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退廃世界に勇者はいらない  作者: 小松 戯作
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序章 虹が消える 現実が始まる

どうしたって面白くならなかったので供養します

 虹が特別なものでなくなったのはいつからだろう。

 雨上がりには決まって空を見上げて、虹のあるなしに一喜一憂して、ともすればその日の日記まで書き換えてしまうような、そんな非日常の象徴を。僕は一体いつから特別に感じなくなってしまったのだろう。

 穏やかな春の陽気の中、しっとりと湿った土に寝そべり、空に架かる虹を眺めながら、僕はぼうっと、そんなことを考えていた。不思議なものだ。外に出ればいつだって視界に入っていたはずなのに、空に厚みがあることさえ今の今まで忘れてしまっていた。

 

「あの」

 耳慣れない、少女の声がした。風鈴が微かに音を立てるようなその声は、草木を揺らすそよ風によく馴染む。

「どうか、なさいましたか?」

 流暢な日本語に似合わない、腰まで伸びた金色の髪を風に揺らしながら、見知らぬ少女が僕のことを見下ろした。小さな女の子だ。身長はおそらく百五十もない、小さな女の子。顔つきや体つきから見るに、小さいというより幼いという表現の方が近いだろうか。十一か、十二か、その辺り。少女の着る紺色のワンピースは、僕の通っていた小学校の制服に似ていて、少し懐かしい気分になる。

「体調でも崩されたとか」

「そういう訳じゃなくて──いや……そう。なのかな?」

 少女が怪訝に眉を顰める。しかし、そんな顔をされたって僕にもよく状況が飲み込めていないのだから仕方がない。

 伸縮性に乏しい安物のスーツで起き上がって、改めて辺りを見渡す。背後には山。眼下には鄙びた町。どこへ目をやっても背の高い建物なんて見当たらなくて、その場でくるりと一回転するだけで稜線を指でなぞることができる。そんな山間の田舎町に、気がつけば僕は立っていた。

 しかし、そもそも僕はどうしてこんな山の中にいるんだっけ。そして何故、僕はスーツを着ている?仕事は三ヶ月も前に辞めたはずなのに。

 どうやらまるで寝足りないようで、あるいは過度に寝すぎてしまったようで、記憶には強い靄がかかっていて、どうにもはっきりしない。

「何か、お困りのようですね」

「……まぁ、困っていると言えば、困っている。のかな」

「でしたら宿へ案内します。着いてきてください」

「え、宿?宿って──」

 言いながらポケットを叩く。財布やスマートフォンは当然として、塵の一つも入っていなかった。クリーニングに出したきり一度も着ていなかったのだ。当然と言えば当然だが……

「悪い。僕今、無一文なんだけど」

「それならば尚のこと、放っておく訳にいかないじゃないですか」

 少女はそう答えると、僕の方を振り返ることもなく、町の方へ下っていく。

 こうなってしまっては追う他なさそうだ。別に宿泊先を探している訳じゃないけれど、電話かなにかを借りられればそれでいいか。と、僕は少女に続いた。



 荒れたアスファルトを十分ほど歩いて辿り着いたその宿の外観は、旅館やホテルというより小さな古い御屋敷の様相で、察するに民宿のようなものらしい。

 よく手入れされた小さな日本庭園の飛び石を渡って、少女はガラガラと音を立てながら戸を引いた。肩越しに覗き込んだ内観は、外観を裏切らない。『ひいおばあちゃんの家』と聞いて誰もが思い浮かべる感じ。

「楓、いますか?」

「……はいはい、おかえり、レインちゃん。今日は早かったね」

 少女が声をかけてからしばらくすると、奥の部屋から割烹着姿の少女がやってきて、僕を見るなり、ははぁ。と納得したように頷いた。どうやら彼女が「楓」らしい。

 金髪の少女の方は「レインちゃん」。日本人名ぽくもあり、外国人名ぽくもあり。聞いただけでは表記は分からない。

「しばらく彼に部屋を貸してあげて欲しいんです」

「えっ」

 驚いてレインを見る。急に何を言っているんだこの子は。

「うん。いいよ。どうせこの時期はお客さんも入らないしね」

「いや、僕は──」

「では楓、後は任せます」

「はいよー。気をつけてね」

 レインは適当に会話を済ませると、僕を楓に押し付けて宿の外へ去っていく。二人とも、僕の意向などお構い無しだ。

「さて、一応、自己紹介くらいしておこうかな。ボクは楓。この宿の主人だよ。ヨロシクね!」

 身長は百六十五近くはあるだろうか?女子としてはやや背が高く、肩口でばっさりと切りそろえられた髪は透き通るような青に染められている。

「……慧だ。屋代慧、宜しく」

 取り残された二人に気まずい沈黙が流れる。静けさに耳鳴りがしそうで慌てて口を開いた。

「あのさ、さっきの子が言っていたことだけど、僕は別に宿を探してるとかじゃなくて、ただ会社に連絡するために電話かなにかを貸して貰えればそれでいいんだけど……」

「うん?無いよ。電話なんて。ここは見ての通りの田舎だからね」

 なんでもないことのように楓は言って、こっちこっち。と僕を手招く。

 ……本当だろうか?電話がないなんて。実家近辺は電波が入らない。なんて話を武勇伝みたく語るやつが同期に一人いたけれど、ここじゃ電話すら繋がらないとは。宿としては死活問題なんじゃないだろうか。と、下世話にも僕は思った。

 板張りの廊下を軋ませながら進むと、楓は突き当たりの部屋の前で立ち止まって、襖を開けた。

 艶の無い天井。色の褪せた障子。所々に毛羽の立った畳が敷き詰められた、寂びの六畳一間。床の間には触れたら崩れそうな掛け軸が飾られていて、その掛け軸の隅では、猫が丸くなって眠っている。

 部屋中隅々まで清潔に保たれてはいるし、大きな不満があるわけではないけれど、二度目の旅行では別の宿泊先を選択する。そんな絶妙な宿だった。

「慧くん。で、良かったよね?この部屋で良ければ好きに使ってよ。あ、お金とかは全然気にしなくていいからね。一週間でもひと月でも、好きなだけ居てくれていいから」

「いや、さっきも言ったけど僕は──」

「まぁまぁ、わかってるって。取り敢えず一晩しっかり休んでから考えなよ。お仕事のことか、一旦置いといてさ」

 楓は優しく微笑んで、あんまり気を揉みすぎないようにね。と言い残し、去っていく。廊下を軋ませる足音が聞こえなくなったのを確認して、僕は大きく息を吐いた。

 まともに話を聞かないながらも、嫌に親切な二人だった。

 人を見る目に自信があるわけではないけれど、ネガティブ・オプションで金を巻き上げてやろう。だとか、そんな裏は感じない。

 ただひたすらに、純粋な親切心。

 無償で部屋すら貸し出すほどの。一体なぜ……

「あ」

 一つだけ、思い当たるところがあった。僕がこんな格好をしているから、二人は僕のことを自殺志願者か何かだと勘違いしたんじゃないだろうか。上下共にスーツ姿で、鞄も財布も持たず、革靴を履いたまま山で寝そべっている姿を見つけたら、勘違いするのも無理はない。

 二人の対応が小慣れていたのも、きっとあの山が自殺の名所か何かで、僕みたいなやつが現れるのはよくあることなのだろう。そう考えればこの過剰な優しさにも合点がいった。

 ……二人の早とちりとはいえ、申し訳ないことをしてしまったな。これでは二人の善意を利用しているみたいじゃないか。

 僕は別に、そういうのじゃ──

 そういうの、じゃ……


 ああ。いや、そうか。

 あまりの衝撃に記憶が曖昧になっていたようだけれど。

 僕は。僕はついさっき。

 確かに死んだのだった。


 時速七十キロで迫る、重さ四十トンの鉄の塊は、あの時確かに僕の全身を打ち、左腕を吹き飛ばして行ったはずなのに、一体全体どういう訳か、僕の左腕は、僕の左肩にピッタリとくっついて離れない。

 幽霊にでもなつたのか。いや、二人には僕の姿は見えていたし、僕は物にだって触れられる。

 生き返った?傷一つなく?一体何故──

 ……。

 …………。

 まぁ、いいか。

 そんなことは、どうでも。

 僕は別に、生まれ変わりたくて死んだのではない。死にたくて死んだのだ。

 それを思い出してしまった以上。こんなところでのんびりしている訳にはいかない。さっさと死ななくては。

 僕は極力音を立てないように襖を開け、廊下を歩き、玄関の戸を引いて、気づかれないように外へ出た。


 緩い下り坂を今度は登って、五分ほど経っただろうか。彼女はまたしても僕に声をかけた。

「お出かけですか?」

 レイン。と言ったか。金髪の少女が脇道から僕を見つめる。意外そうな表情ひとつしないので、ひょっとしたら待ち伏せをされていたのかもしれない。

「いや、まあ、なんというか──」

 ええと。なんと言い訳をしようか。

「……そうですか。やはり貴方も命を……」

 どくん。と心臓が跳ねる。命を擲つ罪悪感なんてとっくに感じなくなっていると思っていたのに、こんなにも小さな子供に見透かされると流石にこたえてしまう。

「……なんのことだか」

 僕はそう繕って、微笑みかけた。

「何があったのかは知りませんが、あまり思いつめると不安が生まれますよ」

「不安が……何?」

「不安が生まれますよ。と」

 その言い回しが引っかかって首を傾げると、これが『不安』です。と、両手で抱えていた茶色の何かを僕に見せた。なんと言ったか。目と口の所に穴の空いた、先の丸まった円柱型の……

「埴輪だな」

 口に出すと、しっくり来た。埴輪。少なくともフアンなんて名前ではなかったはずだ。……この辺りではそう呼ばれているとか?いやいや、魚じゃあるまいし。

「埴輪型の『不安』ですね」

「……不安って、悩みとか心配とか、そういう?」

「悩みや心配が人の形となって現れたもの。と、言われていますね」

「人の形ねぇ……」

 じっと間抜け面を眺める。……まぁ、元を辿れば人ではあるか。

「失礼ねぇ。人の顔ジロジロ見てくれちゃって」

 急にどこからか恰幅の良さそうな女の声がして、それに合わせるように埴輪はぱくぱくと口を開けた。というより、埴輪が喋っている……?

