死神の覇王
ただひたすらに鬱屈。そして陰湿。
天井から落ちる水滴が不気味な音を奏で反響する。
そこにいるだけで、気が病んでしまいそうな仄暗い空間にて。
ムシは、かたい地面に両膝を着き、ただひたすらにこうべを垂れていた。
二本の腕は切り落とされており、切断口から血が滴る。異名の由来である隠し腕さえも、無慈悲にもがれてしまった彼は息も絶え絶えの状態だった。
——が、痛みなど感じている余裕はない。
暴れる心臓。詰まる呼吸。
圧倒的な重圧と恐怖の中で、ムシは途切れかける意識を繋ぐ。
身を縮める小虫を見下ろすのは、大木の如き巨体を誇る死神だ。
肩まで伸びた、針金のような髪の毛を揺らし。
猛獣のような顔を不機嫌そうに歪めて、牙をむき出す。
全身を覆う漆黒のローブには、豪奢な鎖が何重にも巻かれている。
世界を崩壊させんばかりの足踏みをひとつさせて、死神はゆっくりと口を開いた。
「……して、なにかァ? 貴重な労働力を殺されて、真庭市部を壊滅させられたというのに、貴様は尻尾を巻いて逃げてきたと——?」
地響きしさえしてしまいそうな、重たい一声。
明らかな殺意を孕んだ言葉に、ムシは全身を震わせる。
「確かに……お前の言う通り、俺は真庭支部を壊滅させられた上に、敵前逃亡をした。 ……この失態は、死に等しい重罪だ」
「当然だなァ? よォーくわかってるじゃねェか、なァ、ムシくん!?」
ローブ越しに蠢き唸る、死神の腹部。
その腹部から荒い息が吐き出される度、ムシは自らの死を覚悟し、鈍い生唾を呑みくだす。
「”島”の壊滅は、命よりも重い重罪だァ!」
幾重にも巻かれた鎖を千切られたら最後。
飢えた地獄の門は、ムシを確実に喰らうだろう。
「あァ、残念だぜ。テメェは長いこと、俺の右腕として良く働いてくれたのによォ。 ……ほんとォーに、残念だァ」
一歩——、また一歩と。
重々しい足音を立てて、死神はムシへと詰め寄る。
その度に、ムシの心臓は悲鳴を上げた。
目と鼻の先まで距離を縮めると、死神はおもむろに腰を下ろす。
「そんなお前へのせめてもの慈悲だ。最後に、何か言い残したことはあるか?」
「……ま、真庭支部を壊滅させた日本刀の死神……、それを使役していた契約者は、あの”死神殺し”に因縁があるらしい」
「あァ?」
詰まる息を懸命に吐きながら。
ムシは死神を見上げると、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ヤツの居所……、戦闘能力、弱点、それらを事細かに聞かれたのだ。 ……何より、怨念に取り憑かれたかのような面構え……十中八九、間違いないだろう」
「ほォー、それで?」
「……もし仮に、死神殺しと日本刀の死神がぶつかり合うこととなれば、お前にとってまたとない好機ではないか……!?」
ムシの言葉に耳を傾けていた死神の眉が、微かに跳ねる。
「……わからねェなァ。一体全体、それが俺にとってどう好機だってんだよ?」
「ヤツが消耗したところを狙えば、憎っくき死神殺しをいとも容易く仕留められる……!上手くいけば、日本刀の死神だって……!」
決して、命乞いのつもりではなかった。
果てない野望を目指さんと、共に戦ってきた戦友として。
巨大な集団を率いる頭へ、その右腕として働いた最後の忠誠として。
この情報を、辞世の句の如く伝えようと思ったのだ。
あらゆる勢力から警戒されている死神殺しを、仕留められるかもしれない朗報。
手も足も出なかったとは言え。
一度刃を交えた日本刀の死神の戦闘能力も、大まかにだが収集している。
