パン=ケーキは星の物
お気に入りのレストランは時間帯が昼時というのもあり、それなりの人が店内に溢れていた。
白磁の壁と白レンガに囲まれた細路地でひっそりと営業している割に、地元民から認知されて愛され、人気もあるというのが、個人的にもこの街一番と批評した、味に間違いない料理が味わえる、この店の唯一の難点だ。
窓やドアの外からも見える店内の混みように、ここまでも乗ってきたランブレッタに跨がったまま停止した少女は、げんなりとした表情を浮かべ、項垂れる。
「あ~っ、やっぱり混んでるじゃんか~……!」
ガシガシと荒っぽく、バレッタで止められている栗色の前髪に指を引っかけて嘆いている少女の名は、ステラ・ブラウニー。
辿り着いた街で路銀を稼ぎながら、不定期に街や国を転々とし、気の赴くままに旅をしている修理士だ。
「こりゃ飯にありつくまでに当分かかるな」
四本の足の指をかけてステラの肩に乗っかっている青黒い肌の小人がやれやれと肩を竦める。
小人の頭にはその肌と同じ青黒い二本の角が生えていて、丸い背中からは歪な羽が二枚、尻には根元が太く、先に伸びるにつれ細くなっている形状の尾が伸びていた。
一応言っておくと、どの方面から見てもデビル然とした姿の小人には特別名乗るような名はないのだが、今現在の所、相棒のステラからは『パン=ケーキ』と不本意ながら呼ばれていた。
「もう別んとこ行こうぜ」
「それはやだ。だってこの街で食べる最後のランチは此処のパンケーキって決めてたんだもん」
「じゃあ大人しく待てよ」
「それもやだ。待つの嫌いだし」
「何なんだオメー。どっちかしか選択肢ねーだろ」
小人は呆れて物も言えないと言った風に、ポークビッツのように小さく丸い指がついた青黒い手で、ぺちんとステラの頭を叩く。
その時、カランカラン、と路地にも響いたドアベルの音にステラは顔を上げる。店内から初老の客が一人、出てきた。チャンスかとも思ったが、残念ながら店内で順番を待っていた客が店員に案内されている姿が見える。そうそう上手く事は運ばない。
「すまんね、お嬢さん。もう少し隣に逸れてくれるかな」
「あ。すみません」
そういえば店の真ん前に止まったままだった、とステラはランブレッタから下りてから押し、脇へ逸れる。客はニコニコと満足そうな笑顔を浮かべてステラに「ありがとう」と礼を言う。
次に「ありがとうございました」と見送りに出てきた店員に「こちらこそ、ごちそうさま」と振り返りながら返答して、杖をつきながら路地を歩いて帰って行く。何となくその背を目で追った後に視線を戻した時、同じくして去りゆく客から視線を戻した店員と目が合った。
「あっ! いらっしゃいませ~」
「……あのー、あいてる席とかありませんよね……?」
「ただいま店内は大変混雑しておりまして……」
ステラがダメ元で聞いてみたところ、案の定、店員は愛想笑いを浮かべて申し訳なさそうに言う。ステラの肩に乗ったままの小人は「だよな」と頷いた。
「オレも待ちたくねーし、今日はとっとと帰ろうぜ」
耳元に口を寄せる小人が囁くように言う。
店内の窓際の席に座る子供が満面の笑みで、名物のパンケーキを頬張っている姿が見える。何枚にも積み上げられたふわふわのパンケーキタワーに、たっぷりとかけられたハチミツとタワーの上で溶け出すバターの香り。
とんだ拷問だ。目の前にあるのに、こんなにもいい匂いがするのに、私を食べてと言っているのに、見す見す逃して帰るだなんて考えられない。
耳元でぼやく悪魔の囁きには耳を貸さず、ただならぬ様子で窓を凝視する少女の耳に天使の言葉が飛び込む。
「一応席はあることはあるんですが……」
「――なんですとっ?!」
***
実は、白磁の壁と白レンガに囲まれた細路地のレストランにはテラス席もある。しかし、この時期は基本的に利用客がいないのだ。
勿論、理由はある。この白磁の路地の上方には天蓋のように網が張られていて、そこに伝う植物がこの時期は美しい花を咲かせる。マゼンタのブーゲンビリアが空を覆う路地の景色は綺麗だ。まるで童話の中の秘密の路地にでも飛び込んだかのような気持ちにさせる。
白い路地には至る所に天蓋から落ちたブーゲンビリアの花弁が散らばっていた。正確には花弁ではなく、色づいた包葉が時折葉を滑り落ちる雫のように舞い落ちるのだが、上空から落ちる花を避けるためのパラソルを開くほどの道幅はない。だから基本的にこの時期、テラス席で食事をする客はいないのだった。
