世界の命運を握る父子の対話
裸足のままアスファルトを駆けていった。
足の裏に伝わる衝撃は、普通は痛いはずだ。
なのに今の俺には、高級な低反発クッションの上を走っているような、妙な浮遊感しかなかった。
「クソッ、クソクソクソッ! 勇者だの聖女だの異世界だの……!」
頭が沸騰しそうだった。
走って、走って、気がつけば自宅近くの公園のベンチに座り込んでいた。
夕暮れ時の公園には、もう子供たちの姿はない。
全力疾走したのに、少しも息が乱れていなかった。
「……冷やそう。まずは頭を冷やせ」
自分に言い聞かせ、俺は水飲み場へと向かった。
金属製の古びた蛇口。これを捻れば、冷たい水が出る。
いつもの、何の変哲もない、ただの日常だ。
「よし、落ち着け。全部親父のドッキリだ。トラックだって、最新のVR技術か何かで……」
自分に言い訳をしながら、俺は蛇口を捻った。
火照った頭を冷やすために、めちゃくちゃ冷えた水が欲しかった。
――グイッ。
「……あ」
ハンドルを回した瞬間、よくわからないけどヤバいと感じた。
指先に宿った奇妙な熱が、水道管を通って出てくる水に移っていく。
水は蛇口から出た瞬間、まるで生き物のように動いて凍り付いた。
「は、はは」
笑えない冗談だ。真冬でも、蛇口から出た水がすぐに凍るなんてあり得ない。北の方だって、もっと時間を掛けて凍っていくはずだ。
夕方になってこれから冷えてくる時間でも、勝手に水が氷になるとは考えられなかった。
だが、目の前の現実は変わっていない。
蛇口の先から、透明な氷の柱が地面に向かって伸びている。
それも、ただ凍ったのではない。俺が『めちゃくちゃ冷えた水』を望んだからか、氷からは白く冷たい冷気が、異常なほど立ち上っていた。
「……嘘だろ」
俺は恐る恐る、その氷の柱に触れた。
冷たい。間違いなく氷だ。
俺の体温で溶ける気配すらない。
「止まれッ!」
俺は慌てて蛇口のハンドルを反対に回した。
だが氷は止まることなく俺の焦りに反応するように、氷は蛇口を伝って水道管の方へと逆流し始めた。
メキメキメキッ!!!
金属が悲鳴を上げ、公園の蛇口が爆散した。
水飲み場の周囲の地面は白く凍りつき、夕暮れの公園が一瞬にして極寒の世界へと変貌した。
「おいおい、初っぱなから派手にやるじゃねぇか、ソウタ」
背後から、聞き飽きた親父の声がした。
振り返ると、親父がニヤニヤしながら、凍りついた水飲み場を眺めていた。
「……親父」
「俺が得意だった『水を操る魔法』、まさか無意識に氷まで作るなんてな」
親父は俺の横に並び、凍りついた地面を足で叩いた。
「もう認めた方が楽だぜ? お前は、この世界の『普通』って枠には収まらねぇんだよ」
自分の手を見た。
俺は、ただ蛇口を捻っただけだ。
「……嫌だ」
「嫌か、ごめんな。父さんたちの事情に付き合わせちまって」
「こんなもの認められない」
「ソウタ」
親父の声が、これまでになく低く響いた。
「普通に生きたいなら、なおさら向こうに行くべきだ。今のままじゃ、お前は街一つ簡単に壊せる『災害』になっちまう。……お前の望む『平和な日常』は、それで守れるのか?」
「……ごめん、何の話?」
「え? 違うの?」
「いや、氷が出せるなら夏場にクーラー使わなくていいから電気代節約できたし、かき氷とか屋台で買ってたのバカらしくなっただけなんだが? なんで、もっと早く言ってくれなかったんだよ!?」
「いや言ってたじゃん! 千回くらい言ってたでしょ!? それより、したり顔で言った父さんの気持ちはどうなるの? 父さんの心配返して!?」
「……だって親父。この氷、俺の体温でも溶けないんだろ?」
俺は、蛇口から突き出た氷の柱を指差した。
「最近、電気代の補助金が終わって家計が圧迫されてるんだぞ。この氷があれば、エアコン代も抑えられる。かき氷屋だって、シロップ手に入れば原価は少なくて済む。浮いたお金で最新家電買えるんじゃないか?」
