20話 苺のおもひで。
詩編大聖堂にてトールが閉居状態にあった頃――。
ジャンヌとテルミナは、教皇領プロヴァンス女子修道院の院長室にいた。
「バルバストル男爵家の――遠縁にあたる女児?」
「ええ、そうですの」
平素の軍服姿に教皇逝去の弔意を示す喪章を着けたジャンヌが頷いた。
「名はミーナ、歳は十三となります。ミーナ、院長殿にご挨拶なさい」
「あ?」
ミーナと呼ばれたテルミナは、殊更に反抗的な態度を示した。
模範的な信徒の家庭で育った女児が月例礼拝に出向く際のドレスを、テルミナは大いに着崩して身に纏っている。
それら全てが、乱れた衣服は乱れた想念を現わす、と固く信ずる修道院長の印象を決定付けた。
「――なるほど」
相槌を打ちながら、院長は二人の姿を見やった。
ジャンヌについては、確かにバルバストル家の令嬢なのだろう。
EPRネットワークにある貴族名鑑を見れば分かる。
他方で、ミーナという名の女児については、見覚えのある気もしたが、貴族名鑑には記載が無い。
教皇領の領民であれば、ニューロデバイス認証で全てを把握できる。
だが、他領邦となると、ここには封建制の弊害があった。
帝国臣民でありながら同時に領邦民なのである。
領邦民の管理は各領邦に任されており、個人の特定をするには領邦の行政機関に問い合わせねばならない。
手続きや基準も統一されておらず、実に煩雑であった。他領から来た者を洗うには時間が掛かる。
本来ならば、その時間を掛けて調べるべきであったのだが――、
少なくとも優雅な女は、バルバストルで間違いないだろう。
また、彼女が申し出た寄付額は、身分の相場に相応しいものであった。
少なすぎず、多すぎず、疑念を抱かせる額では無い。
そして何より、目の前にいる女児が、非常に理想的なのである。
プロヴァンス女子修道院は、常に問題児を求めているのだ。
天秤の傾きが大きいほど役に立つ人材に育つ事は、これまでの実績が証明している。
「分かりました」
ゆえに、院長は、此度の依頼を受けると決めた。
何れにせよ見習い期間というものがあり、その間に身元は洗い直せば良いのである。
提示された寄付金と、目の前に立つ逸材を逃すことを惜しんだ。
「当修道院にて女神ラムダの御許にあれば、いかなる悪童とて敬虔深き淑女へと育ちましょう」
「ええ、聞き及んでおりますわ」
そう言うジャンヌの優雅な笑みは、猜疑心の塊である院長の心すら僅かに溶かす。
軍服姿であれ、完璧なる淑女に見えるのがジャンヌ・バルバストルである。
やんごとなき事情で、軍の後方支援部隊にでも属しているのであろう、と院長は考えた。
「実際の手続きは後日に――。ところで、今宵の宿が取れず困っていたのです。こちらで、お借りできると嬉しいのですけれど」
教皇逝去に伴い、聖都を弔問する者が多く、宿泊施設が逼迫していたのは事実である。
本来なら女子修道院を宿泊施設代わりに使うなど許されないが、目の前に立つのは淑女と逸材なのだ。
「良いでしょう」
院長が手を打つと、部屋の外で控えていた少女が入って来た。
「クリス、お二人を、宿坊へご案内なさい」
「承知しました」
クリスティーナ・ノルドマンが笑顔で応えた。
禁衛府長官の娘にして、天秤衆ブリジットの傍付である。
「どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます」
「――ふん」
こうして、プロヴァンス女子修道院は、二頭の雌獅子を招き入れてしまったのである。
◇
聖堂閉居は二日目となり、すでに夜も更けている。
とはいえ、再びの外交戦が繰り広げられており、通路には人の往来があった。
明日は、新教皇を決する選挙となる。
両陣営とも、最後の票固めに動いているという事だろう。
他方で、女帝の居室は今宵も静かであった。
女帝といえども、閉居においては他と同列に扱われる。
ウルドは、質素な部屋で、小さな寝具の上に臥せっていた。
――まあ、これも良い。
意外にも彼女は、傍目が思うほどには不満を抱いていない。
それどころか、心が不思議に安らいでいるのを感じていたのだ。
抑えの効かぬ怒りが、自身の内に常在すると気付いたのは、出生に疑義があると知った時である。
――父と慕ってきた相手は、実父では無いのではないか?
