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3 エリクの婚約者

 〝灯〟の時計台の鐘が昼を告げると同時に、アリーセは建物から飛び出し裏庭へと走った。期待に胸が弾む。

 だが、エリクは忙しい人だ。

 約束の場所には現れない可能性もある。

 もしそうだとしても、残念だが仕方がないこと。

 だから、裏庭のベンチに腰掛け本を読んでいるエリクの姿を見つけたときはあまりの嬉しさに胸のどきどきが止まらなかった。

 ふと、読んでいた本から視線を上げ、エリクは息を弾ませるアリーセに向かって手を振った。

 エリクに駆け寄り、アリーセは籐のかごと、昨夜借りた肩掛けを差し出した。


「肩掛けありがとうございました。それと、昨日のお礼にお弁当を作ったんです」


「君が?」


 うなずいてアリーセは籐のかごの蓋を開けた。

 中には色とりどりの具材を挟んだサンドイッチとハムとチーズ、茹でたじゃがいもをすり潰して丸めたクネーデルなど、たくさんのおかずが見た目よく、きれいに並んでいた。


「すごいな……おいしそうだ」


「あら、おいしそうじゃなくて美味しいの。こう見えてもあたし、料理得意なんです。ちなみにパンもハムもチーズもりんごのジャムも手作りよ」


 へえ、と声をもらし、エリクはアリーセ自慢のりんごジャムのサンドイッチを手にした。

 アリーセは感想を待つように、エリクが口にするのをじっと見つめ身を乗り出す。


「おいしい、おいしいよ!」


 でしょう、とアリーセは顔をほころばせエリクの隣に座った。


「どうしてこんなに料理上手なのに、ちゃんと家では食べないのかい?」


 エリクは二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。

 今度は蒸した鶏肉と野菜を挟んだものだ。


「だって一人で食事するのは寂しいもの」


 エリクは一瞬、複雑な表情を浮かべ、そうか、と声を落とした。


「何を読んでいたんですか?」


 アリーセはエリクのかたわらに置いてある本をのぞき込んだ。

 表紙を見れば魔道書関係の本だとわかるが、本の題名からして難しそうだった。


「研究会のための資料をちょっとね」


「もしかして、忙しいの邪魔しちゃった?」


 申し訳なさそうにするアリーセに、エリクはいやと首を振る。


「こんなにおいしいお弁当をご馳走になったんだ、どうってことないよ。それに少々行き詰まっていたし、いい気分転換になった。ありがとう。アリーセ」


 お礼を言われ、アリーセは照れたように頬を赤らめうつむく。

 たとえ、自分を気遣う言葉だったとしても嬉しかった。


「あの、また……」


 言いかけたアリーセの言葉が途中で途切れた。

 視線を上げたその先、一人の女が真っ直ぐこちらに向かって歩いて来るのが見えた。


「ギゼラ」


 エリクの口から女の名前が呟かれ、アリーセはちらりとエリクを見る。


 年は二十五歳前後。

 背に流れる黒髪をなびかせ、きつい顔立ちにきちんと化粧をほどこした美人であった。

 紅を彩った口紅が大人の女を強調させている。

 ギゼラと呼ばれた女は一度だけアリーセに視線を向けさらに、ベンチに広げられたお弁当を見下ろし含み笑う。

 何となく嫌な感じだとアリーセは感じた。


「こんなところで何をしているの? 午後から研究会があるって言ってなかった?」


 アリーセはえ? と小さな声をもらした。

 ギゼラは〝灯〟の時計台に視線を向ける。


「もうすぐ時間よ」


「ああ、わかっている」


「今日の集まりは今度の昇格試験に影響するのでしょう? 期待してるわよ」


 ずいぶんと嫌な言い方をする人だ。

 しらずしらず、嫌悪感をあらわにしていたのだろう、アリーセは上目遣いでギゼラを睨んでいた。


「急がないと遅刻するわよ。それと、今度食事に誘ってちょうだいね」


 アリーセの視線に気づいていながらも、小娘ごときの威圧など、何とも思わないと言わんばかりの余裕さで、ギゼラはくるりと背を向け去っていく。

 アリーセはベンチから飛び上がり深々と頭を下げた。


「ごめんなさい! まさかこの後大事な予定があるとは知らなくて」


「いい気分転換になったとさっき言っただろう? お弁当とても美味しかったよ。それじゃ、ごめん、僕はそろそろ行かないと」


「あの、頑張ってください」


 エリクはふわりと微笑み、アリーセの頭をくしゃりとなでた。



 ◆



 〝灯〟の裏庭、いつもの場所に座り込み、アリーセは空を見上げていた。

 青い空に悠々と流れる白い雲。

 頭上の桜は蕾がほんの少し膨らみ、薄紅色に染まり始めている。

 きっと、あと一週間もすればいっせいに花開くであろう。

 そういえば、前に出会ったイェンという少年。

 あれ以来ここへ現れることもないし、姿も見かけない。

 本当に〝灯〟の人間だったのか。

 いや、そもそもあれは夢だったのか、現実だったのか。

 まあ、今となってはどうでもいいことだが。

 そんなことをぼんやりと考えていたアリーセの目の前に、ふっと影が差した。

