虹の橋の向こう側
さわさわと頬を撫でる五月の風。清潔感のある真っ白なカーテンが揺れる度に、暖かい日差しが差し込んで来る。
眩しさに目を擦ろうと重い手を動かすと、何度も刺され、青黒くなってしまった点滴の針の場所が、酷く痛んだ。
――ああ、懐かしい。
白いカーテンか揺れる、花束に囲まれた部屋。寝心地が悪そうなパイプベットに座る彼女は、いつも窓の外を見ていた。
そして、私が静かに部屋の扉を開けると、決まって最高の笑顔でこちらを振り向いたのだ。
「今日はうんと調子が良いの」
そう言って舌を見せる彼女は、薬で晴れた痛々しい手で、優しく私を手招きする。
――あの頃は、この消毒の匂いが憎くて仕方がなかった。
あれは、私が彼女と付き合って三年が過ぎた夏。そろそろ結婚かな、なんて通帳の数字を睨んでいた頃だった。
人間の脳は不思議なものである。そんな事を考えていると、ただひたすらに残金が並べてある通帳面に、幻が浮かんでくるのだ。
私のプロポーズに泣きながら笑う君。
真っ白なドレスに身を包み、やや緊張をしている君。
旅行好きな君の隣で見る景色。
子供が出来たと喜ぶ君。
そして、可愛いわが子の顔……。
「私は重症だな」
私が誰もいない部屋で通帳にそう喋りかけたのは、一度や二度ではない。
そんな“当然来るべき未来”に心踊らせていた、その時だった。
ジリリリ、と鳴る電話のベル。
「ごめんね、私――」
いつも聞きなれた愛しい声で告げられた、あの言葉。私は全身が凍りついた。
それからというもの、仕事帰りに必ず決まって寄る場所が、君の会社の裏門から、消毒液の匂いが漂うコンクリートの建物に変わった。
残業をしない為に、昼休憩なんて取らない。修業時刻を知らせる鐘と同時にパソコンを閉じ、大慌てで電車に駆け込んだ。
「今日も来てくれたんだ、ありがとう」
か細い腕に何本もの点滴を指した彼女は、薄ら目を開けると、そう言って笑う。
数ヶ月の間に、一日起きていられる体力も亡くなったのだろう。日中は看護師とお散歩に出ているようだが、夜には起き上がる力さえ残らない。
日に日に弱っていく彼女を、私は偽りの笑顔で見守るしかできなかった。
「また、誰か来てくれたの?」
「そうなの。そのお花綺麗でしょう? 昼間に、高校の同級生だった娘が――」
ゆっくりと唇を動かし言葉を紡いで行く彼女は、その日あった事を楽しそうに私に話す。そしていつも、最後まで話せないまま眠りにつくのであった。
「明日は休みだから、朝イチから来るね」
優しく髪を撫でると、彼女は擽ったそうな顔をする。そんな仕草で、彼女の存在を確認している自分が、虚しく嫌いだった。
面会の時間の一時間前には並んで待つ私。そんな私を知ってか、彼女はやはりベッドに腰掛けて待っていた。
そして、いつもの様に私に言う。
「今日はうんと調子がいいの」
白いカーテンの隙間から差し込む、陽の光に包まれた彼女は、美しい。
その背中に余命二ヶ月などといった死神を背負っているなんて、見えない。
「うんと調子はいいのよ。でも、少し横になっていいかしら」
私が扉を閉めると、彼女は私に手を伸ばしてきた。自分で動けないなんて恥ずかしいわね、と言う彼女。
それでは、いつも私を待つ時ベッドに腰掛けているのは……? といった馬鹿げた質問はしない。看護師でさえ私に言わない事を、わざわざ本人に聞く必要が無い。
――愛しい女。
その温もりが消えないうちに、己の手にその感触をすり込ませる。
家に帰って、風呂に入る。カップラーメンにお湯を注ぎ、脱ぎ散らかした服をかき分けソファーに座った。
“深夜のニュースです。学校なんて行きたくない、といったメモを残し、十六歳の少女が自宅で首を吊り――”
残酷なニュース。
私はそのニュースに、左手で持っていたカップラーメンを、中身が入ったままテレビに向かって投げつけた。
今までなら、可哀想、だの、いじめたやつ最低、なんて言った思考が巡っていた。
でも、今は違った。
「……捨てんなよ、自分で命捨てんなよっ!」
確かに、いじめが悪い。でも、死ぬ必要なんて無いじゃないか。
「要らないなら私にくれよ! 捨てるくらいならくれよ!」
学校なんて、辞めればいい。世界は広い。
「生きられるなら、生き抜けよ!」
子供は学校に行かなきゃいけない、なんて他人の作ったルールに苦しみ、自分の未来を殺す必要なんて、微塵もないのに。
部屋中に充満するインスタントな匂い。私は台所で鍋に水を汲み、気が済むまで部屋中にぶちまけた。
眠り姫。
激痛を和らげる為に、大量の痛み止めを投与する。
すると、彼女は今まで見せていた悲痛な表情から一転、健やかな顔で眠りについた。
「次、目を覚ます時は、彼女がこの世に終わりを告げる時です」
主治医はそう言って、彼女の母親の肩に手を載せた。
母親は、ピクリとも反応せずにただひたすらに、久しぶりに優しい顔をした彼女に向って微笑んでいた。
生命維持装置。
彼女の命を繋ぐそのスイッチを切るのは、女手一つで彼女を育てた、母親に托されたのだ。
「どう? 久しぶり楽になったでしょう? ごめんね……ごめんね。でもね、お母さんね……こうまでしても貴女とお別れしたくないの。だからもう少し……もぉずごしだげ、がんばっでぇぇえ!」
お義母さんが決断した時。
彼女は一度目を開いた。
そして、お義母さんと私を少しだけ眺めると、微かに何かを言って、瞳を閉じた。
「懐かしい……なぁ」
彼女が見ていた世界を、今度は私が見ている。
「貴方、ご気分はどう?」
「ああ、ばぁさんや……私はもうダ……いや、今日はうんと調子がいいのぉ」
「あら、珍しいわねぇ、貴方がそんな事言うなんて」
白髪のおばあさんのシワシワの手が、干物のように年老いた私の額を撫でる。
私は静かに、瞳を閉じた。
彼女が死んで、見つかった遺書。その中には私に対する物も入っていた。
大好きな貴方へ。
私が死んだら、一ヶ月はたくさん泣く事! 死ぬほど泣く事!
でも、私が死んで一ヶ月たったら、たくさん笑う事。
次に、私よりも素敵な奥さんを見つける事。そしてその人を心の底から愛し、子供も孫も愛する事。
その間は私の事なんて忘れる事。
でも、何十年か経って、貴方が死ぬ時、少しだけ私を思い出す事。でも、最後に呼ぶ名前は、長年連れ添った奥さんね!
私は虹の橋の向こう側で、貴方が来るのを待ってます。
その時に、絶対に幸せな顔で虹の橋を渡ってくる事を約束してください。
私はその顔を少し見たら、貴方に会わずに先に逝きます。
貴方は、後から来る奥さんをそこで待っていてください。
これから貴方が幸せになってくれる事だけが、唯一私に叶えられる望みです。