第二章「王の執務室」
夜の帳が下りた国王執務室は、暖炉の静かに爆ぜる音と、壁一面に並ぶ革装丁の本の匂いに満たされていた。豪奢でありながら、そこには国の最高権力者が住まう場所特有の、張り詰めた空気が漂っている。
その空気を震わせたのは、若き第一王子アレクシオスの熱のこもった声だった。
「――ですから父上、母上。王家の権力を妨げている十三貴族議会をどうにかしなければならないと考えてのことです。特に、議会を牛耳る公爵家の存在は、王がこの国を統治するという国家としての理を歪めています。これは異常です!」
磨き上げられた黒檀の執務机を挟み、アレクシオスは父である国王テオバルトと母である王妃イザベラを前に、自らの持論を力強く語っていた。その瞳は若々しい野心に燃えている。
――十三貴族会議。それはこの国の頂点に立つ十三家による議会である。彼らは絶大な権力を有し、過半数で王令の撤回、全会一致で王の罷免と新たな王の任命を行うことができる。現在、その議会をエレオノーラのアルテンフェルス公爵家が牛耳り、王家にも比類する影響力を有しているのは公然の秘密だった。
「私が、あのようなことをしたのはこの歪みを正しい形へと戻すためなんです。公爵家の力を削ぎ、十三貴族のうち過半数である七家を直接懐柔すれば済む話。そうすれば、忌々しい議会の傀儡となることなく、王家がこの国の頂点として君臨できるのです!」
それは、彼の目には一点の曇りもない、完璧な理屈に思えた。
しかし、その言葉を受け止めた王妃イザベラは、絹の手袋に包まれた指でこめかみをそっと押さえ、深く、長い長い溜息を吐いた。それは落胆と疲労が色濃く滲んだ、一つの「答え」だった。
「……誰にも教えられずとも、なぜそのような制度が生まれたのか、その理由にすら思い至らぬとは……」
諦観を滲ませた母の呟きに、アレクシオスがわずかに眉をひそめる。
その瞬間、それまで黙って息子の言葉を聞いていた国王テオバルトが、ゆっくりと口を開いた。彼の視線は、熱弁を振るう息子ではなく、部屋の隅のソファに静かに腰を下ろす娘――第一王女セレスティアへと向けられていた。
「セレスティア。答えられるか」
王の問いは、唐突だった。
読書に没頭していたセレスティアは、顔を上げることなく、栞を挟んで静かに本を閉じる。金糸の刺繍が施された深紅のドレスの上で、彼女の白い指がぴたりと止まった。
「今の制度が、なぜこの形になったのか」
執務室の空気が、シン、と静まり返る。
試すような父の視線と、侮蔑を含んだ弟の視線。それら全てを柳に受け流すかのように、セレスティアは虚空を見つめ、ただ一言、唇から零した。
「蓋、ですわ」
その言葉は、囁くように小さく、しかし部屋の隅々にまで染み渡るように響いた。
とたん、国王の険しい口元に満足げな笑みが浮かび、王妃もまた、我が意を得たりとばかりに静かに頷く。両親の反応の意味が分からず、アレクシオスは目を丸くし、きょとんとした顔で姉と両親を交互に見やった。
その表情を見て、国王は今度こそ隠すことなく失望の吐息を漏らした。
「……ここまで言われても、まだ分からぬか。お前は本当に……」
言葉を切り、国王は組んでいた指を解くと、息子に最後の問いを投げかける。
「貴族という生き物が、最も嫌うものは何だ?」
王子の答えを待つことなく、王は自ら断じた。
「――奴らが最も恐れ、嫌悪するのは、自らの地位や特権が脅かされることだ」
その言葉を引き継いだのは、王妃だった。彼女の瞳には、先程までの疲労の色はなく、冷徹な為政者の光が宿っている。
「ええ。我らが十三貴族に与える特権は、一見すれば過剰です。ですが、それ故に彼らの警戒の矛先は、いざとなれば挿げ替えのきく我ら王家ではなく、常に自分たちの地位を脅かそうと牙を研いでいる、数多の下位貴族たちへと向かうのです」
