第十三章「化け物たちの契約(くちづけ)」
古びた教会の中、埃っぽい光が差し込む祭壇の前で、セレスティアはイリスに語りかけた。
「調査チームは、今回の件とは関係ないところでいくつも不正を摘発して、貴族たちは反発を強めているわ。あなたの目論見通り、彼らは見事なほどに『成果』を出している」
セレスティアは悪戯っぽく微笑んだ。
「そして最近は、表立って不満を述べる者も出始めている。そのため父は、妥協案として調査チームの活動に期限を設けることを言い出しているわ」
イリスは静かに頷いた。
「皆が『内』への対応に精一杯で、外に目を向ける余裕がなくなっている。……時は来ました」
彼女は祭壇から振り返る。その瞳は、薄暗い堂内でも異様な光を放っていた。
「第三段階。民衆や辺境……いわゆる『外』に向けて動き出す時です」
その淡々とした報告に、セレスティアは子供が拗ねたように唇を尖らせた。
「……私にもいまだに全貌を教えてくれず、小出しにするのね」
そしてイリスの手を取り、顔を近づけた。
「私には、あなたしかいないのよ? あなたにこんなに尽くしているのに。……なのにあなたは、まだ応えてくれないのね」
イリスはわずかに顔を逸らした。
「今更あなたが裏切るとか思っていません。でも……」
その反応に、セレスティアは困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。別にあなたを困らせようとしたわけじゃないの。ただ……少し不公平だと思っただけ」
セレスティアは手を離した。イリスの瞳に、寂しさの色が滲んだのを見逃さなかったからだ。
「あなたの境遇を考えれば、信じきれないのも無理はないわ」
セレスティアは優しく微笑むと、イリスに問いかけた。
「どうすれば、私の全てを信じてくれるのかしら」
そして、まるでとっておきのプレゼントを見せる少女のような笑みを浮かべ、一冊の豪華な装丁の本を取り出した。
「だから、これを持ってきたの」
イリスが疑問を呈する前に、セレスティアは告げた。
「これは、私の日記帳よ」
指先で、分厚い革の表紙を愛おしげに撫でる。
「ここには、これまでのことを――当事者しか知り得ない罪のすべてを、事細かに書いてあるわ。筆跡を調べれば私が書いたものだとすぐにわかるし、装丁は王女である私のために特別にあつらえられたもの。言い逃れはできないわ」
セレスティアは日記帳をイリスに差し出した。
「これを、あなたに預ける」
イリスは、その日記を受け取った。ずしりと感じる重さ。それは革の表紙の重さなのか、その中に込められた秘密の重さなのか、彼女には判然としなかった。
「これであなたは、私の弱みの全てを手に入れたことになる。……これでも、不足かしら?」
セレスティアは試すように、上目遣いで尋ねた。
「どうしてそこまで……」
日記を手に戸惑うイリスに、セレスティアは首を少し傾けた。
「今の私たちの関係は、私が関係を絶てば、あなたは復讐を成し遂げられずにのたれ死ぬだけ。私が一方的に優位な立場だわ。でも、それではつまらないでしょう?」
セレスティアの表情は、どこか夢心地に見えた。狂気を孕んだ、純粋な乙女の顔。
「そのための日記よ。私が裏切っても、それをうまく使えば私を破滅させられる。例えば王家に成り代わる野望を抱いている公爵家に渡すとかしてね。……これでようやく私たちは、お互いを殺す手段を手にした、本当の意味で対等な存在になれる」
そしてイリスが手にする日記に視線を移した。
「だからあなたはそれを受け取るべきよ。いいえ、この共犯関係を続けるなら、あなたはそれを受け取らなければならない」
その言葉に、イリスは無意識に日記を握りしめた。革のきしむ音が、静寂に響く。
イリスの返事を待たず、セレスティアは「話は変わるけど」と続けた。
「最近、私たちの手で右往左往する貴族たちを見て、弱者を嘲笑っていた両親や兄がどう思い、考えていたか……それが理解できるようになってしまったの」
セレスティアは寂しげに呟いた。
「……本当は、別の形でわかり合いたかったけど」
彼女はイリスの瞳の奥を覗き込んだ。
「そして、あなたもそうでしょう? 自分の目論見通りに動く彼らを見て、復讐心とは違う……自分の内にある醜いドロドロとしたものが、歓喜の声を上げるのを感じたりしないかしら?」
「それは……」
イリスは言葉に詰まった。
「結局どんなに否定しても、私たちも彼らと何も変わらない存在だったということね。そんな私たちに、彼らを断罪する資格なんてあるのかしら」
イリスは訝しげな目をセレスティアに向けた。
「ならどうします? 今更やめますか?」
「いいえ。むしろ逆よ」
セレスティアは即答した。
「そんな自分を自覚したことで、これがどんなに愚かで悍ましいものなのかを、実感を持って知ることができた。……そして私は思うようになったの」
熱っぽい吐息が、イリスにかかる。
「こんな化け物は否定されなければならない。それを産んだ国を含めて、まとめて滅ぼさなければならないと」
沈黙し、日記帳を見つめるイリス。
逡巡するように目を瞑り、やがて、決意したように目の前の王女を見つめ返した。
「……いいでしょう」
イリスはそう呟くと、片手を伸ばし、セレスティアの頬にそっと添えた。
そして、いきなり彼女の唇を奪った。
「……っ!?」
驚きに目を見開くセレスティア。
触れ合う唇は熱く、そしてどこか冷たい、死の味がした。
唇が離れると、イリスは告げた。
「これは私の覚悟の証です。復讐を捨て切ることはできない。でも、あなたと共に破滅の道へと突き進むことはできる」
呆然としていたセレスティアの頬が朱に染まり、やがて嬉しそうな、とろけるような表情を浮かべた。
「私たちに相応しい計画を思いつきました」
イリスの声には、もう迷いはない。
「これまで公爵家の目を逸らすことを考えていましたが、彼らにも舞台に上がってもらう。いいえ、この国の全てを巻き込むことにしました」
それにセレスティアは、愛おしげに頷いた。
「いいわね。聞かせて」
そして二人は、再び唇を重ねた。
――もはや共犯などという生温い関係ではない。私たちはこれで一つになった。