 見上げると、ギゼラが腕を組んでこちらを見下ろしていた。

 浮き立つ赤い唇が薄い嗤いを刻み、その毒々しさにアリーセは眉をひそめた。


「あなた、いつもここにいるのね」


 アリーセは上目遣いでギゼラを見上げた。


「もしかして、エリクに会えるのを期待しているとか?」


「ここはずっと前からあたしのお気に入りの場所よ」


 ギゼラはそう、と軽く流して続けて言う。


「一つ言っておくわ。あなたがどんなにエリクのことを思っても、彼は私の婚約者なの」


 不覚にも言葉を失ってしまった。

 考えてみればエリクにそういう女性がいてもおかしくはないし、ギゼラとなら年齢も釣り合う。

 ふとアリーセの脳裏に浮かんだのは、街の有力者の娘と婚約をしたというエリクの噂だ。

 確かギゼラは、貿易商を手がける裕福な家の娘だということを思い出す。

 この女性ひとがエリクの婚約者。

 多分、そうとう衝撃を受けた顔をしていたのだろう、アリーセの表情に満足したギゼラは、勝ち誇った笑みをその朱唇に浮かべる。


「それに、あなたみたいな子どもをエリクが本気で相手にすると思って?」


 アリーセは唇を噛んだ。


「あきらめなさい」


 そう言い捨て、立ち去るギゼラの背中を見つめ、アリーセは気が抜けたように桜の木に寄りかかった。


「そっか……婚約者がいたんだ……」


 泣きたいような、切ない気持ちがこみ上げる。

 締めつけられるように胸が苦しくて痛い。 こんな気持ちは初めてだ。


「よお、アリーセ、久しぶりじゃないか?」


 そこへ、一人の男が気安く手を振ってこちらに近づいてきた。

 男はすれ違うギゼラにちらりと視線を向け、口笛を吹いてにやけた笑いを浮かべた。

 男友達の一人だ。

 友達といっても、誘われるまま深い関係になったこともある。


「ちょうど暇なんだ、遊びに行こうぜ」


「今日はやめておく」


 即座にアリーセは答えた。

 いつもなら退屈しのぎにつきあうところだが、今日はそんな気にはなれなかった。

 男は慣れた手つきでアリーセの肩に手を回してきた。


「何だよ、らしくないじゃないか」


 アリーセは眉根を寄せた。

 何度か肌を重ねたことだってあるのに、何故か今は触れられることに嫌悪感を抱く。


「今日は乗り気じゃないって言ったのよ」


 肩に回された手を振り払う。

 ふと、視界のはしに人影が映った。〝灯〟の渡り廊下でギゼラがじっと、こちらを見つめている。

 アリーセは唇をかみしめた。こんなところを見られたくはなかった。

 もし、あの人がこのことをエリクに言ったら。

 そこでアリーセははっとする。


 何故、エリクのことを気にするのか。 

 何故、エリクに嫌われたくないと思うのか。


 アリーセの思考は途切れた。

 突然、男に肩を押され、乱暴に木の幹に身体を押しつけられたからだ。

 男の手から逃れようとアリーセは抗った。


「気取ってんじゃねえよ」


「やめてって言ってるでしょ!」


 すかさず相手の頬めがけて平手を放つ。


「この!」


 男の目に危険な色が広がったのを見て、アリーセは息を飲む。

 男の左手がアリーセの眼前に伸びた。


「何を……」


『眠りに誘え』


 途端、アリーセは足下をふらつかせた。

 アリーセとて実力のある魔道士。

 この程度の術など跳ね返すことは容易いはず……なのに。

 アリーセは目を見開き唇を震わせた。

 術が使えなかった。

 知っているはずの詠唱の言葉が何一つ思い浮かばず、術を紡ぐことができなかった。


「君」


 術にはまり意識を途切れさせるアリーセの耳に、落ち着いた、けれど厳しい声音が届く。

 ゆるやかに視線を上げると、行く手をはばむように、エリクが立っていた。


「何だよ! おま……」


 男の言葉が途切れた。

 相手がエリク・アードリガーだと気づき、顔色を変える。


「他人に害をなす術をかけるのは〝(とう)〟の掟に反する。君も知っているだろう?」


 男はエリクから視線を外し、言い訳をしようとして口をもごもごさせている。

 掟を破れば厳しい処罰。

 最悪、魔術を封じられ〝灯〟から追放されることもあるのだ。

 下級魔道士にとって上層部の人間は驚異の存在。

 彼らに悪い意味で顔を覚えられるのは、将来の為にもよくない。

 エリクは無言でアリーセを男から引き取り、抱きかかえた。


「行きなさい」


 エリクの一言でお咎めがないと知った男は、ほっとした顔で身をひるがえし走り去った。

 エリクはその場に膝をつき、立てた片方の膝にアリーセを寄りかからせ、軽く指を鳴らした。

 まぶたを震わせ、ゆっくりと目を開けたアリーセの顔をエリクはのぞき込む。


「大丈夫?」


 先ほどとは打って変わっての優しい声音。

 アリーセはエリクの腕にしがみついた。


 思い出したように視線を渡り廊下に移すと、こちらを睨んでいるギゼラと視線があった。

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