店の壁際に寄せてランブレッタを止め、テラス席に腰を下ろしたステラはすぐに案内した店員にお目当てのホットケーキとドリンクにコーラを注文した。
いくら待つのが嫌いといえど、結局のところ食事が来るまでに待ち時間は必須だ。しかし、席に着くまで待つのと、注文した食事を待つのとは違う。
目を輝かせて、既に手に握ったナイフとフォークをご機嫌な様子で打ち合わせる姿は十代前半の少女くらい幼く見える。一方で、肩から頭のてっぺんに移動し座っている小人は不機嫌そうに口をへの字に曲げながら、ステラを窘めた。
「おいおいやめろよ、ステラ。ガキみてえなことすんな」
カトラリーを打ち合わせて音を立てるなんて慎みなく下品な行いは許容できず、なにより不愉快だ。小人に注意されたステラは「はぁい」と珍しく聞き分けよく声を上げて、カトラリーを元のケースに戻す。
その時、ステラがカトラリーケースの中にマゼンタの花が入っている事に気付いて、指先でつまみ上げる。そして視線を上空、青空を遮る色鮮やかなマゼンタに彩られた天蓋へ、次に足下にも同じようなマゼンタが散らばっている事を確認する。
「これって食べられるかな?」
「さぁな」
「あんまり美味しくはなさそうだよね」
「キシシ、じゃあ食ってみな」
口角を引き上げて、下卑た笑い声を上げる小人に「あんたが食べれば」と笑みを浮かべて軽口交えて抗言するステラが突然、勢いよくイスから立ち上がった。
前触れのない揺れにバランスを崩して頭の上からころりと落っこちた小人は空中で一回転した後、背中から生えるぼろぼろの歪な羽で抵抗を受け、何とか勢いを殺しながらテーブルの上にべちゃりと伸びて着地する。
「――なにすんだ!」
体を起こした小人はテーブルの上であぐらをかきながら、握り込めた青黒い肌の小さな拳が抗議するように振り上げて叫ぶ。しかし、小人の叫びを意にも返さず、ステラは一点を見つめていた。
カランカラン、と再びドアベルの音を響かせながら店の中から片手でトレーを支えて運ぶ店員が出てくる。テラス席の客はステラ一人だけ、トレーの上に乗っているパンケーキはステラの為だけの物だ。
キラキラと目を花を濡らす朝露のように輝かせる。うら若く愛らしい乙女の表情を浮かべながら、口内を湿らせていく唾液を飲み込んだ。
「――待ってました!」
「……お待たせいたしました」
席から立ち上がり、満面の笑顔で待ち構えていた少女の姿に、若い店員は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔和な表情を浮かべてテーブルに注文のパンケーキとコーラを置いた。
今すぐにでも皿につんのめってパンケーキに突っ込む勢いだったが、ステラはハーフパンツのカーゴポケットの中から取り出した紙幣の何枚かを店員に手渡した。
「これ、先にお会計でお願いします。残りはチップで取ってください」
「かしこまりました。そうだ、もしよければこちら、ご自由にお使いください」
「いいんですか? それじゃ、ありがたく」
店員は一礼した後、また慌ただしく店内に戻っていく。
店員がステラに渡したのは傘だ。恐らくこれで頭上の花を遮って食事をどうぞ、ということだろう。しかし、ナイフとフォークで腕が二本、傘まで差して食事をするにはどう考えても手が足りない。
そこでようやくステラはテーブルの上であぐらをかいて座る青黒い肌の小人が、じとりと粘着質な視線を向けているのに気付いた。眉間には八の字の皺が刻まれ、これでもかというくらい顔を歪めている。
「どうしたの。パン=ケーキ、いつにも増してブサイクな顔して」
「うるっっせえ! その変な名前で呼ぶなっつったろ!」
「ごめんごめん。ま、それはそれとして傘持ってて欲しいんだけど」
「あ? ヤダよ。何でオレがンなことしなきゃなんねーんだ」
「折角のごちそうに花が落ちたらやだし」
よくもまあ、いけしゃあしゃあと。
苛立ちを表すように、小人の尾が上下に揺れてテーブルを叩く。
出会った頃から世界は自分を中心に回っているのだと考えている節すらあるほど、傍若無人で!
うぬぼれの激しい!
自己中心的でずる賢い!!
可愛げが欠片もない、ガキ!!!