「どうせアンタも、こんなに太ましい女は初めて見たぜ。……とか思ってんだろ?」

「いや、思ってないですけど……」

 嘘ではない。太っているとか痩せているとか以前に、雌雄の判別すらつかないし。

「私だって別に食べたくて食べてるんじゃないのよ?元はと言えばご近所のお爺さんのせいなのよ!」

「お話を伺いましょう」

「あらそう?悪いわねぇ」

 レインは埴輪をくるりとまわして、顔をつきあわせる。

 これは……僕はもう、この場を離れても良いのだろうか?なんだか知らぬ間に井戸端会議に巻き込まれてしまったようで、こうなってはなんとなく逃げ出し辛い。

「ご近所のお爺さんがね、沢山野菜をくれるのよ。それはもう、文字通り腐るほどに。この間は白菜を六玉でしょ?その前はネギを十二本だし、ついこの間なんてじゃがいもを大きいボウルに二杯も!」

「白菜やじゃがいもはともかく、ネギを十二本は使い道に困りますね」

 ……そこなのか?論点は。

「だけど、ウチは息子と二人暮しでしょう?息子はほら、あんまり野菜好きじゃないし、そうすると結局私が食べることになるじゃないですか。捨てるのももったいないし。だけど、それだけ食べれば当然というか、鏡の中の私がどんどん丸くなっている気がして、去年まで着ていた服を出すのも怖くなってねぇ……」

 ……まるで僕には関係のない話だったけれど、まあ、要するに。

「太ってしまったようで不安。ということですね」

「ああっ、そんなハッキリ!」

 ひいぃ。と埴輪が悲鳴をあげる。口に出されるのは嫌だったらしい。

「ですが、頂くのはいつもお野菜なのでしょう?それなら沢山食べてしまってもあまり太りはしないのでは?」

「今まではそう思ってたけど……それでもお芋は違うでしょう?」

「確かにそうかもしれませんが、こうは考えられませんか?今までは野菜でお腹をふくらませていた分、寧ろ痩せていたのではないですか?太ったのではなく、体重が戻っただけですよ」

 埴輪はハッとしたように腰を反らす。いや、顔を上げたのか。紛らわしいな、一頭身。

「そうか。そうよね。元に戻っただけよね」

「ええ。きっと」

「ああ、そうよね。なんだか安心したわ……」

 その直後の光景に、僕は目を疑った。

 レインの言葉を聞いたその直後、埴輪は白く眩く輝き出したかと思うと、サラサラと細かい砂のようになってレインの手の中で崩れた。

 ぽかんとする。今、何が起こって──

「これが『不安』です。今のものは私が解消しましたが、貴方もあまり思い詰めると、こういうものが生まれますよ」

 手に残った砂をさらさらと用水路に流しながら、レインは言う。そういえばそんな話をしていたのだった。

「先程のものくらい小さな悩みならいいですが、悩みが大きくなればなるほど、『不安』も大きくなります。そうなればもう手がつけられませんよ。……本人が亡くなってしまえば『不安』も消えてしまいますが」

「……まぁ、よく分からないけど、僕は平気だよ。ご忠告ありがとう」

 いえ。と小さく言葉を返して、少女はその場に立ちすくむ。まだなにか僕に用があるのだろうか?……この先へ死にに行こうとする僕を監視するつもりかもしれない。このまま黙っていると聞かれたくないことを聞かれそうで、僕は先の問答での疑問を尋ねることにした。

「さっきのさ、不安?のことだけど」

「はい」

「普通、『量を少なくして貰うのはどうか?』とか。『運動するのはどうか?』とか、そういうアドバイスをするべきだったんじゃないのか?」

 レインは少しだけ言い淀んでから、僕に名前を尋ねる。

 ……そういえば名乗っていなかったっけ。

「慧だ。屋代慧」

「いいですか、屋代さん。そんなことは彼女だって分かっています」

 呆れたような、怒るような。不思議な口調でレインは話す。

「そうするべき。とは分かってはいても、関係の悪化を恐れたり、単純に運動を嫌がったりして、人は常に正しい行動を選択できる訳ではありません。だから『不安』は生まれるんです」

 その口調が僕を窘めるものだと気がついた時、僕は慙愧して目を逸らした。人を説く程長く生きていないだろう。と言い返してやろうかとも思ったけれど、黙っておく。僕だって彼女よりほんの少し長く生きただけなのだ。年齢を楯に取って相手を言い負かそうと思った時点で、僕は既に人として負けている。

「屋代さんだって、そうなのではないですか?死ぬほど辛いことから逃げる方法は、何も死ぬだけではないでしょう?」

 そういう話題にならないように『不安』とやらの話を振ったというのに、甲斐のない結果に終わってしまった。

 これ以上は、話したくはないな。

 こんな小さな子に言って聞かせるようなことでもないし。

「……僕は別に、辛いから死……のうとしてる訳じゃないよ。生きる理由が見つからなかったから、そうしたいってだけで」

 そんな思いとは裏腹に、口は勝手に言葉を紡いだ。

 ……なぜだろう。こんな小さな子に話したって仕方がないのに。

「生きる理由?」

「……もう、十年も前の話だけど、先輩と……友達と二人で事故にあって──友達はそれが原因で亡くなって、僕だけが生き残ったんだ。それからずっと、僕には何か、生き残った理由があるはずだ。って信じて今日まで生きてきたけど、別にそんなものは見つからなかったから、もう、いいかなって、思っただけ」

「ありませんよ。生きることに理由なんて」

 少女は少しも言い淀むことなく、きっぱりと言いきった。

「生きることにも、生まれたことにも、理由なんてありません。それでも別に、生きていたっていいじゃないですか」

 彼女はそんなことを言いながらも、表情一つ変えない。

 ……この子に、感情なんてものはあるのだろうか?

 彼女は一体どんな気持ちで僕の半生を否定している?

 今度は少しだけ、腹が立った。

「君に……!」

 君に何がわかるんだよ。そう怒鳴ろうと口を開くけれど、怒りは対して持続しなかった。何をやっているんだお前は。相手は子供だぞ。途端に虚しくなる。

「……悪い。なんでもない」

「そうですか」

「……それじゃあ、もう行くよ」

 僕は少女のいる方に歩き出す。その先にあるのは少女と出会ったあの場所だ。彼女の横を通り過ぎる。彼女は横目で僕を見つめて、けれどもう、何も言わなかった。


 花屋もないのに花の香りがして、ペットショップもないのに鳥が囀っている。死に場所としては、まあ、いい方だと思った。

 麗らかな陽気に包まれながら、ネクタイを外す。ネクタイを使った首の吊り方はネットで見たことがある。後遺症が残るのを恐れて選べなかったけれど、今となってはそんなことも気にしていられない。

 パキパキ、と小気味よく枯れ枝を鳴らしながら、どこかに手頃な高さの枝は無いか。と辺りを見渡す。

 その時だった。

「もし、お尋ねしたいことがあるのですけれど」

 大人の女性の声。しかしこれは人間の出す声じゃない。エフェクターを介したような、歪んだ声。

 ぞっとして振り返る。僕の真後ろに立っていたのは、真っ白なウェディングドレスを纏った、鉄と工業油の匂いを漂わせる、錆びた一体のロボットだった。

 スチームパンクの映画から抜け出して来たような、強烈な異質感。まるで風景に馴染んでいない。

「私の顔に、何か?」

「え?いや、なんでも……」

 恐縮して首を振る。そもそも顔は全体、真っ白なヴェールに包まれて何も見えなかった。

「そうでしたか。ではひとつ、お尋ねしたいのですが、金色の長い髪をした、小さな女の子をご存知ではありませんか?」

「知、らないですけど、何か、用ですか?」

 素直に知っている。と言いかけて、途中で嘘をついた。

 レインが言っていたことを思い出したからだ。大きくなった『不安』は手が付けられない……とか何とか。あれはひょっとして、こういうやつの事を言っていたんじゃないだろうか。大層なドレスに包まれてボディはよく見えないけれど、少なくとも先の埴輪よりは人に近い容姿をしている。これも『不安』なのだとしたら、危険なのでは……

「ああ、知らないのでしたら構いませんわ。ですがもし彼女を見かけたら、私が探していた。と、お伝えくださらないかしら?お願いしますわね」

 ロボットは軽く頭を下げると、僕の前から去っていく。無意識に張っていた肩を落として、僕は大きく息を吐いた。敵意のようなものは感じなかったけれど、あまりの仰々しさに息が詰まる。

 手に持っていたネクタイを見て、少し悩んで、結局それを首に巻き直す。アレのことは、一応彼女に報告しておいた方が良さそうだ。

 僕はまた、少女の元へ引き返すことにした。



 結論から言えば、宿までの帰り道にレインの姿は無かった。

 仕方なく居場所を尋ねようと宿に入ると、楓は、どこに行ってたんだ。と短く怒って、もう日も暮れたし、レインは家に帰ったのだろう。と僕に言った。あの『不安』については、明日伝えることとなった。