それもつけ加えて、解説するつもりであった。
並みの契約者と死神であれば、垂涎ものの情報だったかもしれない。
そう、”並み”であればの話だ。
しかし、
「……グハハ……」
この死神にとって、その情報は侮辱——ただの耳障りな雑音でしかなかったのだ。
「グ……グハハハハハハハハハハハハ——!!!」
雷鳴のような高笑いが轟く。
頭を抱え、腹を抱えてひとしきり笑ったあとに。
死神は、稲妻の如き眼光でムシを睨みつけた。
「何を言うかと思えば、下らねェたわ言とはな。 ……どこまで俺をがっかりさせやがる、小虫風情がァ」
「……な、何だと……!?」
「死神殺し……、この俺に一太刀浴びせた、数少ない契約者の一人だ。確かに、ヤツはこの俺が喰らわにャあならねェ」
けどな。
そう続けて、死神はムシへと腕を伸ばす。
傍目から見れば、死神の右手は重機のアーム——。林檎を掴むかのようにムシの顔面を覆うと、そのまま軽々と浮遊させた。
「ゴッ、——オオォォォォォォォッ!?」
「たいして役にも立たねェ、貴様のくだらない情報がなくても、俺はヤツを喰らえるんだよ……当然だろォ?」
軋む頭蓋。
搾られた果実のように、ムシの頭部から果汁がこぼれ落ち、
「なんたッて俺はァ、——”死神喰らい”なんだからなァ!」
瞬く間に濁った水溜りを作る。
この死神こそが。
数多の死神と契約者が集うチームの中でも、破格の規模を誇る大型犯罪集団——、”死神ギルド”の頭として君臨する覇王。
死神ギルド殲滅作戦を幾度となく決行した死神対策本部でさえも、頭を抱えてしまうほどの怪物。
悪名名高い、死神喰らいなのである。
「そもそも、テメェは俺のもとで何を学んでいたァ? 言っただろうが、情報は鮮度が命だってよォ」
「ど、どういう、意味だ……?」
あとほんの一握り。
わずかな力を加えれば、頭蓋を砕くすんでのところを漂わせる生き地獄。
それを味あわせながら、死神喰らいは続ける。
「遅えんだよ、何もかもが! 日本刀の死神の出現、契約者の小娘が死神殺しについて探りをかけているのも、俺はとっくの前に知っているんだよォ」
「……な、何ィ?」
「まァ、そんな些細なことはどうでもいいんだけどよォ、テメェの情報には根本的に重要な箇所がすっぽ抜けてるぜ? ……もっとも、今さらそれをどうこう言うつもりはねェけどな」
裂けそうなほどにつり上がった死神喰らいの口角が緩むと同時に、右手はムシの頭部を締めつけた。
「————ッ!!!」
想像を絶する苦痛に、ムシは声を上げることすらままならず、ひたすらに体を左右に揺さぶるのみ。
「テメェは俺に喰われる……、餌に教育を施したところで、意味はねェからなァ!」
一度、鈍い音が響いた。が、次の瞬間には死神喰らいの右手から、ムシが解放されて地面に落ちる。
瀕死の重症は免れないものの、死神の生命力を鑑みればまだ息はあるだろう。
その証拠に、ムシの姿が消えることはなかった。
「……おい、こそこそ隠れてないで出てこいよ? まったく、相変わらず神出鬼没なヤツだァ」
そう嘯く死神喰らいの背後。
暗闇から現れたのは、漆黒の笑みを浮かべた長身痩躯の青年。
「貴様、確かセイジロウといったなァ。俺様の食事の邪魔をしたんだ……、要件次第じャあ、その首があると思うなよ」
焼けつく怒気を全身に纏った死神喰らいに睨まれながら、それでもなお笑みを崩さない誠次郎。
彼は顎に指を添えながら、ゆっくりと口を開いた。
「取り引きをしよう。 ……マギアの予言とやらを、ひとつ覆してやりたくてさ」