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<短編>色を失った世界で

作者: 文月フミ

 この世界から色が消えたのは、いつのことだっただろう。


 人の肌も、青々とした緑が宿る木も、色とりどりの花も、赤黄色の地も、透き通った川も、群青の海も。そして、露草色が広がっているはずの空だって。

 世界の全てが色を失って、単色になった。

 今、ここにあるのは一面のモノクロームのみ。



 いつの日か幼い頃、薫ばあちゃんから手渡された白黒写真の中のよう。


 「これがねえ、薫ばあちゃんのちっちゃい頃の写真だよ。今の凪ちゃんと、ちょうど同い年だねえ」


 薫ばあちゃんの表情を思い出すと思わず笑みが零れるけれど、あれは、あくまで写真の中だけの光景だ。

 薫ばあちゃんの幼い頃だって、当然ながら世界は色で溢れていた。

 昔も今も変わらずに、そしてこの先も永遠に、沢山の色で溢れていくはずだった。


 それなのに、この世界から色が消えたのは、いつだっただろう。

 上手く思い出せない。しかし、


 〈誰1人として取り残すことなく、全ての人を平等に、健康に、些細な悩みすら持つことなく、尊重されながら、自由に日々を過ごせるように。全ての人が安心して過ごせるように留意する〉


 そんな希望を引っ提げて、世界から様々な概念が消えたんだ。


 病気という概念が消え、永遠の時間を得た。


 自然災害という概念が消え、永遠の空間を得た。


 欲求という概念が消え、永遠の平穏を得た。


 人種という概念が消え、世界は色を失った。



 これは私たちが多方面から進歩を遂げすぎた結果なのかもしれない、と、そう思うけれど、真の意図は分からない。


 私以外の人は皆、

 「色があった世界より、色をなくした世界の方が平和で平等で幸福だ」

 口々にそう囁いていた。


 それでも、私は覚えている。

 薫ばあちゃんと見上げた露草色の空を。

 雨空のあとの虹の綺麗さを。

 空に広がる色彩の深みを。

 この世界できっと私だけが、その潤いを覚えている。



 10年前。私がまだ小学校1年生のころのこと。

 漁に出ていたお父さんが3ヶ月ぶりに帰ってくることになった。


 一刻も早く会いたくて、帰りのホームルームが終わるや否や教室を飛び出る。

 先生さようなら、と叫んで廊下を走り抜け、校門をくぐり、商店街を颯爽と走っていた。

 朝お母さんが結んでくれたポニーテールには、赤い宝石のような髪飾りが2つちょこんと乗っている。お誕生日にお父さんから貰った大切な髪飾り。

 私は宝石と共に風に乗って、息を切らして走っていた。


 その時、

 ぽつん。


 一粒の滴が私の頬を濡らした。


 ぽつん、ぽつん、ぽつんぽつんぽつん。

 雨だ。


 雨は、次第に強くなり、あっという間に小さな私の体では立っていられないほどの強さに変わった。

 次第に下がる気温が、しんしんと身体を冷やす。白い靄が広がって、前が見えない。

 研ぎ澄まされた耳に、雷音がずしりと響く。遠くで聞こえていたはずの轟音が、神輿のようにどんどんどんと迫りくる。


 早くお父さんに会いたいのに。それだけなのに。楽しみにしていた日なのに。


 どうして今日に限って雨なんか! 

 雨なんか大嫌い! 


 私は致し方なく、かろうじて視界に入ったオレンジ色のビニール屋根の下で雨宿りをすることにした。



 「おやまあ、おやまあ。ずぶ濡れになって。中に入りなさい」


 薫ばあちゃんと話したのはそれが初めてだった。


 「怖がることないよ。あれだろう。漁師の悟くんちの娘ちゃんだろう。真理子ちゃんからよく話は聞いてるよ」


 父を悟くん、母を真理子ちゃんと呼んだ薫ばあちゃんは、私を中へ招き入れた。どうやらここは薫ばあちゃんのお店らしい。ショーウインドウの中には、大きな赤いお肉とお惣菜が沢山並べられている。

