6 罠にはめられたアリーセ
粛とした図書館内。
背後から響く靴音を耳にしたエリクは、窓の外の景色から視線を外した。
「こんなところに呼びだして、何?」
ギゼラの問いかけに、エリクは振り返る。
窓から射し込む夕日が、室内の大理石の床に暗い影を落とす。
建物内は薄暗く、ギゼラの表情まではわからなかった。
「禁書は僕が元の場所に戻しておいた」
一瞬の沈黙の後、ギゼラはそう、と答えた。
「何故、こんなすぐにばれるような真似をした」
ギゼラを見るエリクの目はどこか哀れみがにじんでいた。
「まるで、私が禁書を持ち出したという口ぶりね」
「君が誰かに頼んで保管室の封印を解いてもらった。その相手が誰であるかも、僕にはわかっている」
「変な言いがかりはやめて欲しいわ」
「二度とこんな真似はしないと誓って欲しい」
「知らないと言っているでしょう?」
「そう、か……」
低く呟いたエリクの瞳の奥に峻烈な光がよぎる。
ゆっくりと、右手を眼前まで持ち上げ、エリクはぱちりと指を鳴らした。
次の瞬間、目の前の空間が揺らぎ、そこにギゼラともう一人の男、イーサの姿が映し出された。
「何? これ……どういうこと?」
「あの時、この図書館で禁書が盗まれた日の出来事をこの場で再現した」
ギゼラは青ざめた顔で、映し出された映像に視線を向けた。
『約束通り、お望みの物を持ち出したよ』
『さすがだわ。でもよく封印が解けたわね』
イーサは肩をすくめた。
つまり、この男にとって、そのくらいわけもないということなのだろう。
イーサから禁書を受けとったギゼラは震える手で本の頁をめくろうとする。
『何故、そんなものに興味を持つのか知らないけど、一介の魔道士が触れていいものじゃない。やめたほうがいいぜ』
『あら、魔道士なら誰だって失われた古代術、触れてはいけない禁術に興味を持つのは当然でしょう? あなたは興味がないの?』
ギゼラは口元に手をあて身体を震わせた。
間違いなくあの日、この図書館でイーサと交わしたやりとりだ。
「や、やめてよ……やめて!」
映し出された映像をかき消すように、ギゼラは手を振り回した。
「無駄だよ。僕が術を解かない限りこれは消えない」
さらに映像は続く。
『ねえ、しばらくここに誰も寄せつけないようにして欲しいの』
『そんなの結界でも張り巡らせれば、容易いことさ』
特にイーサは理由を問わなかった。
『あなたは本当に素敵だわ、イーサ』
イーサの首に腕を絡ませ、ギゼラは自ら口づけを求める。
『へえ、エリク・アードリガーよりも?』
ギゼラはくすりと笑う。
『ええ、あんなつまらない男よりも、ずっと素敵よ』
「嘘よ……こんなの全部嘘よ!」
凄まじい形相でエリクに駆け寄り、ギゼラはエリクの頬目がけて大きく手を振り上げた。しかし、いとも簡単にその手をつかまれ、背後の本棚に押さえつけられる。
「痛いわ、離しなさい!」
「この件が上に知れ渡れば、君は間違いなく〝灯〟から追放される」
押し殺したエリクの低い声に、ギゼラは唇を震わせた。
目を細めたエリクはさらに声をひそめ続ける。
「術を奪われ〝灯〟での記憶を消され、普通の人間として問題なく生活に馴染めればそれでいい。だが、記憶を操作された時点で廃人状態となる者もまれにいる。〝灯〟は……」
ギゼラはごくりと喉を鳴らした。
「その人間を秘密裏に捕らえ、この世から存在を消し隔離する」
「この世から存在を消す……」
ギゼラは震える声でその言葉を繰り返した。
上層部しか知らない〝灯〟の裏事情だ。
「このことは僕の胸にだけにしまっておく」
