第十一章「聖域での企み」
数日後。王都の喧騒から離れた町外れの古びた教会。夕闇が迫り、ステンドグラスから差し込む光が弱くなる中、誰もいない礼拝堂を祭壇の方へと歩くシスターの姿があった。
彼女は祭壇にたどり着くと、祈りを捧げるふりをして、その裏にある隠しレバーを引いた。ゴゴゴ……と低い石の擦れる音が響き、壁に彫り込まれた神の像が横へとスライドする。現れたのは、暗い空洞――王城へと続く隠し通路の出口だった。
そこから、フードを目深に被った王女セレスティアが姿を現した。
「……酷い埃ね」
セレスティアは顔の前で手を振りながら、うんざりした様子で呟いた。
「城の警備が異常なほど厳しくなっていてよ。自分の住処だというのに、この隠し通路でも使わないと、外に出ることすらままならないわ」
「それは、王女殿下を心配する国王陛下の愛ゆえでしょう」
シスターは冗談を口にしたかのようにクスクスと笑い、フードを外したセレスティアに向き直った。
「……まさか、あなたがシスターになるとはね」
セレスティアは呆れたように、目の前の人物を見上げた。
そこにいたのは、清楚な修道服に身を包んだ、死んだはずの男爵令嬢イリス・アッシュだった。
「似合っているでしょう?」
イリスは悪戯っぽく微笑み、くるりとその場で回転してみせた。首にかけられた聖職者しか持つことを許されない銀色のロザリオが煌めき、修道服の裾がふわりと舞う。
「ええ、とても。皮肉なほどに清廉に見えるわ」
セレスティアは苦笑しつつ、周囲を見渡した。
「そのロザリオも、墓守に調達させた偽物とは思えない出来ね。……それにしても、本当にあなたがここに居を構えることに、隠し通路を管理する墓守が何も言わないとは」
イリスは事もなげに答えた。
「この国では、神の導きも、王家への忠誠も金でどうとでもなりますから」
「この地区を管理する司祭には、この教会に偽りのシスターを置くことに目をつぶらせ、何が起きても沈黙を守る契約を結ばせるのに苦労したわ。自分が何に巻き込まれるのかと酷く恐れて、お金だけでは納得してくれなかったから」
セレスティアは肩をすくめた。
「それでも黙らせたんですよね」
「王家の力はそれほどまで大きいということね。私が王になった時に教団への特別な計らい、そして彼が出世できるように支援する約束でね」
イリスは目を鋭く光らせた。
「それが私の…いえ、私たちの敵です。強大だからこそ手段を選んでいられない」
「たとえそれが人の道から外れたとしても、ね」
そしてセレスティアは教会の中を見渡し、イリスに問うた。
「それで、どうしてここを拠点に選んだの?」
イリスは祭壇を見て、冷徹に語った。
「教団は政治には関わらない。国は教団を政治に巻き込まない。それは絶対の不文律です。教団にとって国に警戒されたり、排斥の理由を与えたりするのは、布教活動の障害になります。そして国にとっても、多くの国に信者を抱える教団の不興を買うことは避けたいですからね」
彼女はセレスティアに向き直った。
「だから、この一件で教会が兵士によって踏み込まれ、調べられることはありません。死人が隠れ住むには、これ以上ないほど都合が良いのです」
「……なるほど。私たち王族にはない発想だわ」
セレスティアは感心したように頷き、表情を引き締めた。
「そして、これからどうするの?」
セレスティアの疑問に、イリスはシスターの慈愛に満ちた表情を捨て、策士の顔へと戻った。
「公爵家が身動き取れない今のうちに、第二段階に移行します」
彼女は祭壇の前で、新たな指揮を執る。
「まず、セレスティア様が中心となり、今回の『王女毒殺未遂』および『別荘放火事件』の真相解明のための『特別調査チーム』を立ち上げてください」
「私が?」
「はい。この件の被害者であるあなたが、真相究明のために陣頭指揮を執る。これならば、誰も不審に思いません」
イリスは続けた。
「そしてその構成員は、公正を期するためという名目で、十三貴族を含む『全ての派閥に属しない者』を選ぶ形にします。……ですが、ここからが重要です」
イリスは声を潜めた。
「意図的に中立を保っている者を選ぶのではありません。『派閥に属したくても属せない』、あるいは『能力はあるのに家格が低いために爪弾きにされている』……そんな不遇な、できるだけ若い者たちを採用してください」
「それ自体は、私の権限で問題なくできるでしょうけど……」
セレスティアは首を傾げた。
「なぜ、そんな人たちを? 経験不足で役に立たないのでは?」
「いいえ。彼らには、経験以上の原動力があります」
イリスの瞳に暗い火が灯った。
「それは、『派閥に属せなかった不満』と『自分を認めない社会への劣等感』、そして強烈な『功名心』です。それを利用するのです」
イリスは王女の目を覗き込んだ。
「結成式の時、あなたが彼らに直接発破をかけるのです。『この調査で手柄を挙げた者は、家格に関わらず重要な役職に就かせる』『王家は実力ある者を求めている』と」
セレスティアはハッとした。
「……そうか。彼らは今の貴族社会に不満を持っている。そこへ王女である私が『後ろ盾』となり、餌をぶら下げれば……」
「ええ。彼らは張り切るでしょう。張り切りすぎて、調査対象である高位貴族たちに対し、かなり『強引』で『無礼』な捜査を行うはずです。何しろ、バックには王家がついているのですから」
屋敷への強引な立ち入り、帳簿の押収、無礼な尋問。
失うものがない「飢えた猟犬」たちが、特権階級の庭を荒らし回る光景。
セレスティアはその図を想像し、口元を歪めた。
「当然、調査される貴族たちは激怒する。そしてその怒りの矛先は、猟犬たちではなく……その鎖を握っている飼い主、つまり『王家』へと向かう」
「その通りです」
イリスは楽しげに微笑んだ。
「王家は正義のために調査をしているつもりでも、貴族たちからすれば『王家が我々の特権を侵害し始めた』『礼儀知らずの若造をけしかけてきた』と映ります。……これで、王家と貴族の間の溝は、修復不可能なほど深くなる」
王家を守るための調査団が、王家を孤立させるための毒となる。
セレスティアは、イリスの手を取り、うっとりと呟いた。
「ええ……とても面白いことになるでしょうね」
古びた教会の薄闇の中で、二人の共犯者は静かに嗤った。