 薫ばあちゃんはつま先立ちで頭上の棚を開けタオルを取り出すと、私の全身を拭いた。

 ふわふわの白い犬のようなタオル。石鹸の香りが鼻を掠める。


 「名前、言ってごらんなさい。言えるかい?」

 「……えっと、あの。な、なぎ……」

 「あ?」

 「凪……」

 「はいはい、凪ちゃんね。わかりましたよ。もう安心なさい」


 薫ばあちゃんはそう言ってタオルを机に置き、よっこらしょ、と言いながらショーウィンドウの中に手を入れた。


 「ここは肉屋だから肉しか置いてないよ。メンチカツ、好きかい?」


 こくりと頷くと、薫ばあちゃんはメンチカツを茶色い袋に包んだ。まだるっこくてすまないねえ、この年になるとねえ、と言いながらゆっくりとこちらに歩いてくる。


 「凪ちゃん、泣き止んだかい」


 しわしわの手でがしがしと私の頭を撫でた。


 「もう、大丈夫だからねえ。雨が止んだら、真理子ちゃんに迎えに来て貰おう」


 そっか。私、泣いていたんだ。びしょ濡れのせいで気が付かなかったけれど、突然の雨が悔しくて、怖くて、心細くて、泣いていたんだ。


 「めそめそして、ごめんなさい」


 気が付いてしまうと今度は、めそめそからわんわんと泣いて、お腹が空いて、手のひらいっぱいの大きなメンチカツを一気に平らげた。


 「泣いて良いのさ。泣ける時は、たくさん泣きなさい」


 メンチカツを食べ終わるころ、薫ばあちゃんがそう言った。


 「あの降り方は、たしかに通り雨よねえ。もう止んだわあ」

 続けて呟いて、お店の外へと歩いて行った。

 後ろに手を組んでゆっくりと歩く背中を、かすかな陽が照らしている。


 「凪ちゃん、こっちへいらっしゃい」


 私が首を傾げると、いいからいいから、と微笑みながら手招きをする。

 口に残った油を袖で拭きつつ薫ばあちゃんの隣へ向かった。

「ほおら見てごらん」

 言われるがままに、私は空を見上げた。


 「うわぁぁぁ」

 空には、大きくて綺麗な虹がかかっていた。思わずため息が漏れる。


 もしも昼間に織姫と彦星がいたならば、この虹を橋にして欲しい。そんなことを考えてしまうほど幻想的で立派な、半円の虹だった。


 「空も虹も、綺麗だねえ。雨上がりの空は本当に綺麗だねえ」

 「うん。とってもきれい」


 気がつくと、目の前に広がる美しさに、それまでの悔しさや怖さや心細さなんてすっかり忘れてしまっていた。


 「空の色は、露草色に見えるねえ」

 「つゆくさ、色」


 知らない色の名前にもごもごとする私に、薫ばあちゃんが目を細める。


 「凪ちゃん。虹は何色か知っているかい?」

 今度は、答えを知っている問題が出た。


 「七色! ようちえんで、ならったよ」

 「そうだねえ。七色でも間違いではないね」

 「まちがいではない? もっとあるの? それとももっと少ないの?」


 薫ばあちゃんは、あんまり知られていないから2人だけの秘密だよ、と耳元で囁いて空を指さした。


 「虹には、この世にある全ての色が含まれているのさ」

 「すべての色」


 「そうさ。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫だけじゃない。例えば赤と橙の間には、茜色や緋色。黄と緑の間には、松葉色や萌木色。藍色と紫色の間には、桔梗色や葡萄色がある」


 当時の私には、名前からその色を想像することは難しかった。しかし、それでも、私の胸は弾んだ。あぁ今この世界にある全ての色を見上げているんだ、そう思った途端、顔がぽっと熱くなった気がした。


