


 すると、イリスは、それこそ「茶番だ」とでも言うかのように、ふ、と息を漏らした。

「どうせ私は死罪でしょう?」

 開き直った、それでいて全ての熱を失った声だった。

「王子を誑かした大罪人として、王家がここで判断するか。それとも、公爵家に引き渡されて、あの場で『間者』と断じられた罪で判断されるか。――私に残された道など、その違いだけですから」

「まぁ、私にとってそんなことはどうでもいいけど」

 セレスティアは、静かに話を変えた。


「……は?」

 今度こそ、イリスは戸惑いの表情を隠せなかった。王位継承者である兄を「利用した」という話を、「そんなこと」と切り捨てた王女に。

 その反応を愉快に思いながら、セレスティアは本題に入った。


「あなたは兄を利用して、王家と公爵家を敵対させようとした。その『目的』は何?」


 イリスは、戸惑いを消し、じっとセレスティアの目を見据えた。

 長い、探るような沈黙。

 やがて、彼女は、全てを諦めたように、ぽつり、ぽつりと語り出した。


「……私にとっては、王子殿下が勝とうと、公爵令嬢が勝とうと、どちらでも良かったのです。ただ、あの二つの大きな力の間に『亀裂』さえ作れれば。いいえ、男爵令嬢という地位では、そこまでできれば上出来だと考えていました」

 イリスの視線が、セレスティアから外れ、何もない部屋的隅へと向けられる。

「かつて、私の家は、辺境の小さな地域を治める男爵家でした」

 それは、セレスティアが知る「イリス・アッシュ」とは全く異なる、か細い声だった。


「数年前、他国の厄介事に、父を含む辺境貴族の反対を押し切って、中央は関わりました。表向きは『外交上の都合』。ですが、実態は、初陣である王子殿下に『箔をつける』ため」

「……」

「ですが、戦は失敗し、敗走することになりました。その時、殿下を含む本隊が引き返すための『時間稼ぎ』として、私の家の領地が使われたのです」


 王女は息を呑む。その頃、自分は外界を遮断するように図書館に篭っていた時期だ。外の世界の話になど、耳を傾けてさえいなかった。


「領地は戦火に見舞われ、両親は私を逃がして……死にました。私は、両親の知り合いのツテを頼るため、難民同然の状態で王都を目指しました。……途中、『革命派』とやらにも拾われましたが、私が貴族だと知ると、すぐに置き去りにされましたわ」

 イリスは自嘲するように笑う。

「生き残るために、とても言葉にはできないことをしてきました」

「……王都に辿り着き、意地でも手放さなかった先祖代々のブローチと、知り合いの貴族の証言で、なんとか貴族社会に戻ることができた」


「その間」とイリスは続ける。

「私は自分に言い聞かせていたのです。父や母、領民の犠牲は、国のためだったのだと。やむを得ない判断だったのだと。二度と繰り返さないための、苦渋的決断だったのだ、と。……そうでなければ、浮かばれない」

 だが、とイリスの声が、再びあの冷え切った色に戻る。

「貴族社会に戻り、それが全て『幻想』だったと思い知らされました」

「中央の貴族たちは、あの敗走を、私の故郷を犠牲にしたことを、『英断』と称えていたのです。『撤退戦において被害を最小限に抑えた、素晴らしい采配だった』と、殿下を讃えていました。自分たちの失敗の結果だというのに」


 イリスは、セレスティアの目を再び、まっすぐに見据えた。

 その瞳には、あの謁見の日と同じ、暗い憎悪が燃えていた。


「その時、私は王家と中央の貴族を憎みました。――いいえ、それ以上に、そんな連中を、国の『やむを得ない決断』だと信じようとしていた、私自身を、強烈に憎んだのです」

「だから、王子に近づいた。私の地位でできる、最大限の復讐を。彼らの間に、修復できないほどの亀裂を走らせてやりたかった」

 イリスは、まるで判決を待つ罪人のように、静かに目を閉じた。

「そのためならば、自分がどうなろうと、どうでも良かったのです」

 イリスは吐き出すように呟いた。

「私はここまでですね。……ただ、あのエレオノーラ公爵令嬢のおかげで、自分がどこまでできたか不透明になったのが、それだけが心残りですが」


「……あなたは、私も憎んでいる?」

 セレスティアは静かに問うた。


 イリスは目を開け、王女を見た。躊躇いも、偽りもなく答える。

「ええ。この国すべてを、燃やし尽くしたいほどには」

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