青黒い肌の下で、とぐろを巻く赤黒い激情を、ステラ・ブラウニーが理解する事など決してない。
それでも、素知らぬ顔でコーラにストローを突き刺して、嚥下している少女が憎らしくて仕方がない。馬車馬か召使いのようにこき使いやがって、
「オレを! 『何』だと思ってる!」
テーブルの上でヒステリックに喚き散らす小人にちらりと視線を向けたステラは、コーラを飲むのをやめて、その場に屈む。テーブルに立つ小人の目線と同じ高さに視線を合わせたステラは、にっこりと不敵な笑みを浮かべて言った。
「勿論。最高の相棒だと思ってる」
***
振り上げた拳のやり場を見失った小人はステラの頭上に戻り、大人しく傘を開いていた。一度解いて、掻き上げた前髪をバレッタで止め直された柔らかな栗色の髪にあぐらをかいて座り、膝に頬杖を付きながら、片手で傘を差している。
普通の傘よりは骨が多く頑丈な作りになっている分、傘にはそれなりの重量がある。しかし、小人は自分の体躯の何十倍もある傘の柄を掴んで、軽々と支えていた。
小人の眼下には、盛られた溶けかけのバターと生クリーム。その上からたっぷりとかけられたハチミツが染みるパンケーキタワーのてっぺんが見える。上へ上へと漂う、混ざり合ったバターとハチミツの甘ったるい香りだけで酔いそうだ。
「んまー!」
ステラは切り分けたパンケーキを突き刺したフォークを豪快に口に運んでは顔を綻ばせて、幸せそうに頬を押さえている。世界中の絵画やありとあらゆる著作物や写真を探しても、こんなに幸せそうな顔をしてパンケーキを頬張る人間は何処を探してもいないだろう。
事実、先程から食事を終えて店を出て行く客や路地の通行人達が、幼い子供に向けるような微笑ましく生温かな視線をステラに送りながら通っていく。
馬鹿みたいに積み上げられていた厚めのパンケーキは細身の体にブラックホールが存在するかのように吸い込まれていく。飲み物同然にお手軽にステラの体の内側へと消えていくパンケーキを眺めていたのに気付いたのだろうか、ステラが小人の存在を思い出したというような声を上げた。
「パン=ケーキは本当に食べなくていいの? 食べちゃうよ、パンケーキ」
「……。共食いみたいに言うんじゃねーよ」
何の言葉遊びだコラ、と続けられた小人の言葉に、吹き出しながら笑みを深めたステラの頭を四本指の青黒い足の踵で小突く。
その時、聞き慣れた駆動音と共に、白のランブレッタがテーブルの脇をすり抜け、路地を駆けて行った。荷台にトランクや荷物が所狭しと積まれ、紐でぞんざいに括り付けられた、見覚えのあるランブレッタが重そうに角を曲がる姿が見える。
「ん……? ねえ。今のって」
「あぁ。オメーのスクーターだったな」
「むぐぐー」
フォークをくわえたまま、ゆったりと振り向いたステラは店の壁際に寄せて止めてあったはずのランブレッタが忽然と姿を消しているのを確認する。まじかー、とくぐもった声で呟く。
「治安のいい街だと思ってたのに、案外悪い人は居るもんだね」
鼻をくすぐるバターとハチミツの風味、滑らかに舌の上でほどけるクリームの口溶けに舌鼓を打ちながら、ゴクリとパンケーキを飲み込んだ。うまい、とパンケーキがテーブルの上に運ばれてから、何度繰り返したか分からない賞賛をもう一度胸の内側で繰り返した。
「ねー。あのランブレッタ、とっ捕まえてくれない?」
飲みかけのコーラを引き寄せながら、ステラは言う。
「お礼に次の街での初めてのひと口目をあげる」
「…………」
「どう?」
ステラはコーラを手に、首を傾げる。
カラン、とガラスの容器の内側で氷とガラスがぶつかる音を立てた。
「……いいのか?」
少女の無言を肯定と受け取って、小人は興が乗ったとばかりに下劣に笑みを深める。次の街での初めてのひと口、自らを幸福だと信じて疑わない少女が口にする未知、初めてのひと口。ステラの願いを叶える為に、ステラが支払う代償の重さを天秤で釣り合わせる。
何でも出来るくせに食と自由にしか頓着してない子供の前で、ありありと見せつけながら初めての未知を噛み下してやる瞬間はきっと最高に胸のすく事だろう。
