雲隠の刻
この短編『雲隠の刻』は、源氏物語に残された“空白の章”――「雲隠」の謎を軸に、
語られなかった物語の存在と、「語り手」という役割について描いた作品です。
古典に詳しくなくても問題ありません。
文学、歴史、神話、SF、ミステリー……それらが交差する“語りの迷宮”を、
楽しんでいただけたら幸いです。
プロローグ:欠けた章
夏の終わり、湿気を含んだ風が京の古書店街をかすめる午後。楠木遥は、古びた和綴じの冊子を手にしていた。墨の色も褪せたその写本の最後の頁には、ありえない文字が記されていた。
「雲隠」――
源氏物語五十四帖、その最後を飾るはずの章。その名は知られていても、その中身は残っていない。だが、目の前の写本には、まるで物語が続いていたかのような形跡があった。
しかも、その章には奇妙な注釈が書き添えられていた。
> 「光る君、東海の風を渡り、星の座を踏みて昇天す」
> 「是、アストライアの子なり」
遥は目を見開いた。アストライア――ギリシャ神話の正義の女神。乙女座の星となった神が、なぜ平安の物語の末尾に現れるのか。
ページの隙間に挟まれていたのは、断片的な異国の文字。甲骨文字、インダス文字、そして何か星図のような走り書き。
「これは……物語を繋ぐ“鍵”?」
瞬間、背後の風が止まり、時間が軋むような音がした。彼女の見る世界が、かすかに揺れた。
「物語の向こう側」に、何かがある。
遥の直感が告げていた。これはただの古文書ではない。時空を越えて編まれた“語られざる歴史”――それが今、彼女の手の中で、再び物語ろうとしていた。
第一章:星の地図
京都大学文学部の研究室。冷房の静かな唸り音のなかで、楠木遥は写本のページをライトボックスに透かしながら、ひとつひとつの筆致を確認していた。
「これ、やっぱり……おかしい」
雲隠の章があるとされる写本の裏打ちには、極めて微細な筆跡で、星座と連動するような図形が描かれていた。赤外線撮影でようやく浮かび上がったそれは、日本の暦とはまるで一致しない――いや、それどころか、バビロニア式天球図に酷似していた。
横にいた准教授の川辺が、苦笑いを浮かべる。
「遥くん、まさか源氏物語とバビロニアを繋げようとしてる?」
「ありえないとは言いませんよ。でも、この“図”は偶然じゃない。乙女座、天秤座、そしてペガサスの並び……これ、秋の星座群です。アストライアが消えた空と一致する」
「源氏物語が星に繋がっていると?」
「いいえ。むしろ、星に語らされた物語だと思います」
川辺は半ば呆れたように、しかし本気で否定もせずに言った。
「君の仮説、面白い。でもそれ、どこに繋がるっていうんだ?」
遥はそっと、もうひとつの断片を机の上に置いた。インダス文字の破片だ。先週、留学中の先輩が送ってきた資料の中に、偶然見つけたものだった。
「この文字列、“アム”という音を示してる可能性があります。“アム”は、サンスクリットでも“神の吐息”って意味になる」
「神が語った物語、ってわけか」
「もし、世界の神話や文学が“ひとつの中心”から始まっているとしたら? 神話、歴史、文学……ぜんぶが“語らせられた”としたら?」
川辺が真顔になる。
「君、どこまで掘るつもりだ?」
遥は静かに写本を閉じた。
「“雲隠”の先――つまり、物語の終わりの、その向こう側です」
その夜、遥は夢を見る。
星の海を歩く、ひとりの男の姿。彼の背中に、白銀の袍を着た女が寄り添っていた。男の名は、光る君。彼が踏みしめるたびに、星がひとつずつ灯っていく。
女がつぶやいた。
> 「語りなさい。あなたの罪と、私の声を――」
遥が目覚めたとき、部屋の窓から覗く空に、乙女座がくっきりと浮かんでいた。
第二章:失われた語り手
翌朝、遥は再び写本を開いた。表紙の裏には、墨がにじんだような丸い印があった。どこかで見覚えがある。スマートフォンを取り出し、昨夜夢に出てきた星図と照らし合わせる。
それは星座の中心――北極星の位置を示していた。
「やっぱり、“物語の中心”がある……この写本は、ただの写しじゃない」
写本の最終ページ、“雲隠”と書かれた下に、かすかな余白があった。黒いインクではない、赤茶けた色――まるで血のような。
> 「此ノ物語、語リ手ヲ失フ時、真実ハ雲ニ隠レリ」
遥は息をのんだ。語り手を失う? 源氏物語の語り部は、紫式部の姿を借りた“誰か”だとされてきた。だがもし、“語る者”そのものが消されたとしたら?