 それに伴い、楓には一宿一飯の世話になることが決まって、僕は労働という名の皿洗いをした。まさかタダで泊まろうなんて思ってないよね?と笑顔で脅されたけれど、そんなものはきっと、僕を一人にさせないための方便だったのだと思う。最初に会った時はお金のことは気にしないでと言っていたし、こう言ってはあれだけど、手伝いが要るほど繁盛していたわけでもなかった。たったの五組分皿を洗っただけでは、宿代の足しにもならないはずだ。楓は、先程僕が勝手に居なくなったのを鑑みて、僕を一人にさせない方がいいと判断したのだと思う。


 白く濁った、やや熱めの湯から上がって、館内着に着替える。進むのも躊躇わしい不気味なオレンジの蛍光灯を頼りに部屋へ戻ると、部屋の中央には布団が二組敷かれていて、そのうち一つには楓が寝そべっていた。

「……何でいるんだ」

「久しぶりに外から来てくれたお客さんだから、お話したいなー。と、思ってね」

「悪いけど疲れてるんだ。一人にしてくれ」

 体のいい言い訳にしか聞こえないけれど、嘘ではなかった。慣れない環境と坂道の往復で、思ったよりも体力を持っていかれている。高卒で社会に出て丸一年以上。体育の授業がないと人はこんなにも衰えるのかと驚いている。

「……慧くんはさ、無性に甘いものが食べたい時、何を食べればいいか知ってる?」

 脈絡なく楓が問いかける。僕は戸惑いながら答えた。

「何って、甘いものじゃないのか?」

「ぶぶー。不正解。正解はご飯とかお芋とか、糖質をよく含む食べ物だよ。炭水化物抜きダイエットとかすると、逆に甘いものが食べたくなっちゃうのはこれが原因なんだって」

 ……知らなかった。知らなかったけれど、だからなんだと言うのだろう。

「それと同じだよ。体が欲しがっているものが、本当に心が必要なものとは限らない。ってこと。これはボクの持論だけど、一人の時間を欲しがっている人に本当に必要なのは、誰かと過ごす時間なんだと思ってる。疲れるから気を使いたくない一方で、気を使わずに済む誰かとの会話を求めてる。……という訳で、さぁ!一人になりたい時こそ、気を使わなくていい他人と会話をしよう!会話は孤独の特効薬だよ!」

 それが、楓がこの宿に何人かの自殺志願者を受け入れて、導き出した答えなのだろう。彼女のおちゃらけた雰囲気もまた、そういう人間の心を解きほぐすための演技でもあるのだろうか。

 なんだかいいように丸め込まれてしまっているようで、アプローチを変えることにした。

「……あのな。僕は部屋を貸してもらってる立場だし、強くは言えないんだけど、そこまでする必要はないだろ」

「うん?そこまでって?」

 うつ伏せのまま、楓はとぼける。僕と歳も殆ど変わらなく見えるし、男女が同じ部屋で一夜を過ごすことの意味が分からないわけでもないだろうに。

「確かに僕は一度ここから脱走したし、僕を監視しておきたい気持ちも分かるけど、だからってそこまで体を張らなくてもいいってことだ」

「体を、張る?」

 楓は、ううん?と首を捻る。……本当に分かっていないという様子だ。

「……だから。男女が同じ部屋で寝泊まりなんてして、間違いが起きたら困るだろって言ってるんだ」

「えっ」

 楓は低く唸って、あー。あぁー。と何かに納得したあと、布団から出てそこに正座した。

「あのね、慧くん」

「うん」

「ボクは男です」

「……うん?」

 …………ああ、うん。

「まぁ、今時そういうのって珍しくもないしな。体と心の性別が一致しないなんて、よくある話だし、別にいいと思うぞ。うん」

「失礼だな。身も心も男だよ。ボクは。……っていうか、ボク。って言ってるじゃないか」

「いや、君は知らないかもしれないけど、ボクっ娘という文化もあってだな……」

 言いながら彼女、もとい、彼の体を眺める。割烹着がシルエットを捉えづらくしていたけれど、館内着を着た今は、成程確かに、よくよく見れば男の骨格をしている。背は高く、腰は太く、尻は小さく、手の甲には節が目立つ。首から上だけは中性的を通り越して女性的だが、首から下は男だ。……男と女のキメラ?

「なぁんか失礼なこと考えてる目をしてる」

「……ごめん」

「ま、いいけどさ。割烹着の下、スカートだったし、勘違いするのも無理はないか……。性別を名乗ることなんてしばらくなかったから、勘違いされやすいのを忘れてたよ」

 あはは。と照れくさそうに笑うその顔は、やはり、あどけない少女のようにしか見えない。楓に非が無いことは重々承知の上で言うけれど、謝って欲しい。色々と。

「まあ、なんていうかさ、ボクは単純に嬉しいんだよ。見張りとか、監視とか、そういうの抜きにね。この辺りって僕くらいの歳の男子が全然いないから、昔から男友達が欲しかったんだ。……ねえ、慧くん。折角だし、ボクと友達になってよ」

 面と向かってそんなことを言われるのは、一体何年ぶりだろう。小学校に上がる頃にはもう、そんな恥ずかしいことは皆言えなくなっていたはずだ。あまりの子供っぽさに笑ってしまう。けれど、それを肯定と受け取られてしまわないように、僕は急いで首を振った。

「それは……じゃあ、やっぱり、また?」

 また死にに行くの?そう言いたげな瞳を隠すように、楓は目を伏せた。……どうしてそんな顔ができるのだろう。今日出会ったばかりの他人なのに。

「まぁ、その予定」

「……そっか。この宿にはレインちゃんがよくキミみたいな人を連れてくるけど、何となく分かるんだよ。ボクに救える人と、ボクに救えない人の違い。ボクは今までキミみたいな人を七人この宿に泊めてきたけど、助けてあげられたのは五人だけ。二人は泊まって、ボクと話もしてくれたけど、最期にいい思い出ができた。って言う顔をして、次の日には亡くなっちゃう。今のキミも一緒。表情は明るいのに、吸い込まれそうなほど暗い目をしてる」

 何も言えなかった。

 僕はその七人と少しだけ境遇が違うけれど、その二人がどうして明るい顔をしたのかは分かる。最期に誰かと話したかったからだ。救済を願っているわけではないけれど、相槌だけ打ってくれる存在が欲しいと思ったことは幾度となくある。優しさに触れたいと思ったことはある。レインに死因を話してしまったのも、そういう理由なのだろう。と、我がことながらようやく気がついた。

「そんなに清々しい顔をされるとこっちは困っちゃうよ。ボクには理解できない価値観だけど、死ぬ事を幸せと感じる人がいることは、知ってる。そういう人を無理やり引き止めるのはただのお節介で、ボクのエゴでしかないのかなって」

「……そのお節介が五人も救ってるなら、十分凄いだろ。人にも、自分にも、誇れることをしてるよ、楓は」

 楓の隣の布団にお邪魔して、柔らかい枕に頭を預ける。だといいけど。と楓は弱々しく呟いた。

 それから少しだけ、僕たちは他愛ない話をした。いつも大盛りを頼んでいたおじさんがこの前初めて並盛を頼んで心配だとか、餌をねだりにやってくる猫が最近贅沢を言い始めたとか。そんな、仲のいい友達にしかしないような、どうでもいい話をしてくれた。

 僕はこれ以上楓の心に残りたくなくて、途中から背を向けて、返事もしなかった。



 目覚ましは体の不調だった。身体がだるい。ような気がする。熱もありそうな気がするけれど、あっても七度二分とかの微熱だろう。額に手を当てても特に熱くは感じなかった。

 楓が朝食に作ってくれた卵サンドを頬張って、言伝をしに行く。と宿を出る。今の時間なら商店街の方にいるだろうから行ってみてはどうか。という助言を元に、自転車では到底登りきれなさそうな急勾配を下った。

 僕が宿を出るまでの間、楓はずっと僕に何かを言いたそうな顔をして、その視線は宿を出てからしばらくしても続いていたけれど、僕は何も訊かなかったし、楓も何も言わなかった。きっとこれまでの二人もそんな顔をして送り出したのだろう。少しだけ、胸が傷んだ。


 次第に見え始めた町並みはなかなかに異様なものだった。

 平成、昭和、明治、大正。各時代の建造物の見本市のような、不思議な町。楓の宿のような純和風建築から、洋瓦を積んだレンガ造りまで、種々雑多な建造物が並んでいる。時代の変遷をまるで感じさせない、奇妙な町だった。

 考え無しに奥へ奥へと進んでいると、どこからか甘い小麦の香りが漂ってくる。どうやらいつの間にか住宅街を抜けていたようで、辺りは商店街の様相を見せ始めた。喫茶店。パン屋。土産屋。エトセトラ。幅員約四メートルの狭い通りの脇には、店舗露店が並び、時折すれ違うのに配慮する程度の人通りがある。商店街と聞いて真っ先にシャッター街をイメージする僕にとっては、海外の市場を眺めるような、興味深い光景だった。

 目的も忘れて辺りを見物していると、遠くに目当ての人物を認めた。甘味処。と書かれた暖簾をくぐって、レインが一人、店内へ入って行く。何も注文せず入るのは……と躊躇したけれど、彼女がいつ出てくるかも分からないので、失礼を承知で昨日の出来事だけ伝えに入店することにした。