調子の良い召使いが、うっかりと口を滑らせたのだ。
今にして思えば、悪意あっての事だったのだろう、とウルドは理解している。
傾国の美女になろうなどと周囲に持ち上げられ、幼き日より己でもそう思っていたが、ふと父を見ればピュアオビタルとしては凡庸な顔立ちであった。
かといって美しい母の面影を色濃く残しているともいえぬ――。
無論、検査をすれば分かる話であるが、さりとて容易に白黒付けて良い問題ではないと分かっていた。
それからである。
他人から見れば何気ない出来事に、取るに足らぬ戯言に、見え透いた追従と笑顔に――全てに怒りが湧いた。
こうして、癇気癖があるなどと警戒されるようにはなったが、ウォルデン領邦で暮らした頃は抑えが効いていたのだ。
だが――、
己の意思とは関係なく、飾り物の女帝に据えられた。
薄気味の悪い道化が住まう内裏で、廷臣共の言うがまま頷いているうちに、続けざまに三人の宰相が死んでいく。
何れも怪死である。
癇気癖のある自身が疑われているとは分かったが、抗する術など知らず捨て置くほか無かった。
そこに現れたのが、エヴァン・グリフィス公爵である。
内裏を訪れ、グリフィス領の名産であると言い、手土産の苺を差し出して微笑んだ。
三人の宰相を始末したのは己である、と事も無げに告げてから付け加えた。
「私の言う通りにして頂きましょうか」
宰相を拝命したばかりの男は、誰も居ない部屋に座する女帝を見下ろしている。
「貴女は、堪える事など不要な権力を得たのです」
ウルドには、話の主旨がまだ読めていない。
ただ、相手の慇懃無礼な態度の裏に、己の力に対する絶対的な自負があるのは読み取れた。
「内なる怒りを解放して下さい。道化に、召使いに、廷臣に、そして私に。権力とはその為にあるのです」
「な、何を言っているの?」
女帝としての立ち振る舞いに、まだ慣れていなかった頃なのだ。
生来の口調で応えてしまう。
「愚かになるのです。どうしようもなく愚かに。生き続けたければ愚かになりなさい。やがては、それが本当の貴女になる。意識せずとも愚かに振る舞えるでしょう」
何を馬鹿な事をと思ったが、事実その通りとなった。
堕するのは易く、愚かであるのは心地が良い。
「不敬――不敬が過ぎよう――私――余は、女帝ウルド――」
「そうですな。だが、私に言わせれば――」
エヴァンは苺をひとつ摘まむと、ウルドの唇に押し当てた。
「――娘でもありますからな」
◇
首席秘書官となった時、これほど職務の幅が広くなるとは想像もしなかった。
――尾行から張り込みまでさせるなんて……トール様って人使いが荒いわよね。
心中でぼやいたロベニカが潜むのは、使用人が不在となった厨房である。
薄暗い照明は灯っているが、この時間に訪れる者は居ないだろう。
物陰に隠れたまま、既に一時間ほどが経過している。
まさか、返り討ちにされたのかと思い始めたところで、睨み続けていた壁がスルスルと横に動く。
隠し通路から一人の男が出て来た。
辺りを警戒しつつ壁の状態を元に戻し、容易に開かない事を確認している。
男の不安気な表情は薄明かりの下でも分かった。
犯行に及んだ後なのだから当然だろう、とロベニカは思う。
「こんばんは」
「ひぃっ」
突然、物陰から出て来た相手に、挨拶をされて驚かない人間などいない。
「シモン・イスカリオテさんですね」
女帝ウルドが連れた此度の従卒の一人である。
部屋付き使用人の長にして、内裏で鼻を砕かれた初老の男であった。
「悪いですけど、ひと晩――付き合って頂きますね。あ、逃げな――」
ロベニカの反対方向へ駆け出そうとするが、別の人物が立ちはだかった。
「――痛い事――させないで」
肉切り包丁を持ったマリが囁いた。
T-minus
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