「“物語の語り手”が失われる時……」
その瞬間、研究室の蛍光灯がパチンと鳴って消えた。部屋に闇が落ちる。目の前の写本が、まるで呼吸をしているかのようにページを揺らし始めた。
そして――
ページの奥から風が吹いた。
古紙がめくれ、紙の隙間から広がるのは――星空だった。
いや、それは夢ではなかった。遥は、机に手を置いたまま、意識だけが星の間に滑り込んでいた。天の川が縦に走り、その中に漢字、ギリシャ文字、インダス文字が光の粒となって流れている。
そして、その中心に、ひとりの女の影。
「あなたが、“次の語り手”?」
女は微笑んだ。着物に似た白い衣をまとい、長い髪は風にたなびいていた。彼女の周囲に、物語の欠片――夕顔の断末魔、パンドラの壺が割れる音、項羽の怒号、そして紫の上の泣く声が、渦のように流れている。
> 「物語は語り継がれるものではない。選ばれた者が“再び語り起こす”のよ」
遥が口を開く。
「私が……語るの?」
女は頷いた。星のきらめきが、遥の瞳に降り注ぐ。
> 「さあ、“あなたの雲隠”を始めなさい」
第三章:六条院の影
白い霞が視界を覆った。星のきらめきが遠ざかり、次第に彼女の足元に畳のきしみが戻ってきた。香の香りが漂い、衣擦れの音がする。ふと見ると、自分の服装が平安の女房装束に変わっていた。
「ここは……まさか」
目の前に広がるのは、四季の庭に囲まれた壮麗な邸宅。春の花が咲き乱れ、鳥のさえずりが風に乗って聞こえてくる。
遥は知っていた。これは――六条院。光源氏が建立した、四季ごとの町を持つ夢のような邸。
誰かの気配がした。奥から、女童が一人、遥を不思議そうに見つめている。
「おまえさま、どちらより? …まさか、右近さまのところのお方?」
遥は返す言葉を失い、ただ頭を下げた。夢ではない。ここは、物語の中だ。“語りの奥”に引き込まれたのだ。
歩き出すと、縁側にひとりの女性が座っていた。長い黒髪に、紫の単衣。すぐに名が浮かんだ。
紫の上。
しかし、彼女は遥に目を向けることなく、手のひらに乗せた小さな白梅の花を見つめていた。
「……わたくしも、語られることでしか生きてはこなかったのね」
その声は確かにあったが、周囲には誰もいない。まるで彼女の心が、遥にだけ語りかけているかのようだった。
遥は恐る恐る声をかけた。
「あなたは……知っているのですか、“雲隠”の先を」
紫の上がそっと振り返る。瞳の奥には、計り知れない哀しみが宿っていた。
「雲隠とは、語り手が語ることをやめた瞬間なのです。そのとき私たちは、光る君を見失いました」
「見失った……?」
紫の上は立ち上がった。背後の障子が風でふわりと揺れ、そこに影が映った。
男の影。ひとりの貴公子が、遠くからこちらを見つめている。淡い衣に月光をまとい、その目にはなにか決意が宿っていた。
光源氏――彼はまだ“消えていない”。
遥ははっきりと悟った。
“雲隠”とは死ではない。退場でもない。語られなかった、もうひとつの物語があったのだ。
彼女は心の中で呟いた。
「私が……その続きを、語る」
第四章:御息所の鏡
六条院の秋の町。夕暮れの風が、紅葉した楓の葉をさらっていた。遥は、ひとり歩いていた。どこからともなく、胸騒ぎがする。
風の音に紛れて、かすかに女の呻きが聞こえた。
「なぜ、私だけが“悪しきもの”として語られるの……」
ふと見上げると、朽ちかけた東屋の奥に、ひとりの女がいた。黒く濡れた髪。瞳には影。薄絹の袖から覗く手が震えている。
「六条……御息所……?」
遥が名を呼ぶと、女は静かに顔を上げた。そこには怒りでも嫉妬でもない、深い孤独があった。
「わたくしは、誰かの“怒り”の象徴などではありません。愛されたかった。ただ、それだけ」
遥は息をのんだ。語られてきた御息所像――嫉妬深く、夕顔を呪い殺した生霊――その“語り”そのものが、彼女の真実を歪めていたのだ。
女は手のひらを差し出した。そこには一枚の鏡。
「これが“語りの鏡”――すべての物語は、語り手によって姿を変えるのです」
遥が鏡を覗き込むと、そこには無数の場面が映った。
夕顔が怯える顔。御息所がうつむく顔。源氏が冷たく目を逸らす横顔。
それらは、どれも語られたとおりではなかった。語られた“後”の苦しみ。語られなかった“言葉”。
「あなたは、“物語を修正する者”なのですね」
御息所の声が、遥の心の奥に響いた。
> 「ならばどうか、私の物語を“もう一度、語り直して”」
遥の手に、鏡が吸い込まれるように溶けた。そして目の前の御息所の姿も、紅い楓の葉とともに霧散していく。
――残ったのは静寂と、語られざる真実の重み。
遥は呟いた。
「物語が誰かを傷つけるなら……私は、語りなおす。別の言葉で、別の光で」
第五章:光る君の最後の手紙
夜の六条院。すべての町が静まり返り、虫の音さえ遠ざかる頃、遥はふたたび“春の町”の書院に戻っていた。