 ブラウンを基調としたシックなインテリアで設えられた店内は、がらんとしていて、涼しげがある。店内ミュージックには聞き馴染みのないジャズミュージックがかかっていて、一見した印象は甘味処より喫茶店に近かった。

「はぁい、いらっしゃいませ!」

 黄色の華やかな着物を纏った女性が、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてやってくる。甘味処としては悪くない服装だけど、店内の様相からは少し浮いていた。

「ああ、すみません。僕は客じゃなくて──」

「すみません。彼にも同じものを一組」

 先に席へ通され、二人掛けのテーブルに一人で座っていたレインは、僕を見るなり店員に告げた。

「お連れ様ですね。どうぞ奥の席へ」

 店員は掌を使って席を指すと、頭を深く下げ、奥に引っ込んでいく。僕は案内された席へ移動した。

「何も注文せずに出ていこうだなんて、冷やかしは良くありませんよ」

「悪い。今一円も持ってないんだけど……」

「それは昨日も聞きました。私が払っておきますから、お気になさらずに」

 レインは小さく息を吐く。居た堪れない。

「……ありがとうございます」

 彼女の対面の、真っ赤なシートが掛けられた縁台に腰を下ろす。テーブルの上には二つ折りの品書きと、小さな和傘の卓上飾りが置かれている。甘味処らしさは、縁台と、メニューと、飾りだけだ。

「それで、一文無しで入店してきたということは、私に何か用があるのでしょう?」

「そうだ。ちょっと、伝えておきたいことがあって──と、その前に、何だ、これ?」

 テーブルの上をでかでかと占有する、一際目を引く南瓜を眺める。他の席には置かれていないし、奇抜なオブジェという訳ではなさそうだ。

「これも『不安』です」

 少女が南瓜を回す。南瓜には顔が付いていた。目は三角に、歯はギザギザにくり抜かれた、確か、ジャック・オー・ランタン。ハロウィンでも実物を見たことはなかったので少し感動する。

「人の形をしてるって話じゃなかったっけ?」

「四捨五入すればこれも人です」

「二捨三入くらいはしないと厳しい気がするけど……」

 まぁ、いいか。それも置いておくとして。

「それで、私に話とは?」

「昨日、あの時君と別れた後の話なんだけど──」

 そう前置いて、僕は昨日出会ったロボットの話をした。ウェディングドレスを纏った、鉄と油の香り漂う機械人形。人形とはつまり、人の形を模したものだ。アレもまた、『不安』なのではないだろうか。そしてその不安は、レインを探していた。

 レインは届いた栗羊羹を菓子切りで口に運びながら僕の話を聞き、少し考える素振りをして言った。

「その不安の大きさはどのくらいでしたか?」

「僕より少し背が低いくらいだったけど、やっぱりあれか?大きくなった不安は手が付けられないっていう……」

「いえ、そのくらいの大きさならまだなんとかなるでしょうね。人の身長の範囲内ならさほど急を要するものではありません」

 なんだ。そんなものか。ほっと息をつく。

 湯呑みの煎茶が冷め始めたのを確認して、一口だけ飲み込んだ。お茶の善し悪しは良く分からないけれど、ペットボトルのものよりは格段に香りがいい。

「大きくなった『不安』は手が付けられないっていうのは、どういう意味なんだ?」

「簡単に言うと凶暴になります。大きく育った『不安』は他罰的な思考に陥りやすくなって、人を襲うようになります」

 ……なんで自分だけ。とか、幸せそうなやつが憎い。とか、そんな感じだろうか。少しだけ理解できた気がする。

「まあでも、取り敢えず、そのロボットの大きさ程度なら何とかなりそう。ってことでいいんだよな?」

「そうですね。屋代さんの話を聞く限りまともに会話もできたそうですし、心配は無用です」

「……あのー。俺の話はいつになったら聞いてもらえるんスかね……」

 レインが一旦言葉を区切ると、南瓜はおずおずと口を挟んだ。そう言えばこれも『不安』だったか。レインはこれの話を聞くためにここへ入店したのだろう。邪魔をしてしまった。

「話はそれだけ。それじゃあ、お茶とお茶請けの件は本当ごめん。助かった。ごめん。ありがとう」

 僕はそう言って席を立つ。だいぶ寄り道をしてしまったけれど、今度こそ命を絶つために。

「お待たせしました。お話をお伺いします」

「あ、ども。……この間、彼女以外の女を抱いたんスけど──」

「僕が伺いましょう」

 慌てて席に座り直して、南瓜の頭を強引に自分側へ捻る。この話はアレだ。子供に聞かせてはいけないやつだ。

「屋代さん?」

「いや、ほら。君はさっき伝えた『不安』の方を先に見てきた方が良いんじゃないか?と思って。この方の話は僕が聞いとくからさ」

「ですが……」

「まぁまぁ、こっちは心配しないでいいから。ほんと、気にしないでいいから。あなたも男同士の方が話しやすいですよね?」

 ね?と目で圧をかける。南瓜にも、子供に聞かすよりは。と納得していただけた。

「ということで、ほら、ここは任せてくれ」

 レインは少しだけ不満げな顔をしながら、ではお願いします。と言って茶屋を去っていった。『不安』自らのご指名が効いたらしい。

 まぁ、後は簡単な話だ。昨日彼女がやっていたように、適当に話を合わせて肯定してやればいい。すぐに終わらせてしまおう。


「……つーかさぁ、ゆってもただのワンナイトじゃん?帰り遅れたってだけで証拠も無いのにずっと疑われて気分悪いよね、実際」

「……でも、寝たは寝たんですよね?」

「まぁね」

 悪びれもなく南瓜は答える。

「いや俺ガチで今の彼女のこと愛してんのよ。誕生日も付き合った記念日もちゃんと覚えてるし。今までは別の女探せばいっかと思ってたけど、今の彼女に見限られたら困るっつうか?……でもさぁ、それとこれとは別じゃね?って話。アンタだって心から愛してる女がいても、他の女から誘われたら乗るくね?据え膳食わぬは男の恥。って言うし」

「……そんなもんですかね」

 辟易して相槌を打つ。まるで理解できない話だった。どこに共感すればいいのかすら分からない。壁掛けの小さな時計を見ると、来店時から二十分は経っていた。僕はいつまでこの軽薄男の話を聞いていればいいのだろう。朝からやんわりと続く頭痛が、次第に酷くなっている気がする。

「いや分かるっしょ、男なら。アンタほんとに男?てか童貞だろ。その感じ」

「……だっ、たら、なんだって言うんですか……」

 慌てて店内を見渡す。客は僕の他に老夫婦と思しき一組だけで、こちらの会話には気がついていないようだった。

「おっ、マジで?俺のオススメの店教えよっか?新規の割引券あるし……って今は持ってねぇけど」

「要らないですよ。別に」

「あれ。アンタ、初めては好きな人が良い派?」

 良い派?って。全員そうだろ。……そうだよな?

「どうよ?そいつとは上手くいってんの?」

「好きな人は──」

 好きな人は、もう。

「あ、悪ぃ。地雷踏んじゃった?俺。ま、アンタは別に焦んなくていいんじゃね?まだ若いし。はー。なんか話してたらスッキリしたわ。俺も初心に戻ってやり直してみっかな。んじゃな。なんか、頑張れよ、色々。応援してんぞ!」

 南瓜は一方的に捲し立てて、僕がなにかする前に消えていく。埴輪と同じようにサラサラと白い砂になって、机に山を作った。

 ……これで良かったのだろうか。一応解消?はしたのだろうけど、レインがやっていた時はこんな、試合に負けて勝負に勝つ。みたいな流れじゃなかった気がする。いや、間違いなくこんなんじゃなかった。

「お疲れ様です」

 先程まで隣のテーブルを拭いていた店員は、一度奥へ引っ込むと、急須を乗せたお盆を持ってきて、僕の湯呑みにお茶を注いだ。

「あの、すみません。僕実は今お金が無くて……。というか、その前に、掃除用具とか貸して頂きたいんですが……」

「あはは。大丈夫です。新規のお客様にサービスの一杯、ということで。それにその砂って『不安』から出たものですよね?五分もすればすぐどっかに消えちゃうから、心配いらないですよ」

 店員はカラッと笑って、お茶請けに新しい羊羹を二棹、僕の目の前に置いた。

「ハクアちゃんが戻ってくるまで、ごゆっくりどうぞ」

「……ハクアちゃん?」

「あれ、知らないんですか?ハクアレインちゃん。さっきお客様と一緒の席にいた子ですよ」

 店員は懐から懐紙とペンを取り出して、確かこう。と、ペンを走らせる。懐紙には『白亜玲音』と書かれている。どうやら漢字があったらしい。

「お知り合いなんですか?」

「そうですね。白亜ちゃんのお母さんが亡くなってからの付き合いです。と、言っても客と店員以上の関係じゃないですけど」

「亡くなった?」

「んー……あんまり本人が居ないところでする話でもないですけど、お客様は白亜ちゃんとお知り合いみたいですし、お伝えしておきましょうか」

 店員は僕の対面に座って真剣な目をする。僕も彼女に倣って背筋を伸ばした。

「もう……八年前のことですかね。この辺りに大きな『不安』が出たんですよ。私は実際に見た訳じゃないんですけど、なんでも、二階建ての家より大きくて、人を襲って回っていたとか。私の親族は幸い全員無事でしたけど、その時その『不安』を退治しようとした大人達が何十人も犠牲になったんです」