 そうして2人並んでじっと眺めているうちに、虹は少しづつ空に吸われて消えていった。


 「虹は、予告も無しに現れてすぐに消える。だから、下を向いてちゃあ気付かない。この彩りを見るためには、心の潤いも必要なのさ」


 幻想のような虹が消えたあとも、私の心臓は激しく波打っていた。それは、緊張や怒りといった類のものではない。

 薫ばあちゃんはきっと、この感情を心の潤いと呼んでいるのだろう。


 だから、私は覚えている。

 薫ばあちゃんと見た虹の綺麗さを。

 空に広がる色彩の深みを。

 瑞々しい感情に出会った喜びを。


 だから、色を失った今の世界は、決して平等なんかじゃない。

 平和なんかじゃない。間違ってる。


 「あらまあ。凪ちゃんじゃないの。大きくなったわねえ」


 その時、後ろから懐かしい声がした。

 はっとして振り向くと、会いたいと願ってやまなかったその人の姿があった。


 「薫ばあちゃん……!」


 「あらまあ。また泣いてるの。大きくなっても変わらなくて安心したわよ」


 薫ばあちゃんはそう言ってけたけたと笑った。

 私が泣いている? 不思議に思いつつ、手の甲で自分の頬を触ると濡れていた。私はまた、めそめそと泣いていたのか。洋服の袖で涙を拭いた。


 「あのね、私、この世界に虹をかけたいの」


 「どうしてまた。急に」


 薫ばあちゃんが、不思議そうな顔で私を見つめる。


 「世界から色んなものを消して、無くして。これをみんなが平和と呼ぶとしても、私は違うと思う。これは、平和や幸せや平等なんかじゃないと思う」


 薫ばあちゃんは、ただ静かにうんうんと頷く。


 「私が雨宿りしたあの日、薫ばあちゃん言ったでしょう? 虹には、この世にある全ての色があるんだって。それを見るためには、心の潤いが必要なんだって」


 この世界に心の潤いはあるの? みんなはこのままで良いの? ねえ、本当に? 世界に色を取り戻したいと、そう願わないの?