「その通りだ」と、王が頷く。「我らが手を下すまでもない。潤沢な蜜を与えられたあやつらは、その蜜壺を奪われまいと、勝手に下の者たちに睨みを利かせ、押さえつけ、秩序という名の『蓋』をしてくれる。我らはただ、その蓋が錆びつかぬよう、時折磨いてやればよいだけのこと」
それは、理想論の入り込む余地のない、権力と欲望を巧みに利用した統治の極意。
アレクシオスは、顔から血の気が引いていくのを感じた。彼が「病巣」と断じたものは、実は王家が自ら膿ませることで国全体の壊疽を防ぐ、巧妙な外科手術の痕だったのだ。
自分がやろうとしていたことは、国を正すどころか、沸騰する鍋の蓋を取り払い、全てを破滅させるだけの愚行に過ぎなかった。
「このようなことを起こしたのだ。何か他に考えがあるかと思えば……もう良い」
国王は冷たく言い放つ。
「沙汰が降りるまで、自室にて謹慎していろ」
何も言い返せず、ただ唇を噛むアレクシオスは、衛兵に連れられ、力なく退室した。
扉が閉まると、国王は忌々しげに呟く。
「さて、アルテンフェルス家への『償い』をどうするか。エレオノーラ嬢は『いらない』と言ったが、あれは『王家から誠意を示せ』という圧だ」
「婚約の件は当面保留とし、結論を先延ばしにすべきですわ」と王妃。「ですが、アレクシオスの失態で、公爵家に王家への『借り』を作らせてはなりません」
王妃はふと、何事かを思いついたように言った。
「そういえば、反抗的な辺境の領主がおりましたね。小規模な鉱山を持つ……」
「……ああ。彼らが反乱勢力と繋がっていた、ということにして接収し、その鉱山の利権を『謝罪の証』として公爵家に差し出すか」
「それがよろしいかと」
「うむ、それで行こう」
淡々と国の「膿」の処理を決めていく両親の会話を、セレスティアは上の空で聞いていた。彼女の心を占めていたのは、政治の駆け引きではない。
イリス・アッシュ。あの男爵令嬢の、瞳。
その時、話題が彼女のことへと移った。
「イリス・アッシュは、どうしたものか」と王。「公爵家が彼女の身柄引き渡しを要求してくるだろう。あの場で『間者』と断じた手前、彼らも引けぬ」
「あなた」と王妃が口を挟む。「エレオノーラ嬢の言葉は、十中八九、王子を黙らせるための嘘でしょう。ですが……万が一、彼女が本当に他国の間者であった場合、どうなさいますか?」
「……その場合、公爵家に渡す前に、彼女が掴んだ情報を王家が全て聞き出す必要があるな」
「もしスパイでない場合でも」と王妃は続ける。「あの愚かなアレクシオスを焚きつけ、公爵家を告発させるという大それた事態を引き起こしたのです。その目的と、類稀なる『手腕』。その方法こそ、我らが聞き出すべきでは?」
その瞬間、セレスティアの中で、霧散していた思考が一つに繋がった。
「父上、母上」
彼女は静かに立ち上がり、両親の前に進み出た。
「その件につきまして、私に一つ、考えがございます」
セレスティアは、両親の冷徹な瞳をまっすぐに見据える。
「イリス・アッシュは、危険です。仮に彼女がスパイでなくとも、王子を操り公爵家を貶めようとしたその扇動術は、他の囚人たちに対しても発揮される可能性があります。牢に入れておくのは危険かと」
「……続けよ」と王が促す。
「王家の離れに隔離し、他者との接触を断った上で、彼女の持つ情報を徹底的に聞き出すべきです。そして――その役目を、この私に拝命させて頂けませんでしょうか」
国王と王妃は、娘の予期せぬ申し出に、わずかに目を見開いた。
王はしばし考え込み、やがて頷いた。
「……良かろう。公爵家からの要求は、こちらで適当な理由をつけて時間を稼ぐ。それまでに、彼女が持つ全てを吐き出させよ。手段は、問わぬ」
「御意」
セレスティアは静かに一礼した。
(これで、口実ができた)
彼女は再び本を手に取る。その玻璃のような瞳には、先ほどまでの虚無とは違う、暗い熱が宿っていた。
(聞き出さなければならない。彼女が、どうして私と同じ――この世界すべてに絶望したような、あの瞳をしていたのかを)