「それじゃあ、あの子の母親は──」

「そうです。その時に亡くなってしまって……。それから白亜ちゃんは毎日欠かさず町の見回りをして、『不安』が大きくならないうちに解消して回ってるみたいです。話が長引きそうな時はうちをご贔屓にして貰ってるんですよ」

 店員は、だからあんまりお母さんのことを思い出させるようなことは言わないであげて。と言って一度去っていき、思い出したようにこちらへ向かってくると、こっそりと僕に耳打ちする。

「あの、それと、えっと。一応、他のお客様もいらっしゃるので、えっちなお話はもう少しお静かにお願いします。ね?」

 店員が顔を赤くして去っていくのと入れ違う様に、レイン、改め、玲音が外から戻ってくる。なんともタイミングがいい。良すぎると言っていいくらいなので、諸々の話が済むまで外でタイミングを伺っていたのかもしれない。

「どうでした?そちらは」

「……なんだろうな。よく分からなかった。浮気の言い訳を聞いてたら、勝手にスッキリして、勝手に消えて行ったよ」

 さらさらと白い砂を掬い上げる。どこに消えてしまったのか、もう既に元の半分も残っていなかった。

「まぁ、そういう日もありますよ。ただ話を聞いて欲しいだけの時もあります」

「……それで、そっちはどうだった?」

「いませんでした」

「……そうか」

 昨日、件のロボットは僕と話をした後、確かに山道を下ってどこかへと去っていったけれど、まさか戻っていないとは。どこへ行ってしまったのだろうか。玲音のことを探していると言っていたけれど、思えば僕はロボットの名前も、居場所も、何も聞かされていない。

 どこで何をしているのかは、気になるけれど──。まぁ、僕にできることはこれくらいかな。忠告はできたし、もう、やり残したことはない。

「白いウェディングドレスに白いヴェール。時折見える肢体は錆びた鉄の人形」

 それじゃあこれで。と席を立ったとほぼ同時。玲音は本の一部でも読み上げるように、抑揚なくあの『不安』の特徴を口にする。

「でしたよね?」

「ん?うん」

「彼女ですか?」

 玲音の視線を追って入口の方へ振り向くと、そこには昨日会ったばかりのロボットが立っている。ロボットは狭苦しそうに暖簾をくぐって、極めて自然に、慣れた様子で、甘味処へと来店した。困惑気味な、いらっしゃいませ。の声が響く。

「姿が見えまして、つい」

 硬く鋭そうな鉤爪が窓ガラスを指差す。窓際の席に座っていたから外から僕たちに気が付いたようだ。……しかし、これは本当に昨日僕が見た『不安』だろうか?あの時よりも明らかに背が高い。……育っている?

「アナタも人が悪いですわね。ご存知でしたのなら教えて下されば良かったのに」

「……今日、知り合ったんだよ」

「まぁ、そういうことにしておきましょうか」

 ロボットはくすくすと上品に笑う。

 やはり、昨日見たものと同じ個体らしい。

「私に用事があるのでは?」

 立ち上がって、玲音が問う。ロボットは、ああ、そうでした。と手を叩いた。軽い金属音が鳴る。

「明日の二十四時。私を解消してくださらないかしら?場所は月見堂にて。お待ちしておりますわ」

 ロボットはそれだけを伝えて踵を返すと、ブライダルシューズを鳴らして帰っていく。僕は脱力して椅子に腰を下ろした。

「……間違いなく昨日見た『不安』だったけど、背が伸びてた」

 窓の外、ゆっくりと山の方へ歩いていくロボットを見送る。見間違いじゃない。昨日会った時は百七十にも満たないくらいだったのに、今では二メートルに迫ろうかという程巨大になっていた。今はまだ、ギリギリ人の範疇に収まっているけれど、明日にはもう、人の範疇を超えるんじゃないだろうか。そうなればあの『不安』は、他罰的で、人を襲うという、そういう危険なやつになってしまうのでは。

「普通、あんなに早く成長するものなのか?」

「いえ、それ程急に育ったというのなら、『不安』を生み出した本人に、なにか心境の変化があったのでしょうね。『不安』が急に大きくなったということは、本人の心配事が急におおきくなったということです」

「……あれ、本当に大丈夫そうか?」

「なんとか、なりますよ」

 彼女にしては珍しく、一瞬言葉が詰まったような気がした。

「……本当に?」

「ええ。言っていたでしょう?『私を解消して欲しい』と。人に当たることで発散する危険なものとは違うようなので、まだ何とかなります」

 そこには自信があった。けれど、根拠があるようには見えない。一日であれ程大きくなった以上、明日になれば人に当たる可能性だってあるわけだし、それを考えられない程彼女は愚か

ではないはずなのに、どうしてか自信があるようだった。

「そんなに心配せずとも、私は平気です」

 そう言って彼女は小さく笑う。

 ……僕の考えすぎなのだろうか。確かに僕は『不安』についてほとんど何も知らないし、彼女の方が『不安』に詳しいのも事実だ。その彼女が大丈夫だと言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。僕の考えすぎなのかもしれない。

 だけど。だけど、その笑顔は胡散臭かった。

 先輩が僕に最期に向けた笑顔と、同じ顔をしていた。

「なら、いいんだけど……」

 古い記憶を振り払ってそう告げると、椅子から立ち上がろうとテーブルに手をつく。ぐらり。と視界が揺れた。

「屋代さん?」

「……悪い。なんでもない」

 唇を掠める息が熱い。今朝はまだ、少し気分が優れない程度のものだったのに、今では立っているのもしんどいくらいだ。

「顔色が悪いですね。今日はもう休んだ方がいいですよ」

「……そうだな。そうさせてもらうよ」


 気力で何とか立ち上がって甘味処を後にすると、僕は玲音に付き添われながら宿へ向かった。今のところ発熱と目眩以外に症状はないけれど、とにかく酷く調子が悪い。具合が悪いと言うよりは、疲れたからさっさと寝てしまいたい感じ。不本意だけれど、この状態じゃ死ぬこともままならない。死ぬ時くらい、健康に死にたいのだ。

「あの、屋代さん。最後に一つだけ聞いてもいいですか?」

 宿の目の前まで来たところで、玲音が立ち止まる。

「うん?なに?」

「あの『不安』の声は、私に似ていましたか?」

 僕も立ち止まって、玲音に向き直った。

「自分で聞く自分の声と、人に聞こえる自分の声は違うというじゃないですか。屋代さんから聞いて、私の声と、あの『不安』の声は似ていましたか?」

「……少しは似てるかもな」

 それは、僕も少し思っていたことだ。けれど、あの『不安』は君が原因で生まれたんじゃないのか?なんてことは、責め立てるみたいで言えなかった。

 正確に言うと二人の声は、決して似ている訳ではない。例えば玲音に電話をかけて、あの『不安』が受話器を取ればすぐに違いがわかる。あのロボットの、壊れたスピーカーのような喋り声は玲音とは似ても似つかない。けれど、その壊れたスピーカーの向こうで誰がマイクに声を吹き込んでいるのかと想像した時、玲音の声はロボットの声に、どことなく似ている気もしていた。

「まあでも、似てるかも。ってくらいだけどさ。君より少し、大人っぽい声だったし」

「大人っぽい……」

 何かを考え込むように唇に手を当てて、玲音は目を伏せる。

 何か、心当たりでもあるのか?

 そう問いかけようと口を開いたけれど、喉の奥は熱に対流を起こして、言葉は渦巻き、出てこない。

「屋代さん?」

 流石にやばいかも。そう思った次の瞬間には玄関の床が目の前に迫っていた。

 


 危ないと思って目を瞑り、次に目を開けたのは、どこか暗い部屋の中だった。

 障子の向こうが暗い。ドンド、ドンド。と鳴る太鼓の音に合わせてこめかみの奥が痛んだ。今は、何時だ。あれから、どれくらい経った?

 月明かりを頼りに周囲を見渡す。ここは……僕に宛てがわれた、楓の宿の一室だ。プルスイッチ式の照明を引っ張って灯りをつけると、部屋を出て厨房の方へ向かった。

「楓、いるか?」

「あれ、慧くん。具合はもういいの?キミ、丸一日眠ってたんだよ?」

 厨房では忙しそうにオードブルを盛り付ける楓が居て、僕を見ると安心したように目を細める。今生の別れみたいな顔で宿を出ておいて、また顔をつきあわせることになるとは、なんとも居心地が悪いけれど、楓はそこには触れなかった。触れないでくれた。ただ、嬉しそうな顔をして僕に微笑むだけだった。

「ごめんね。うるさくしちゃって。今日は慰霊祭の日でね。町を上げてお祭りをしてるんだよ」

「……慰霊祭って、こんなに騒がしいもんなのか?」

 ぎゃははは。と大笑いする大人たちの声を遮るように片耳を抑える。昨日はまるで人の気配がしなかったこの宿も、今夜はほとんど全室に客が入っていて、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをしているらしい。慰霊祭ってもっと、厳かなものだと思っていたけれど。

「あはは、他の地域じゃ珍しいかもね。……実は丁度八年前の今日、この辺りで人が大勢亡くなってね、その人たちに、僕たちは元気でやってるから心配しないでねー。って伝えるためのお祭りなんだよ。……だから今日一日はしんみりせずに夜通し騒ぎ明かすの」

「……八年前って、『不安』がどうとかっていう?」

「ああ、慧くんも聞いた?そう。実は、玲音ちゃんのお母さんも、ボクのおじいちゃんもそれで亡くなってね。これはその慰霊祭。この宿も昔はおじいちゃんが経営しててね、亡くなってからはボクが継いだんだよ。見ててくれてるかなーおじいちゃん」

「話の腰を折って悪いんだけど、その、玲音ちゃんは今どこにいるか知ってるか?」

「玲音ちゃん?もう夜も遅いし家に帰ったと思うけど……いや、去年はいつもみたいに見回りをしてたかな?皆が安心して慰霊祭に集中できるように。って」

 オードブルの皿にパックをしながら、楓は答える。

 ……それが、彼女の『不安』なのだろうか?

