第十章「見えない敵の輪郭」
アルテンフェルス公爵邸の正門前。
豪奢な馬車に乗り込もうとしていたエレオノーラの足が、ぴたりと止まった。
「……通れない、とはどういうことですの?」
今日は有力貴族の令嬢たちを招いた茶会に出席する予定だった。
だが、門の前には王家直属の近衛兵たちの姿があり、頑として馬車の通行を阻んでいた。
エレオノーラは扇を畳み、苛立ちを隠さずに父である公爵の執務室へと引き返した。
「お父様! どういうことですの? 門に見慣れぬ兵がおりましてよ。私の外出を止める権限が彼らにあるのですか?」
部屋に入り込むなり詰め寄る娘に、公爵は苦虫を噛み潰したような顔で、重い口を開いた。
「……エレオノーラか。すまぬが、今日の茶会は欠席しろ」
「理由を伺っておりますの」
公爵は深く息を吐き、机上の書簡に目を落とした。
「詳しくはわからん。だが、王城内で『何か』があったらしい。そして、その現場に、我が公爵家が関与していることを示す『物証』が見つかったそうだ」
「物証……?」
「ああ。そのため、真相の調査が終わるまでの間、我が家には謹慎が命じられた」
そばに控えていた公爵夫人も、不安げに口を添える。
「噂では、アレクシオス殿下と、あのセレスティア殿下の身に、何か不幸があったとか……。詳細はまだ降りてきておりませんけれど」
エレオノーラは眉をひそめた。王子と王女、二人に同時に何かが起きた?
公爵は努めて冷静に振る舞うように言った。
「陛下からの使者によれば、調査は数日で終わる見込みだそうだ。身に覚えのないことだ、すぐに疑いは晴れる。ここで下手に抗議して騒ぎ立て、調査を引き延ばすよりは、大人しくしていた方が賢明だろう」
エレオノーラは思考を巡らせる。
「整理させてください。城で事件が起き、我が家に関与の疑いがある物証が出た。……にも関わらず、兵たちは屋敷を包囲するだけで、中に踏み込んで家探しをしようとはしないのですか?」
「うむ。王家の使者からの伝言では、城内の調査にとどめるとのことだ」
「……」
エレオノーラの瞳が鋭く光った。
「それはおかしいですわ」
「何がだ?」
「もし決定的な証拠なら、即座にこの屋敷を捜索し、私たちを拘束するはず。それをせず、ただ『謹慎』で済ませ、屋敷の中を調べようとしない……。それはつまり、王家側もその『物証』とやらの信憑性を疑っていて、決定的な対立になることを恐れている証左です」
エレオノーラは父に向き直り、強い口調で言った。
「お父様。数日の我慢などと言っている場合ではありません。早急に、城で何が起きているのか調べる必要があります」
「しかし、謹慎中に兵に見つかれば……」
「構いません。身軽な使用人を一人選び、金を持たせて裏の壁を乗り越えさせてください。そして馴染みの貴族か、城内の誰かと接触させるのです」
公爵は娘の剣幕に押されつつも、困惑した。
「数日で解除されるというのに、そこまで焦る必要があるのか? 王家が我々に気を使っているのなら、待っていれば……」
「いいえ」
エレオノーラは首を横に振った。彼女の肌が、粟立つような悪寒を感じ取っていた。
「噂程度にはなっているはずです。それで大体の輪郭は掴めます」
エレオノーラは窓の外、王城の方角を睨みつけた。
「……嫌な予感がしますの。王家と貴族、それを巻き込んだ何かが起きようとしており、この『謹慎』はその始まりではないか。そんな気がしてなりませんわ」
◇
深夜、公爵邸の執務室。
重厚なカーテンが閉ざされた密室に、裏口から潜入させた使いの者が戻ってきた。彼が持ち帰った情報は、アルテンフェルス公爵家の想像を絶するものだった。
「……な、なんだと……?」
報告を聞き終えた公爵は、顔面蒼白になり、ソファに深く沈み込んだ。
使いの者が震える声で告げた内容は、凄惨かつ異常なものだった。
――セレスティア王女が晩餐会で毒殺されそうになったこと。
――その直後、離れの別荘で火災が発生し、男爵令嬢イリス・アッシュが焼死したこと。
――あろうことか、その火災現場に第一王子アレクシオスがおり、放火と殺人の容疑で牢に投獄されたこと。
――そして、公爵家が関わったとされる何かしらの証拠が発見されたこと。
「なるほど……これは、詳細は話せないはずだ」
公爵は震える手で報告書の走り書きを握りしめ、呻くように呟いた。
「王家の醜聞どころの話ではない。毒殺、放火……国がひっくり返る大事件ではないか」
夫人が青ざめた顔で胸元を押さえる。
「唯一の救いは、その証拠とやらの信憑性を、王家側も疑っているということですわね。もし王家がそれを真実と断定していたら、今頃この屋敷は兵に踏み荒らされ、私たちは処刑台の上でしたでしょうから」
公爵はギリリと奥歯を噛んだ。
「誰だ……誰がこんな真似を。我が公爵家に不満を持つ者の仕業か?」
「心当たりは?」
とエレオノーラが静かに問う。
「多すぎるな」
公爵は吐き捨てた。
「十三貴族の筆頭である我が家を妬み、その特権を欲して取って代わろうとする家など山ほどある。あるいは過去に排除した下位貴族の恨みか……数え切れないほどいる」
両親が「見えざる敵」の影に怯える中、エレオノーラだけは、氷のような冷静さで情報を反芻していた。
「……それにしても、おかしいですわ」
「何がだ?」
「お父様、お母様。冷静になって考えてください」
エレオノーラは、父の手から報告書を取り上げ、卓上に広げた。
「これだけの凶行――王女への毒殺未遂、別荘への放火、王子の失脚。城内の警備をかいくぐり、これほどの大事を成し遂げられる『何者か』が、なぜ、肝心の『公爵家を陥れる証拠』だけ、お粗末なのですか?」
エレオノーラの指摘に、公爵夫婦は顔を見合わせる。
「お粗末、とは?」
「王家が即座に断定できないほど、信憑性が疑われていること。……もし、犯人の目的が我が家を貶め、破滅させることにあるのなら、もっと徹底的で、反論の余地のない完璧な証拠を捏造するはずです。これだけの大それた実行力があるのですから、それくらい造作もないはず」
エレオノーラは美しい眉根を寄せた。
「まるで、『公爵家を疑わせること』自体が目的で、実際に私たちを断罪することは二の次であるかのような……。何か、別の意図を感じます」
「我が家を貶める、それ以外に何かあるのか?」
公爵の問いに、エレオノーラはゆっくりと首を振った。
「わかりません。ですが……目的は私たちではないのかもしれません。あるいは、私たちが『動けない』状態を作ることこそが狙いなのかも」
情報が足りない。このまま屋敷に閉じこもっていては、見えない手によって盤面が書き換えられてしまう。
エレオノーラは決然と父を見据えた。
「お父様。謹慎が解けたら、いえ、多少無理を通してでも、すぐさま陛下に謁見を求めてください。そして詳細を聞き出すのです。この違和感の正体を突き止めなくては、取り返しのつかないことになりますわ」