青黒い肌の角持ちの小人は、キシシ、と下卑た笑い声を上げながら立ち上がった。
「あとで追っかけるから、傘はそこに置いてっていいよ」
「早く詰め込んで、オメーも飛んでこい」
無造作に手放された傘が、宙を舞う。同時に、小人は天高く宙へとジャンプした。
傘が、白煉瓦の上で軽く弾む。傘で遮られていた分のマゼンタが遠慮なしに舞い散る。加えて、小人がブーゲンビリアの天蓋を突き抜けた衝撃で、ステラの頭上には大量のマゼンタが散り落ちてきた。
ステラは雑だなぁと思いながら、フォークを持った手を宙に何かを描くように動かした。一瞬、足下から吹き上げた風に煽られて、マゼンタの葉は全て逸れて道に落ちる。
パンケーキの最後の半切れを豪快に口に突っ込んで、ハチミツでべたべたになったフォークを放るように皿の上で手放す。バターにクリームとハチミツが混ざり合った溜まりを受け止める皿と勢いのあるフォークが衝突し、音を立てた。
てらてらとハチミツが付着した手を舐め取りながら立ち上がったステラは、ストローを抜き取ったコーラの残りを豪快に飲み干した。
「ごちそーさ、……! けふっ、うえっぷ。げっぷが……」
胃の中では甘いガスが大混雑に暴れ回っている。横一文字に口を引き締めて、溶けかけの氷だけが残されたコップをテーブルに置いた。
開かれた状態で足下に転がっている傘を拾い上げたステラは一度それを閉じる。そしてさながら、ステッキを振り回して歩くマジシャンかクラウンのように傘の柄に手首を引っかけて、大仰な動きで路地を往く。
くるり、傘が一回転。白磁の路地に散らばったマゼンタの花がわずかに揺れる。
くるり、傘が一回転。白磁の路地を通り抜ける一陣の風が勢いよく吹いた。
マジシャンかクラウン? いやいや、そこはメアリー・ポピンズだろう。傘を片手に東風に乗ってやってくる魔法使い、のなり損ない。昔読んだロー・ファンタジーの真似事。
背中を押す強い風を受け取るように、ステラは傘を開く。白磁の路地の角、ブーゲンビリアの天蓋が無くなった青空へ、傘を手に風を踏みしめた少女が飛び立った。
不敵な笑みをたたえて、不躾に緑色の瞳を細めながら。
***
「スクーターの一つや二つ、別にくれてやってもよかったろ」
「やだよ。中古で譲って貰ったにしてはよく働くやつだと関心してたんだもん」
「あんなに雑に使ってた癖に気に入ってたってのか?」
「その内綺麗に直してあげようと思ってた」
そう言いながら、ステラはランブレッタのハンドル付近を労るように優しく手を滑らせて笑った。
ステラの肩に四本足の指をかけて乗っている小人の言うとおりだ。手癖の悪い物取りから取り返した白のランブレッタは普段からの扱いの荒さを物語るように、至る所に細かい傷や剥げ落ちた塗装の後が目立っており、タイヤや縁にも乾いた泥が付着している。
この街での滞在期間中、修理の仕事を発注してくれた宿屋の女主人がこしらえてくれた明日の朝食と、頂き物のクッキーの瓶が無くなっていない事を確認したステラは、ほっと慎ましやかな胸を撫で下ろす。
……そういえば、修理士としての仕事道具も下着も全部荷台に括り付けたトランクの中だった事に気付く。取り返さないという選択肢はそもそも無かったように今更ながら思った。
「キシシ、ステラよぉ……代償の支払い、忘れんなよ?」
ペチペチと赤子よりも小さな手の平が、からかうようにステラの頬を非常に柔い力で叩いた。
三白眼の目尻まで裂けて歪むほどの凶悪な笑み、そんな酷い悪人面をする割に、小人は案外気のいい奴だ。「はいはい」と適当に返事を返したステラはヘルメットを被り、ランブレッタに跨がる。
「次はそうだなあ、パッフェか、タルト……」
「まァた菓子か、偏食ばかりしてっと大きくなれねぇぞ?」
「痛いのは好かないの。あんたと違ってね」
「オレは死ぬほど辛いのが好みなんだよ。オメーと違って」
風と共に旅を続ける少女、ステラ・ブラウニーと、角と尾と羽を持つ青黒い小人、パン=ケーキは、鼻歌交じりに旅した街から外へと飛び出していく。
地を踏みしめて、一人と一匹を乗せたランブレッタは往く。
青空の下を駆けて、此処ではない何処か遠くへ行くために。
遠くの何処かを見つけるために。