 『不安』が生まれることへの、不安。

 八年前、母親を亡くしたような『不安』が生まれることへの、不安。

 分からない。僕に分かるはずもない。まだ出会ってたった二日しか経っていない。

「玲音ちゃんが、どうかしたの?」

「死ぬ気かもしれない」

「……へぇ。それはまた、急な話だね」

 一瞬止まりかけた手を再び動かしながら、楓は僕の顔も見ずに言う。

「ウエディングドレスの『不安』の話は知ってるか?」

「知ってるよ。玲音ちゃんから聞いた。今日の夜、解消しに行くんだってね。……ああ、もうそんな時間か。それならもう、月見堂に向かったかもね」

 楓が厨房の鳩時計を見る。あと十分もすれば二十四時を迎える。という所だった。

「その『不安』の出処は、あの子かもしれない」

「どういうこと?」

「原因は……分からないけど、あの『不安』は玲音と似ていて、あの子もそれを分かってるみたいだった。だとしたら不可能だろ?『不安』を解消するなんて。自分では折り合いを付けられなかったから『不安』が生まれてるのに、それを自分一人でどうにかできる訳ない。『不安』っていうのは本人が死ぬと消えるんだろ?あの子はそのために自分を犠牲に──」

「ああ、なんだ。それなら心配いらないよ。別に『不安』を消す方法は話を聞いて解消してあげるだけじゃないから。他の方法をとるんじゃない?」

 焦る僕の肩を軽く叩いて、楓はコップに汲んだ水を僕に差し出す。僕はそれを一息に飲み干した。

「他の方法?」

「殺すんだよ」

 油を切ったカツをトレイから取り上げて、楓が包丁を下ろす。ざく。と小気味いい音が鳴った。

「『不安』っていうのは感情が実体化したものだからね。実体があれば殺せる。簡単な話だよ。八年前の『不安』も、大人たちがそうやって退治したんだって」

「……それは、大人が何人も集まっての話だろ?そんなこと、たった一人でできるのか?」

「できるよ。玲音ちゃんにだけはそれができる。……それ以上は、町の皆の秘密。ごめんね。……まぁ、心配しなくても、玲音ちゃんが大丈夫って言ったなら大丈夫だよ」

 話を聞く限り、結局は、僕が心配し過ぎなだけだった。

 楓も玲音も、二人とも問題はないと言うし、僕は何をそんなに焦っていたのだろう、という気さえ湧いてくる。

 けれど。

 けれど、どうしても、彼女のあの笑顔が脳裏に張り付いて消えない。先輩の笑顔と重なって消えない。

「……心配性なんだね、慧くんは。そんなに心配なら見に行ってあげなよ」

 楓はそう言って苦笑すると、僕に月見堂の場所を教えて、どこからか持ってきた懐中電灯を持たせる。

「ちゃんと、返しに来てね」

「……分かった、ありがとう」

 僕は教わった通りに山を左に見て、道なりに歩き出した。


 たった数分歩いただけで、額には嫌な汗が滲んだ。起きたばかりの時は眠ったことで少しは回復したのかとも思ったけれど、とんでもない。体調は遥かに悪化している。

 熱い。肺の中が蒸すように熱い。何度呼吸を繰り返しても新鮮な酸素を取り込めている気がしない。心臓の鼓動って、こんなにも煩いものだったっけ。なんでもないことさえ、何かの症状が出ている気がしてくる。

 額の汗を脱ぐって顔を上げると、数十メートル間隔で設置された街灯が弱々しく僕を招く。辺りはほとんど真っ暗闇と言ってよかった。背筋が冷える。十九年間の時を生きてきて、夜が怖いと思ったのは生まれて初めてのことだった。どこか遠くで民家に灯りが点っているということ以外、何の情報も入ってこない。都会に生まれ、都会に育った僕には、この暗闇は堪らなく恐ろしいものに思えた。

 何度も引き返そうかと悩んでいる内に、それでも僕は目的地のすぐ側まで迫っていた。僕が初めて目を覚ました辺りからさらに山奥へ進んで、見えてきた小さな神社の裏手に回り、ほとんど獣道としか思えない、つづら折りの山道を登る。ここまでくればもう、街灯の灯りは入らない。月明かりをこんなにも頼もしく感じたのは初めてだった。月って、こんなにも力強いものだったのか。

 心地よい夜風に吹かれながら山道を登り切ると、そこには小さな六角屋根の東屋が建てられていた。お堂を名乗るにはあまりに慎ましいその建物が、どうやら月見堂らしい。

 屋根の下に備え付けられた椅子には、二メートルを優に超えたロボット型の『不安』が腰かけていて、その傍らでは傷ついた玲音が地面に横たわっていた。

 彼女の右手には古めかしい、短い日本刀が握られている。柄の部分は擦り切れ、刃もボロボロに欠けた、確か、脇差とか小太刀とかいう、短いやつ。先にあった戦闘でこうなったとは考えにくいし、随分昔からこの姿だったのだろう。

 この鈍ら刀こそが楓が隠した秘密とやらで、玲音はこれを握って『不安』を殺そうとしたのだろうか。

 ……分からない。分からないことばかりだけれど、力なく地面に倒れている玲音の姿を見れば、計画が失敗したのであろうことは伝わった。

 僕の心配は無用に終わらなかったわけだ。

「そんなに怖いお顔をされなくとも、まだ殺してはおりませんわ。脳震盪を起こして倒れているようですけれど」

 『不安』は僕の方を見て、くすくすと笑う。

「まだ。ね……」

「あんまり綺麗な月だから、殺すのが惜しくなりまして」

 『不安』は鉤爪を月光に光らせる。爪先は赤黒く変色していた。玲音の傍によると、彼女の服は所々が引き裂かれていて、切り口は黒く滲んでいる。出血量を見るに、傷自体は深くはなさそうだ。既に傷口の大半は血が固まっていた。

「それで、アナタは一体何をしにいらしたのかしら?」

「僕は──」

 何をしに?僕は、僕は彼女の無事を確かめに来ただけだ。

 心配しすぎです。不安が生まれますよ。って、呆れたみたいに言って欲しかっただけだ。

 だけどそれはもう叶わない。僕の心配は現実のものとなりかけている。このままこの子を放っておいたら、もう二度と声も聞けなくなって、思い出すこともできなくなる。

 それなら、僕のすることは一つしかない。

「その子を、助けに来た」

「アナタには何もできませんわよ」

 『不安』は不敵に笑う。

「あんたも一応、『不安』の一種なんだろ?話してくれよ。僕があんたを解消してやる」

 玲音を空いた椅子に寝かせ、スーツの上着を被せると、僕は『不安』の対面に腰かける。熱の篭った空気を吐き切って、冷えた夜の空気を肺いっぱいに満たした。

「人に話したって仕方がないから、私はこんなにも大きく育っていますのに、分からない人ですわね。……では、月が陰るまで。と、しましょうか」

 そう言って『不安』は夜空を見上げる。星の輝きも霞むような、見事な満月が僕たちを照らしていた。

「……ありがとう。それじゃあ、最初に聞いておくけど、そこに落ちてる変な刀で素直に退治されとけば良かったんじゃないのか?あんたは消えたいんだろ?」

「ええ。私は『不安』ですから。幽霊が己の成仏を願うように、『不安』は己が解消されることを願っている。でも、ただ消えればいいって訳でもありませんのよ?その刀は麻薬のようなもの。一時的に『不安』は消し飛ばせても、時間が経てばまたいつか、私は生まれてしまいますもの」

「……そうならないためには根本から消すしかない。ってことか」

「その通りです」

「随分詳しいんだな」

「ええ。私は彼女の一部ですから」

 月はまだ陰らない。考えろ。

 今のうちに僕ができること、全てやれ。

「つまりあんたは、その子を傷つけたくて傷つけてる訳じゃないんだな」

「ええ。勿論。仕方なく。と言うやつですわ」

「それなら、僕がその子の不安の元を解消してやれば文句はない訳だな?」

「ふふ。アナタにできまして?私が生まれた原因すら分からないアナタに」

「『不安』が生まれることに対する、不安、だろ。……違うか?」

 ヴェールの向こう側は見えない。今『不安』がどんな顔をしているかは分からない。

「八年前、自分の母親を含む大勢を殺したような、そういう危険な『不安』が生まれることを、あの子は恐れてる。だから小さな『不安』や、僕みたいな大きな『不安』を生みそうな奴を逃さず見つけるために、強迫観念にも似た見回りを続けてる。あんたが急に育ったのは僕がいつまで経っても死なないから、いつ『不安』が生まれるか気が気でなかった。……ってとこか?」

 『不安』は何も答えない。身動ぎや呼吸すらしないから本当は僕の推理に興味などなくて、はなから聞いていないのかもしれない。

「……なぁ、なんとか言ってくれよ。流石に反応がないと寂しいんだが」

「あらあら、申し訳ありません。……それで?その不安をアナタはどう解消してくれますの?」

「僕には解消できない」

 諦めて、両手を上げた。文字通り、お手上げだ。何年も溜め込んだ悩みや心配は一朝一夕に解消できるはずもないし、昨日今日出会ったばかりの人間に何を言われたって、彼女の心に響きはないだろう。