それがせめてもの情けだというように。
「だけど、もし今度アリーセに何かしたら」
そう呟いて、エリクはもう片方の手を本棚にそえた。
ギゼラの目が見開かれる。
「や……やめて……」
ギゼラを見据えるエリクの瞳の奥に、ちらりと危険な色が走った。
「たとえ〝灯〟の掟を破っても、魔道士の資格を失ったとしても、僕は君を許さない」
「やめ……いやーっ!」
瞬間、エリクの手から炎が舞い上がり、ギゼラの背後の本を焼き尽くす。
本棚に寄りかかったまま荒い息を吐き、ギゼラはその場に腰が抜けたようにへたりこんだ。
炭となった本の残骸がぱらぱらと頭上から落ちてくる。
図書館を出て行くエリクの背中を見つめ、ギゼラは赤くなった手首をさすり唇を噛みしめた。
あんなに激しい感情を剥き出しにしたエリクを見るのは初めてだった。
魔術の腕は有能でも、人間として男としてつまらないと思っていた。
いまだ足が震えて立ち上がれないギゼラの元に、近寄ってくる人影。
「やれやれ参ったよ」
現れたのはイーサだった。
おそらくエリクが去ったのを確認してやってきたのだろう。
参ったというわりにはその顔はあまり深刻そうではない。
「あなたまさかエリクに喋ったわね!」
それこそまさか、とイーサは肩をすくめた。
「封印を解くとき、術の痕跡は残らないようにしたはずなのに、悔しいが、あいつには通用しなかったようだ」
「あなたの術が不完全だったってわけね」
「言ってくれるね」
目を細め、イーサはギゼラに視線を据える。
が、いや、と首を振ってため息をつく。
「正直、いつお咎めをくらうかびくびくしていたけど……驚いたよ、あの事件があった二日後には、何もかもなかったことになっているんだ」
ギゼラがどういうこと? とイーサを見る。
「おそらくあの男が、みなの記憶を操作したんだろう。〝灯〟の長がそのことに関与しているかは不明だが、それにしてもどれだけの力を隠しもってんだよあいつは」
「みなの記憶を操作した? でも……」
「俺たちの記憶に介入しなかったのは……」
イーサはいったん言葉を切り、深い息を吐き出した。
「警告さ。この件で俺はもしかしたら〝灯〟から追放されるはめになっていたかもしれない。つまり、俺はあいつに借りができてしまった。これ以上あいつを敵に回したくないし、二度と逆らえない」
いや、とイーサは首を振る。
「逆らいたくないな」
イーサはにっと笑ってギゼラを見下ろす。
「立てないの? 手、かそうか?」
差し出した手をギゼラは振り払った。
イーサは肩をすくめた。
「あんた、あいつを逃がして大損だね。もったいなかったんじゃない?」
そして、さらに十日が過ぎた。
あの騒ぎが何だったのかと思うほど、今ではすっかりいつもの日常を取り戻し、不思議なことに誰も何も事件のことを口にする者はいなかった。
まるで最初からなかったというように。
エリクは一切何も語らなかった。
いつもの裏庭で考え事をしていたアリーセは、背後に近づいてくる人の気配に気づかなかった。
「やっぱり、ここにいたわね」
突然声をかけられ肩を跳ね上げる。
振り返った視線の先、すぐ側にギゼラが立っていた。
おそらく自分を罠にはめたのはギゼラだろう。
アリーセは警戒心に身体を緊張させる。
胸がざわつき、嫌な予感を感じとる。
すぐにこの場から逃げ出したかったが、何故か足が動かなかった。
「おまえさえエリクの前に現れなければ、私は将来〝灯〟の長の妻となれたのに」
まだそんなことを言っているのか。
「ねえ、あなたこの間の禁書の中を見た?」
