第十四章「虚像のパズル」
アルテンフェルス公爵邸、エレオノーラの私室。そこは、かつての優雅な令嬢の部屋とは程遠い、異様な空間と化していた。
壁という壁に無数の紙が貼り付けられ、床には羊皮紙が川のように巻かれ、散乱している。
「片付けては駄目よ。後で見返すかもしれないから」
整頓しようとした使用人を部屋から追い出し、エレオノーラは一人、紙の森の中心に座り込んでいた。
彼女はもう、膨大な過去の記録から「犯人」の手がかりを探すことをやめていた。城内で起きている調査チームの横暴、高まる貴族たちの不満。あの様子だと暴力沙汰になるまで時間はかからないだろう。もはや過去の因縁などという悠長なものを洗っている時間はないと判断したからだ。
彼女が代わりに行ったのは、今回の事件の経緯を徹底的に解剖し、時系列順に並べ替え、細かく分析することだった。あれから時間が経ち、様々なことが起きた今。それらを俯瞰すれば、何者が何を企んでいるのか、その輪郭が見えてくるはずだ。
カツ、カツ、カツ……。
思考を整理するために机を叩いていたペンの音が、唐突に止まる。エレオノーラの視線が、時系列表のある一点に釘付けになった。
「……待って」
彼女は大きく目を見開き、次の瞬間、バンッ! と机を強く叩いて立ち上がった。インク瓶が倒れそうになるのも構わず、彼女は震える声で呟いた。
「そんなことが……ありえるの?」
導き出された結論は、あまりにも驚くべきものだった。複雑に入り組んだ事件の糸。だが、その結び目を解いていくと、全ての事態の始まりに「ある人物」が絡んでいる。
――男爵令嬢イリス・アッシュを、地下牢ではなく城内の別荘に移そうと進言したのは誰か?
それは、セレスティア王女だ。
――毒殺未遂から王子監禁までの一連の事件。その最初の被害者は誰か?
セレスティア王女だ。
――公爵家の関与を示す手記を残して失踪したメイドの主人は誰か?
セレスティア王女だ。
――そして、城内を混乱させている「特別調査チーム」を立ち上げようと言い出したのは?
それも、セレスティア王女。
「すべての始まりに、いつもセレスティア様が関わっている……」
エレオノーラの背筋に冷たいものが走る。確かに自分が被害者になれば、誰からも疑われない。被害者という立場のまま、真相解明に積極的に関わっても、誰も不審に思わない。むしろ称賛される。これ以上ない、完璧な隠れ蓑になるだろう。
しかしいくら自作自演といえど、毒を自ら含むような真似などできるだろうか。
(――いや、主治医を抱き込んで、毒を飲まされたと証言させれば、あるいは……)
そして、思考はさらに深く、暗い闇へと潜っていく。
「気になるのは、失踪したメイドの存在ね」
公爵家の関与を示す手記を残し、姿を消したメイド。だが、徹底した捜索が行われたものの、未だにその行方はようとして知れない。そもそも、本当に行方を暗ますつもりなら、自分が犯行を行った証拠自体を残すような真似はしないはずだ。世間では、犯人と仕立て上げられ、口封じに消されたと考えられている。誰もが「遺体は見つからないようどこかで密かに処分されたのだろう」と、それ以上深く考えようとはしなかった。
その時、エレオノーラの脳裏に、恐るべき閃きが走った。二つのピースが、カチリと嵌る音を聞いた気がした。
――消えたメイド。
――焼死体として発見された男爵令嬢。
「……っ!」
エレオノーラは口元を手で覆った。別荘の火災現場で見つかった遺体は、激しく焼かれていたため、性別が女性であることしかわかっていない。ただ、そこに幽閉されていた女性がイリス・アッシュだから、当然彼女だろうと思われているだけだ。
「もし、何らかの手段で……『入れ替わり』が行われていたとしたら?」
メイドは殺され、その遺体が男爵令嬢の身代わりとして焼かれた。ならば、本物のイリス・アッシュは?
――生きている。
「まさか……」
エレオノーラは部屋の中をふらふらと歩き回る。
「もしそうなら、王女と男爵令嬢は、初めから組んでいたことになる。あの王子を焚きつけたのも、断罪劇という茶番も、全てはこの事態を引き起こすために仕組まれていたこと……?」
しかし、城内は今、調査チームによる徹底的な捜査が行われている。調査チームの構成員のあの様子では、何か証拠があれば、誰が不利になるかなど考えず声高に見せびらかしているだろう。ここまで綿密な計画を立てておいて、自分からそんな危険を招き入れるだろうか。
(……違う。王家は『被害者』として、この捜査からは除外されている!)
エレオノーラの頭の中で、無秩序に見えた事件が、一つの巨大で悪意に満ちたパズルとして組み上がっていく。
「このことを、誰かに知らせなくては!」
エレオノーラは扉に向かって駆け出そうとし――その直前で、足を止めた。荒い息を整え、自身を落ち着かせるように胸に手を当てる。
「……駄目よ、エレオノーラ。落ち着きなさい」
彼女は自分に言い聞かせる。
「確証は何もないわ。これはただの、私の推測に過ぎない」
自分ですら信じられないほどの荒唐無稽な推理だ。今、これを口にしたところで、「乱心した」と一蹴されるのがオチだ。いくら筆頭公爵家といえども、確たる証拠なしに王家を追及することはできない。
「しかし……放置しておくには、あまりに辻褄が合いすぎている」
エレオノーラの瞳に、光が戻る。もしこの推測通りだとしたら、これだけの大掛かりな工作、実行しているのがあの二人だけとは考えられない。もっと多くの人間が、組織的に関わっているはずだ。協力者の口止め、死体の運搬、工作員の移動、そして偽装工作。
「ならば、彼女に接触できる人間が関わっている可能性が高い」
王女の側近、あるいは出入りする業者、侍女たち。どこかに、王女の手足となっている「実行部隊」の尻尾があるはずだ。
「秘密を守れる者に、周辺を探らせなければ」
◇
この時点で、エレオノーラはほぼ真実に辿り着いていた。しかし、いくら聡明な彼女でも、こればかりは想像できなかったのだ。
セレスティア王女とイリス男爵令嬢は、あの断罪劇の時に初めて接点を持ったこと。そして、この国を揺るがす全ての大罪は、組織も部隊もなく、たった二人の少女だけで行われていたことなど――。