「お前、トラックに跳ねられて無傷だった直後に考えることが生活防衛かよ! お父さんたちの給料、そんなに低くないよね?」
「まぁ、低くはないんじゃない? 二人が散財しなければ、の話だけど」
「そ、それは……」
親父が頭を抱えてしゃがみ込む。
さっきまでの『世界の命運を握る父子の対話』みたいな空気は、俺の算盤勘定によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
「当たり前だ、俺は十五歳だぞ? 将来の年金だってもらえるか怪しいんだ。使えるものは親の遺伝子だろうが水を操る魔法だろうが、全部使って節約するのが一番だ!」
「……その考え方、本当に誰に似たんだか。父さんの母さん、お前のお祖母ちゃんを思い出すよ」
親父は呆れたように溜息をつくと、俺の肩に手を置いた。
「いいかソウタ。お前が家計を守りたいなら、なおさら向こうに行くべきなんだよ」
「……なんでさ? 円安って言ったって日本にいた方が色々便利だろ? アニメもゲームもマンガもサブカルチャーが揃ってて飽きないし、ご飯も旨くて戦争も起きないじゃないか」
「円安って……そりゃあ異世界貿易で少しはやり取りあるけど、できるだけ影響を抑えるために一般には公開されてないんだが……ってその話は今は置いておいて。向こうにはな、父さんや母さんと同じか、それ以上にアホな考え方で、とんでもない無駄遣いをして家計をぶっ壊してる奴らが三人もいるんだ。というか父さんも母さんも派手なお金の使い方なんて全然してないし」
「三人も……?」
俺は、両親が異世界に置いてきたという三姉妹の顔を思い浮かべようとした。
もちろん会ったことはないが。
「……放置してたら、あいつらマジで破産するぞ?」
「……もしかして、父さんと母さんの散財って」
頷く父さんの言葉に、俺は凍った地面に膝から崩れ落ちた。
「アクアベール家の三姉妹。あの子達の破産は、父さんと母さんが稼いでなんとか食い止めているが、いい加減に限界だ。父さんと母さんは異世界に行きたくても女神様から止められて、これ以上行けない。こっちで死んで異世界転生して、さらに転移して戻ってきたなんて特例中の特例だから、これ以上特別扱いできないらしい」
さらっと父さんは言っているが、二人とも一回死んでるんすね。
確かに、髪の毛の色とか目の色とか変わっているわけだ。
「頼む、あの三姉妹たちをなんとかしてくれ!」
俺の脳内に、家計簿が真っ赤に染まるイメージが浮かび上がった。
特売の挽肉九十八円で一喜一憂している俺にとって、それは万死に値する愚行だ。
「しかも、だ。お前のその『溶けない氷』。向こうの世界じゃ希少な魔導資源として、金貨の山に変わる」
「……金貨」
「ああ。お前が家計を握れば、姉妹たちの暴走を止めつつ、優雅な暮らしが送れる。どうだ? やってみないか?」
俺は、凍りついた蛇口を見つめた。
異世界転移にも勇者にも興味はない。
だが、国家予算級の無駄遣いをする姉妹の財布の紐を締め、老後は安心して優雅に暮らす生活遅れるのだ。
最高だ! こっちで高校生やってるより、ずっと良い!
勉強頑張っても、金稼げるわけじゃないしね。
「……親父。向こうの世界、税金は?」
「……は?」
「所得税と住民税。あと、社会保険料の控除はどうなってる」
「……ごめん、忘れた。父さんも母さんも疎くて」
「ダメ親父め……よし、決めた」
俺は蛇口から手を離し、立ち上がった。
「その三姉妹の更生と、アクアベール家の財政再建……俺が引き受けてやる。その代わり、俺を元の世界に返す手段もちゃんと用意しておけよ。貯まった金貨を持って帰るからな」
「……ったく逞しいな、息子よ。じゃあ、まずは帰るか。母さんに話して、異世界市役所で転出届と諸々の手続きをしてから、女神様に話を通して、それと」
親父がいつになく真剣な顔でブツブツ独り言を放しながら歩いている。
俺はその後ろ姿を追いながら、頭の中で『異世界家計簿』の構成を考え始めていた。