 僕から玲音にしてあげられることは、悔しいけれど、何一つない。

「あら、もう降参ですの?」

「その代わり。僕にその焦りとか、苛立ちとか、そういう感情を全部ぶつけてくれて構わない。だから、もうその子に、自分に当たるのは止めて、それで大人しく解消されてくれ。僕はあんたにとって悩みの種の一つだろ?その鉤爪で悩みの原因であふ僕を無茶苦茶に引き裂けば、少しは清々すると思うんだけど」

 『不安』はしばらく困ったように唸って、やがて首を振る。

「それではその刀で殺されるのと何も変わりませんわ。少しの間だけ気分が晴れて、けれどまたすぐに不安は募ってしまいますもの。いくら地面の雨水を掃いたって、雨雲がある限り雨は降るでしょう?……それに、アナタを引き裂いた位で彼女の不安は収まらないでしょうし」

「それは……どうしてだ?」

「アナタの推理が外れているから。もっと言えば、彼女は別にアナタを嫌っていないから。彼女が本当にアナタを嫌っているのなら、わざわざ世話を焼いたりせず、見殺しにするはずでしょう?さっさと死んでもらった方が、『不安』が出なくて楽ですもの」

 とても楽しそうに笑って、『不安』は月に手をかざす。いつの間にか、雲が多くなってきた。もう、いつ月が隠れてもおかしくはない。

「……外れてるなら途中で言ってくれよ。趣味が悪いな」

「うふふ。あまりに必死な顔をしていらしたから。つい。……ですが、全然、ダメダメです。点数で言えば四十点。密室のトリックもアリバイ工作も見破れなかったのに、山勘で犯人だけ言い当ててしまった探偵さん。というところかしら」

 その物言いに、僕は苦笑する。なかなか手厳しい意見だ。

「なぁ……やっぱりあんた、悪い奴じゃないんだろ?不安なんて多かれ少なかれ、誰しも抱えているものじゃないか。上手く付き合っていく方法はないのか?あんたをまるっきり全部消してめでたしめでたし。なんて、そんなの僕は間違っていると思うんだが」

「多かれ少なかれ。と言っても、限度があるでしょう?私は既に彼女の体より、彼女の器よりあまりに大きくなりすぎてしまった。小さな体には抱えきれないほど大きな不安を抱えてしまっている。……付き合っていく方法などありませんわ」

「……それなら、その『不安』の原因を勿体ぶらずに教えてくれないか?」

「それはできません。アナタに教えるようなことでもありませんし」

「……頼むよ。本当に。その子の、いや、あんたたちの力になりたいんだ。僕にできることならなんだってするよ。約束する」

 膝に手をついて、深く頭を下げる。『不安』はしばらく黙り込んで、月が陰り始めた頃、ようやく口を開いた

「彼女、幾つに見えます?」

 椅子に寝かせた玲音を見る。普段は大人びた表情をしているけれど、こうして見るとまだ幼い、小学生くらいにしか見えない。

「十一、二くらいに見えるけど」

「今年で十六になります」

 もう一度玲音の顔を、身体を見る。十六ってつまり、高校生だ。童顔。の一言で片付けるには些か発育が遅れすぎている。彼女を椅子へ寝かせた時だって、全身にまるで皮下脂肪を感じなかった。子供のままの、身体だった。

「幼くして両親を亡くした彼女にとって、早く大人になって独り立ちすることは何よりの望み。それなのに、未だ初花も迎えない自分の身体を彼女は酷く悩み、焦り、憤っている。……そこからは、だいたい探偵さんの推理通りですわね。その悩みを解消できない分、社会貢献として『不安』の解消を続けていますけれど、もしも凶悪な『不安』が生まれてしまった時、未だ子供のままの自分には何もできないのではないかと恐れ、過剰なまでの見回りをしている。……なのでまぁ、アナタの推理は半分正解。半分不正解というところですわ」

 僕には何も分からない。

 自虐のように何度も頭の中で繰り返していたけれど、僕は本当に何も分かっていなかったのだとようやく痛感する。よくもまぁ、あの推理で四十点もいただけたものだ。この子は僕が想像していたよりもずっと、強い苦しみを抱えていた。

「……前半のそういうのは、本人が与り知らない所で言うのは良くないと思うけど」

「アナタがどうしても言うからお伝えしたのに、面倒な方ですわね。彼女の心に踏み込むだけの覚悟が足りなかったのではありませんこと?」

「……僕にできることなら命だって捨てる覚悟だったよ。だけど、それくらいのことじゃどうにもできないから、この子は不安だったんだよな」

 玲音の不安は僕にも、彼女自身にも、他の誰にも解決できることではなくて、ただ天に祈り、待つことしかできないものだった。

 僕が命をいくつ擲っても、微塵も解決しないものだった。

 僕は、命を過信していたのだ。

 一度擲った安い命を、人間の最大の価値と驕って、それを捨ててまで手に入らないものはないはずだ。なんて、そんな馬鹿な思い違いをしていた。なんとかなると楽観していた。現実はそんなものだ。自分一人の力じゃ、自分より小さな女の子一人救えない。……それでも。

 月が陰った。

「先程から気になっていたのですけれど、アナタは何故、出会ったばかりの彼女にそんなにも体を張るのでしょう?同情?使命感?それとも恋情?」

「……なんだろうな。自分でもよく分からないけど、僕が生きているのに何も悪くない子供が死ぬだなんて、そんなふざけたことはない。って、思っただけだよ」

 『不安』は機体を軋ませながら立ち上がって、玲音の傍に立つ。僕は立ちくらみに耐えながら、二人の間に割って入った。

「月はもう、陰りましたわよ」

「まだ、一つだけ手段が残ってる」

 星灯りを頼りに、玲音の足元に置いた鈍ら刀を手に取る。どれだけ強く握っても、掌には頼りない感覚しか伝わらない。

「……あらあら、ご存知ありませんの?その刀はアナタが持ったって意味がありませんのよ?」

 ──玲音ちゃんにだけはそれができる──

 そういえば楓はそんなことを言っていたっけ。それならもう本当に、この子が助かる道はないのかもしれないけれど。

「まあ、丸腰よりは可能性あんだろ」

「うふふ。それはそうでしょうけど」

 『不安』は椅子に腰掛けてヒールを脱ぐと、丁寧に揃えてその場を離れる。あたりは傾斜も緩やかで、開けている。そこで決闘を始めようということらしい。

 ……ヒール、脱ぐのな。初動はタックルで転ばせて、もたついてる所をワンチャン、とか思っていたけれど、随分と本気じゃないか。相変わらずヴェールの向こうは見えないけれど、さぞ楽しげな笑みを浮かべていることだろう。

「何度もお願いを聞いてもらって悪いけど、もう一つだけ頼む。あの子を殺すなら、僕を殺した後にしてくれ」

「もしくはアナタが降参した後。を条件に追加していただけるなら、それで構いませんわ」

「わかった。それでいい。ありがとう」

 キツく、ネクタイを締めた。

「こちらはもう、準備も整いましたけれど」

「こっちもいいよ。いつでも好きに来てくれ」

「あら、私からでよろしいのかしら?」

「散々待ってもらった詫びだと思ってくれ」

「うふふ。それではお言葉に甘えるとしましょうか」

 ……さぁ。隙を見つけろ。僕。

 あいつの運動神経が分からない以上、下手に攻め込むのは得策じゃない。最悪玲音を抱えて逃げられるように、極力あの子の近くを離れるな。

 蟷螂の斧を掲げる。

 さぁ、いつでも来──

 瞬間、仰け反って、目の前に迫っていた鉤爪を躱す。僕はそのまま尻もちをついた。

 ……いや、躱せていなかったみたいだ。左の眉上を掠った。じわり、と、温かい液体が溢れる。急ぎワイシャツの袖で血を拭うけれど、心臓の鼓動が鳴る度にどくどくと溢れ出した。

「アナタ、戦闘経験は?」

 背中から勢いよく蒸気を吹きながら、『不安』は尋ねる。

「ある訳ないだろ、一般人だぞ」

 はは。と笑いながら僕は立ち上がる。次元が違う。笑うしかなかった。

「それなら初めに言ってくだされば良かったのに。手加減して差し上げますわよ。参った。と言えるように」

 『不安』は宣言通り、今度はゆっくりと僕に近づいて、勢いよく鉤爪を振り下ろす。防御に翳した刃を鉤爪は滑らせて、火花を散らしながら僕の頬を引っ掻いた。

「屋代……さん?何を?」

 金属の摩擦音に混じって、玲音の声が聞こえた。この騒動で気がついたらしい。

「何をしているんですか!?」

 普段の落ち着いた口調からは想像できないような、金切り声が山中に響く。頭痛に良く響くその声も、今はとても気分がいい。近くにいた野生動物が驚いたのか、あちこちでガサガサと草木が揺れた。

「何って……あー、決闘?」

 風邪と戦闘に思考を邪魔されて頭が働かない。随分間抜けな返答をした気がする。

「貴方には関係ないでしょう!」

「まぁ、それはその通りなんだけど……」

 適当に返事をしながら攻撃をやり過ごす。無益な殺生はしたくない。ということなのだろう。『不安』の言っていた通り、随分と手加減をされているみたいだ。それでも決して、僕が気を抜けるような半端なものじゃない。重い一撃を去なす度に身体に新しい傷が増えていく。僕の戦意を削ぐための攻撃。