紫の上の部屋だった場所。今は、誰もいない。
襖がわずかに開いていた。そこに一枚の和紙が置かれていた。誰が置いたのかもわからない。だが、それは間違いなく彼の手になるものだった。
光源氏――光る君の、最後の言葉。
遥は震える手でその紙を開いた。
> 「かくて、我が影は月に溶けぬ。紫の香をたどるも、ついに道を見失いぬ」
> 「人の世に愛を問いたれど、返るはただ静けき風」
> 「この身、語られしゆえに、語られることを望まじ」
> 「雲を隠すは、我が願いなり」
それは、“語られること”そのものに疲れ果てた男の、ひそかな祈りだった。
彼は、愛され、憧れられ、描かれ続けた。だが、同時に――誰かの幻想としてしか生きられなかった。
「語られる限り、私は誰かのものだったのだろう」
その思いが、雲隠という章の“沈黙”を生んだのだ。語られなかったのではない。語らないことを選んだのだ。
遥の目に、涙が滲んだ。物語の奥底に、こんなにも人間的で、寂しい決意が眠っていたとは。
ふと、風が吹いた。和紙が舞い、天井へと昇っていく。
そのとき、遥は声を聞いた。静かな、しかし確かな声。
> 「あなたは、続きを語る者。ならば、“物語の出口”もまた、あなたが決めなさい」
遥は頷いた。語られなかった物語を、語り直すためにここに来たのだ。
そして今、彼女の言葉で、“雲隠”の向こう側が始まる。
第六章:風の語り部
遥が目を覚ましたのは、研究室の机の上だった。
窓の外には朝の光が差し込み、現実の時間はほとんど動いていなかった。しかし、遥にはわかっていた。自分は確かに“語られざる物語”を通ってきたと。
目の前にある写本の「雲隠」の頁。そこに、たしかに昨夜まではなかった言葉が、今は浮かび上がっていた。
> 「風、語るものなき世にて、ひとり佇む」
> 「物語は、語り継がれるものに非ず。語りなおされるものなり」
> 「名もなき者が風に問うたとき、そこに“語り部”が生まれる」
遥の頬を、風が撫でた。
写本の隅に、新たな記号が加わっていた。それは、ギリシャ文字で“Λόγος(ロゴス)”――言葉、真理、理性を意味する文字だった。
「物語の中心には、語り手がいる。けれど、その語り手は“絶えず変わり続ける”」
遥は静かに語り始めた。写本にペンを走らせる。
――六条御息所の怒りを、
――紫の上の寂しさを、
――光源氏の沈黙を、
そして、語られなかった全ての声を。
彼女は理解していた。この世に完成された物語などない。語り手が変わることで、世界もまた、語り直されていくのだ。
どこかで風が鳴った。語られなかった物語たちが、そっと耳元でささやく。
> 「もう一度、語ってくれてありがとう」
遥は顔を上げた。学者としてではない。読者としてでもない。
“語り部”としての自分が、今ここにいる。
エピローグ:現代社会への語り直し
あれから一年。楠木遥は、大学の講義室で「物語と言語意識」という新しい授業を担当していた。学生たちは、ノートパソコンを開きながら真剣に彼女の言葉に耳を傾けている。
彼女は黒板に、ひとつの問いを記した。
> 「誰が語るかで、物語は変わる」
> 「あなたは、何を語り直しますか?」
源氏物語は今も古典として残るが、その中に描かれた女性たち、怒り、沈黙、愛のかたちは、長く「定義されたまま」だった。語り手が紫式部であること、光源氏が理想の男性であること、御息所が嫉妬の化身であること――それらは語りの“型”として受け入れられてきた。
けれど、遥は知っている。語られ方が変われば、評価も意味も変わるということを。
六条御息所は、“怒れる女性”ではない。語られる場を奪われた存在だった。
紫の上は、“理想の妻”ではない。生きることに迷いながらも、自分を愛そうとした女性だった。
光源氏は、“英雄”でも“罪人”でもない。ただ、語られることに疲れた、人間だった。
遥は、学生たちに語る。
「物語の“再解釈”は、過去を壊すことではありません。
それは、沈黙してきた声に耳を傾けることなんです」
教室の窓から風が吹き込んだ。どこかで、木の葉がふるえる音がする。
語られなかった人々。名もなき感情。失われた章。
それらが、今この世界にあふれている。
だからこそ、遥は問い続ける。
「あなたの“雲隠”は、どこにありますか?」
-完ー
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語では、“物語が語られなかった理由”と、“語られることの意味”をテーマにしました。
六条御息所や紫の上の心の奥にある「語られなかった声」を、少しでも現代の言葉で掬い取れたらと思いながら書きました。
読後に少しでも「自分が語られていない部分」に思いを寄せていただけたなら、
書き手としてこれ以上ない喜びです。
感想や考察など、どうぞお気軽にお寄せください。