 涙に覆われた口が言葉に躓いて、思わず下唇を噛む。


 「じゃあ凪ちゃん、雨を。雨を降らせてちょうだい」

 薫ばあちゃんが口を開いた。


 「雨を降らせる? 私が?」


 「そうよ。この世界の秘密を教えてあげるから、その代わりに」


 「秘密?」


 薫ばあちゃんはあの日のように、秘密だよ、と私の耳元で囁いた。


 「実はね、誰かが誰かを愛おしく想って泣いた時だけ、この世界は単色じゃなくなるんだ。空から雨が降る」


 「その雨には色があるの?」


 「そうさ。それはそれは綺麗な、色とりどりの透き通った雨が降る。雨粒は、宝石のように光輝いて落ちてくる」


 「色とりどりの雨?」


 「ああ。だから、この世界の皆がその雨を待っている」


 薫ばあちゃんはポケットに手を入れて「見るかい?」と言って、小さな巾着袋を取り出した。

 紐を解いて手のひらに中身を出すと、無数の小さな宝石がぱらぱらと落ちてきた。


 「この間降った雨を拾ったんだ。美しいだろう」

 「凄く綺麗。これが雨粒なの?」

 「そうさ。凄く綺麗なんだ」


 薫ばあちゃんは雨の宝石をつまんで、一粒あげよう、と私の右手に握らせた。間近で見ると、透き通ったルビーの宝石に似ている。


 「この雨が降ると、大きな大きな虹がかかる。そして、虹が消えるまでの時間、世界は沢山の色に包まれるんだ」


 薫ばあちゃんは話し続けた。


 「人の肌も、青々とした緑が宿る木も、色とりどりの花も、赤黄色の地も、透き通った川も、群青の海も。そして、露草色の空だって」


 私は宝石を眺めながら呟いた。

 「やっぱり皆、本当は色が恋しいんだね......」


 「そうかもしれんなあ」

 思いもよらぬ答えに顔を上げる。


 「じゃあ、どうしてわざわざ世界から色を無くしたの? 色をなくす必要なんて無かったよね? どうして?」


 薫ばあちゃんは、遠くを見つめて微笑んだ。


 「この世界が平和で平等であること。それは確かなのさ。永遠に続く最高の場所であることに間違いはないから」


 「ごめん。分からないよ」

 私はまた視線を落とした。


 「凪ちゃんにはまだ早いんだから、分からなくって当たり前さ」


 「まだ早いってどういう意味?」


 「だって、凪ちゃんはまだ、不帰の客じゃあないだろう」


 「フキの客?」


 そう聞いた時、頬にぽつんと一粒の雨が当たって地面に落ちた。


 しゃがみこんで手に取ると、それは透き通るように美しい瑠璃色の宝石だった。


 「綺麗」


 ぽつん、ぽつん、ぽつん、ぽつん。

 瞬く間に、空からゆっくりと色とりどりの雨粒が降り注ぐ。

 きっとこれが、薫ばあちゃんの言っている宝石の雨なんだ。


 そうして宝石が積もる地面に、虹がかかった。私と薫ばあちゃんの足元を虹の色どりが染めていく。


 はっとして空を見上げると、虹は空からぐるりと大きな円を描いて地上に降り注いでいた。

 私たちを囲むように、虹の輪が広がっている。


 「虹が半円じゃなくて、輪っかになっているね」

 まるで飛行機の中から虹を見た時のように綺麗な輪。


 「そうだねえ。虹は、おひさまと反対の位置にかかるだろう。普通、おひさまが天にあるから半円になる」


 「うん」


 「だけど、この世界はおひさますら、私たちと平等なのさ。ほら、あそこ」


 薫ばあちゃんが指す方向を見ると、大きな太陽が地上でゆらゆらと揺れていた。


 「おひさまがあそこにあるから、虹が輪っかになって見えるのさ」


 嘘でしょう。こんなに近くに太陽が。


 「あっちにはお月さまもいる」

 私は、両手で口を抑えた。


 あたりを見まわすと、全ての美しいものたちが、私たちを取り囲んでいた。


 空も、虹も、太陽も、月も、星も、海も、山も、川も、花々も、動物たちも、人も、その全てがここにある。いつの間に。いつからここに?


 「気が付いたかい? 世界が沢山の色で彩られているだろう」


 そう。

 全ての美しいものがあるだけじゃない。全ての美しいものがここで、色づいていた。

 赤や橙や黄や緑といった色では形容しがたい、麗しい色。


 この世界にいる皆が願う思い思いの色が見えているのだよ、薫ばあちゃんはそう話した。


 足元の虹をそっと踏むと、文字通りの虹色がさざ波のように震えて混ざり合う。

 虹の波と共に、地面に降り注いだ宝石が天高く舞い踊った。


 「たしかにあるんだね。ここには永遠の……」


 そう言いかけた時、薫ばあちゃんが声を荒げた。


 「凪ちゃん、これ以上ここにいちゃだめだ。もうおうちに帰りなさい。目を瞑って」


 「どうして? どうしてなの?」

 薫ばあちゃんは、私の肩を掴んでぶんぶんと顔を横に振った。


 「この雨は、凪ちゃんを想って、悟くんと真理子ちゃんが泣いている雨なんだ」


 「え? お父さんとお母さん?」


 そう言った途端、薫ばあちゃんの声が遠く霞み、視界がだんだんと薄暗くなっていった。

7 / 7

 「……凪ちゃん。凪ちゃん!」

 名前を呼ばれて、ゆっくりと目を開けた。

 白い天井が広がっている。


 あれ。私はいつからここにいたのだろう。


 「凪ちゃん! 大丈夫? 凪ちゃん?」


 声がする方を向くと、大粒の涙を流しながら私の手を握るお母さんとお父さんの姿があった。


 「あれ。私どうして」


 「凪ちゃんはね、商店街で事故にあって丸2日寝たきりだったの。目を覚まして本当に良かった」


 部屋を見渡すと、病院のベッドの上で点滴に繋がれていた。


 「私、今まで薫ばあちゃんと一緒だった」


 頭がぼうっとする。


 「え? 薫ばあちゃんと?」

 お父さんが目を見開く。


 「うん」


 「......あらそうだったの。薫ばあちゃんに再会できたのね」

 お母さんが涙拭いて目を細めた。


 「お父さんお母さん、ちょっと待って」

 はっとして布団から右手を引き出した。ゆっくりと拳を開くと、そこには赤いルビーのような雨粒が握られている。


 私は思わずベッドから立ち上がり、病室の窓にかけられたカーテンを開けた。


 「やっぱりそう。本当にあるんだ、天国」

 空には、大きな半円のアーチを描いた虹がかかっていた。


 ーー〈誰1人として取り残すことなく、全ての人を平等に、健康に、些細な悩みすら持つことなく、尊重されながら、自由に日々を過ごせるように。全ての人が安心して過ごせるように留意する〉


 薫ばあちゃん、これはそういう意味だったんだね。

 天国にいる皆が、誰1人として取り残されることなく、平等に、幸せに、安心して暮らせるように。そんな皆の願いが詰まっているんだね。


 私の頬は、きっと今も溢れる涙で濡れているだろう。でも、それで良いんだ。泣いて良いんだ。だって、


 「向こうでは、ちゃんと雨が降っているんだよね」


 めそめそだって、わんわんだって、私は泣き虫のままで良い。


 きっと今ごろあの世界には、宝石の雨がきらきらと降り注いでいる。


 平和と永遠を願う全ての人たちが、潤った心で空の虹を、全ての美しい色を、見ているのだから。

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― 新着の感想 ―
表現の綺麗なお話ですね。 随分と非現実的な世界観だと思ったのですが、最後まで読んで納得しました。 きっと薫ばあちゃんも微笑んでいるのではないでしょうか。 読ませていただきありがとうございました。
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