ギゼラの問いかけに、アリーセは答えない。
「あの本には〝異界の王〟を召喚する術が記されていたの。成功すればどんな望みも叶えられ、さらなる力を得ることができる禁断の術よ」
ギゼラは赤い唇をゆがめ、すっと右腕を高くかかげた。
何を、と言いかけアリーセは言葉を呑む。
回りの景色が一瞬にして色を失い、灰色の世界に包まれる。結界を張ったのだ。
おそらくこの結界にいる限り、ここで起こることは外の者には何も見えない、何も聞こえない。
かかげたギゼラの手がアリーセの足下を差し、図形のようなものを描き始めた。
『闇の世界へと通じ
繋がる異界の門よ
我が喚び声を聞け
我が召喚に答えよ』
淡々と詠唱を続けるギゼラの声とともに、足下に黒い奇怪な紋様が浮かび上がる。
アリーセは口元に手をあてた。
この世の禁忌とされている術をギゼラは実現しようとしているのだ。
「こんなことして、ただでは済まないわよ」
しかし、アリーセの忠告などギゼラの耳には届いていないようだった。ギゼラはさらに禁断の詠唱を刻み続けた。
『汝の名を喚び刻む
我が願いに答えよ
我が思いを叶えよ』
足下からぞくりと這い上がる不穏な気配に悪寒が走った。
肌が粟立ち震えが止まらない。
ギゼラをとめようと駆け出そうとしたが、
まるで足が地面に縫いつけられたように、一歩も動くことができなかった。
「私はさらなる力を得て〝灯〟の上層部に駆け上がるわ。そして、エリクも手に入れる」
ギゼラはくつくつと肩を揺らして笑った。
異様なぎらつきを見せるギゼラの双眸は、何かに憑かれているかのように見えた。
「〝異界の王〟よ姿を現しなさい」
足下の魔方陣が歪み、黒い霧が吹き出した。やがてその霧は、かろうじて人の形と呼べる姿をとった影となる。
『我を喚んだのはおまえか』
「そうよ、私よ。喚びだしたのは私!」
ギゼラは声をはずませ、まろぶように〝異界の王〟の前にひざまずいた。
『何故我を喚んだ』
「この世からこの小娘の存在を消してちょうだい! でも殺してはだめ。もっとも苦しくて辛い思いを味わわせてやりたいの」
アリーセは言葉を失った。
そこまで自分はギゼラに憎まれていたのか。
『よかろう。では、その娘を時空の果てに飛ばす。それでどうだ?』
黒い影がゆらりと揺らいだ。あたかも愚かな人間の欲望を嘲笑うように。
そして次の瞬間、足下の魔方陣がぐにゃりと歪み、徐々にアリーセの足が地中へと沈み始めた。まるで底なし沼にはまっていくように。
「冗談じゃない!」
何とか自力でこの呪縛から逃れようと、術の詠唱を紡ごうとするが、やはりこの間と同じ、何も思い浮かべることができなかった。
「誰も助けには来ないわよ。時の狭間で死ぬまで一生、さまよい、苦しめばいい。いえ、そこに時間の概念などあるのかしら。だとしたら生きながら一生ってことになるわね」
もがけばもがくほど、身体が黒い影の渦に捕らわれ沈んでいく。
すでに胸のあたりまで地中に埋まってしまった。
自由となる両手を必死に動かすが、何もない虚空を掻くだけで状況は変わらない。
「この世界から消えてしまいなさい」
アリーセの顔が絶望に歪む。
もう、だめ。
「助けて……エリク!」
その名を叫んだその時。
『解!』
厳とした声が辺りに響いたと同時に、灰色だった景色が一気に色を取り戻す。
結界を破ったエリクが飛び込み、真っ直ぐにアリーセの元に駆けつけ手を伸ばした。
「アリーセ!」
しかし、触れたのは指先だけ。ほんのわずかの差でアリーセの姿は魔方陣へと飲み込まれ消えてしまった。