「それは私の『不安』です!私が解消する義務があります!」

「自分で解消できなかったから、こうなってんだろ!」

 視界の隅で、玲音は悔しそうに唇を噛む。椅子から立ち上がろうとして、ふらつき、床にへたり込んだ。脳震盪を起こした直後なのだ。無理はない。

「決闘の最中によそ見とは、感心しませんわね」

 先程より幾分速度を増した鉤爪が僕の身体を貫きにかかる。防御は、間に合わない。咄嗟に身を捩るけれど、胸の中心から右の骨盤にかけて、二本の太い溝ができた。

 ……熱い。アドレナリンのおかげか痛みは大して感じないけれど、焼けるような熱さと痒みが胸を走る。

「屋代さん!その刀を私に、私がそれで自害すればその『不安』は消えます!」

「そうならないために今僕は戦ってんだ、馬鹿!」

 いい加減、眉上の傷が鬱陶しい。とめどなく血が流れ込んで左目がほとんど使い物にならない。防戦一方では勝機はない。だからと言って、手加減しながらだって僕をいたぶれる相手に一太刀だって浴びせられる気もしない。『不安』に挑んだことに後悔は無いけれど、やはり無謀だった。

「どうして……どうして、貴方はそこまで──」

「君に生きていて欲しいと思ったからだよ」

 大きく刀を振り抜いて、躱されて、反撃に左の脇腹を割かれて。僕のこの行動に、無駄死に以上の意味はあるのだろうか。

 距離をとって、『不安』を見る。きっとあいつには、まともな傷一つ付いていない。僕の攻撃はせいぜい、ウエディングドレスを台無しにしたくらいのものだ。

 瞼の血を拭う。ワイシャツの袖はもうたっぷりと血を吸っていて、顔中に血を塗り広げるに終わった。発熱のせいなのか、出血のせいなのか、もう、真っ直ぐ立つことすらままならない。……時間が無い。もう、防御はいい。刺し違えてでも、殺せ。

「悪いけど、君の悩みは聞かせてもらったよ!『不安』のことも、身体のことも。……申し訳ないけど、僕にはその悩みはどうすることもできない!本当、悪かった!」

「……そんなこと、今はどうだって──」

「それは理解した上で言わせてもらうけどな!お前、もっと人を頼れ!」

「なっ……貴方も分かったでしょう!?私の不安は誰にどうすることも──」

「悩みを打ち明けろって言ってんじゃねえ!強いフリすんなって言ってんだ!」

 激昂にも似た金切り声が止むと同時に、『不安』が止まった。

「誰よりも自分が苦しんでるのに、平気なフリすんなって言ってんだ」

 ……なぜ動かないのかは、分からない。罠かもしれない。けれど、今しかない。

「僕に君の不安を取り去ってやることはできないけど、君が一人でずっと苦しんでたことは理解してやれる!」

 今を逃がしたらもう二度と、こんな機会は訪れない。血の味がする唾液を吐き出して、駆ける。

「君はずっと一人で抱え込んできたみたいだから知らないだろうけど、人間の感情なんて単純なもんで、たった一人寄り添ってくれる人がいるだけで、それだけで心は随分軽くなるんだよ。僕は君の不安を理解してやれる!だから──」

 間合いに入った。今なら外さない。頼むぞナマクラ。これが多分、最期のチャンスだ。

「僕が君の『不安』を晴らしてやる」

 思い切り、刀を振り下ろす。

 驚くほど、手応えがなかった。

 外した。そう思って顔を上げると、そこには左の肩から右の腰に掛けて、真っ直ぐと一本、線の入った『不安』の姿があった。『不安』の上体は次第にズレ始め、土煙を立てて地面へ落ちる。

 僕は、その場に膝を着いた。

「あらあら。これではもう、お手上げですわね」

 分断されたボディが文字通り手を上げる。この期に及んでまだ、心底楽しそうに笑っていた。

「……最後、なんで手加減した?」

「最初からずっと手加減はしておりましたけど、最後の最後は動かなかったのではなく、動けなかったのですわ。彼女はあの言葉に、殆ど救われてしまいましたから。彼女の心が救われたから、私も弱くなってしまったのでしょうね」

「……どうりで、まるで手応えがないと思ったよ」

 座っているのも嫌になって、仰向けに倒れ込む。

 風が涼しい。地面が冷たい。全身傷だらけで頭もガンガンと痛むのに、僕は今までの人生で経験したことがない程の充足を感じていた。

「……屋代さん!」

 しばらく呆けて固まっていた玲音が、よたよたと僕に近寄る。

「んん……平気か?怪我は?」

 目が開かない。体力が尽きるまで動いたのは、多分、小学生以来だ。

「……私の台詞です、それは。酷い、こんなに傷だらけになって……」

「あー……でも、まぁ、死ぬほどじゃないと思う」

「死にませんわよ。彼は。手加減しましたもの」

「貴女は!私だけ殺せば満足だったのでしょう!?無関係な人を巻き込むのはやめて下さい!」

「『僕を殺してからにしろ』とまで覚悟を見せられて、それを反故にする訳にはいきませんもの」

 そう言って笑う『不安』は、サラサラと音を立てて切り口から砂に変わっていく。

「……なんか、遺言でもあったら聞くけど。今のうちに言っとけ」

「そうですわね……もう私が生まれないように、彼女のことを守ってあげてくださいな」

「ん……まぁ、善処するよ」

 この世界に、生きる理由ができてしまった。

「僕からも一つ、いいか?」

「ええ。なんでしょう」

「楽しかったよ。色々」

「……変な方」

 『不安』はそう言うと穏やかに笑って、波音を立てるみたいに砂山を築く。砂山はもう、何も語らなかった。

「……はぁ。つっっかれたなぁ……」

 煮え切らない空気を振り切るように、僕は誰にともなく呟いた。

 地面に腕をついて立ち上がるけれど、身体はまるで言うことを聞かない。そのまま再び地面に倒れ込みそうになって、今度は玲音に抱き止められる。僕の血と、『不安』の残した油に混じって、甘い、甘い、桜の香りがした。

「動けますか?」

 僕が首を振ると、玲音は、傷を見ます。と言って僕を寝かせ、手際よくワイシャツのボタンを外していく。

「傷が良く……月でも出てくれればいいのですが……」

「懐中電灯が、その辺に──」

 あるはずだけど、と目を動かすと、懐中電灯は東屋の端っこでひっそりと潰れていた。……後で楓に謝らなくちゃな。

「あ、月が……」

 陰って、灯って、を繰り返していた月が再び顔を覗かせて、僕たちを照らした。左脇に座った玲音がそっと僕の胸の傷に触れる。本当に命に関わるようなものではないと分かって貰えたようで、彼女はやっと肩の力を抜いた。

「屋代さん。貴方は……どうしてこんな無茶を?」

「……僕が生きているのに、君が死ぬのは間違ってるって思ったからだよ。一度死んだはずの僕が生き返って、何も悪いことをしていない君が死んでいくのはおかしいと思った」

「……生き返った?」

「うん。別に、信じなくていいけど」

 玲音は何かを考えるように口を閉じる。抗いがたい睡魔が僕を襲った。

「たった……それだけの理由で?」

「いや、まぁ、他にも色々あるんだけど……」

 それらはあまりにも言いづらくて、視線を空に泳がせる。僕らを照らす満月の照明だけが、僕たちのことを静かに見守っていた。

 ……。

 もう、あなたのことは引き摺らなくていいのかな。四季先輩。

 僕は。

 僕は、あなたとは違うところに、生きる理由を見つけました。

「月が綺麗ですね」

「え?……ええ。本当に、綺麗な月」

 ……伝わらないか。無理もない。

 僕にももう、分かっている。ここはきっと日本によく似た別の世界。漱石はいない。この国は、日本とは別の歴史を歩んでいる。

 伝わらないなら、それでもいいと思った。それでも。

「珍しいですね。貴方が私に敬語だなんて」

「『あなたが好きです』っていう意味だ」

 臆病者の僕に彼女の目を見ることはできなくて、その優しさと力強さにあやかろうと再び月に視線を移すけれど、そんな僕の小心を嘲るように、月は半身を隠して笑った。

「…………野暮なことを聞くようですが、その好きというのは人としてとか、そういう──」

「恋とか愛とか、そういう」

 心臓が痛い。心臓が熱い。

 きっとあいつに胸を裂かれたせいだ。

「どうして?」

 とても子供っぽく、困惑を露にして、彼女は尋ねる。

「……似てると思ったんだよ。大切な人を亡くして、生きる意味を見いだせなくて。……僕は、そこで生きる事を諦めてしまったけど、君は苦しみながらも、ちゃんと自分の足で立って生きていて、それが格好いいと思った」

「格好いい……」

 あまり、ピンと来てはいないようだった。言われて嬉しい言葉でもなかったかもしれない。けれど僕は、そこに惹かれてしまったのだから仕方がない。

「まだ、出会って三日しか経っていませんけど」

「僕も驚いてるよ。惚れやすい方ではないと思ってたんだけど」

 自虐するように笑った。楽しかったわけではないけれど、そうしていないとこの空気には耐えきれない。無限にも思える沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。

「貴方は……私の不安を取り去ってくれて、とても感謝していて、好きだと言って貰えたことも、嬉しいです。本当に」

「うん」

「ですが私は、まだ貴方のことを何も知りません。私には、私が貴方のことを好きかどうかも、分からない」

「……うん」

「なので、えっと。…………お友達から、よろしくお願いします」

 そう言って彼女は、僕の手を取る。

 そんなこんながあって。なんやかんやがあって。

 僕は彼女と、友達になったのだった。

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