いざ異世界へ
幽鬼は顎をひと撫ですると、口角をぐにゃりと上げた。
笑っているのか、なにかを企んでいるのか、意図の読めない邪悪な微笑み。
そのにやけ面にどうしようもない苛立ちを感じた私は、散乱した衣服を踏みつけながら、距離を詰めて睨む。
「よくわからないけど、さっきからごちゃごちゃ好き勝手言ってくれるじゃない……でもまあ、この際そんなのはどうでもいいや。アンタ、死神なの?」
身長差故に、見上げて睨みをきかせる私と、平然と見下ろすムサシ。
「そう言ったはずだが?」
「証拠は」
「証拠、か。 ……そら、自分の胸もとを見てみろ」
「はあ?」
目の前の幽鬼が死神である証拠をねだる私に向けて、ムサシがおもむろに指をさした方向。
それに促されるまま、自分の胸もとに視線を落として驚愕する。
「なに、これっ!?」
胸もとから、文字通り鎖が生えていた。
悪夢のような、不気味な光景。
混乱する頭で鎖を引っ張ってみると、
「痛っ……!」
心臓に微かな圧迫感が走った。
「その鎖こそ、俺が死神である確たる証拠。かつて、俺とお前が契約を結んだという証しだ」
呆然とするしかない私を眺めて、実に淡白な調子で言うムサシの胸にも、同様に鎖が生えている。
驚くべきことに。
私の鎖と、ムサシの鎖は繋がっていた。
「最も、お前はその事実から目を逸らして、鎖の存在を忘却の彼方へと消し去っていたのだがな。どうだ、これで多少は信じる気になったか?」
そうは言われても、やはり信じ難いのが事実だ。
だけど、死神の象徴である漆黒のローブ。それに、正体不明の鎖。
現実離れした光景を見せつけらたら、もう認めるしかない。
目の前のいけ好かない強面は、やはり死神なのだと。
「それにしても、どういった風の吹き回しだ? あのお前が、死神である俺を求めるなど。 ……まあ、大方予想はついているのだが、な」
なにが可笑しいのか。
またもや不気味に笑って、肩を震わせるムサシ。
ひとしきり笑うと気が済んだのか、再び瞳を尖らせて私を見据えた。
「雨宮茉瑠奈の仇討ち、といったところだろう?」
「アンタ! ……なんで、それを」
震える声。
動揺する私をよそに、ムサシはさらに続ける。
「故に春野蒼太の首をとりたいが、それには死神の力が必要だ。よって、死神である俺の力を、無意識化で欲したというわけか」
まるで。
これまでの過程を、かたわらで見てきたかのような的確な物言に、思わず言葉を失った。
戸惑いと混乱。
加えて、苛立ちの感情が私の中で駆け巡り、たまらず歯がみする。
「全然、意味がわからないんだけど! なんなの? まるで、今までの私を見てきたような言い方は! 気持ち悪いったらありゃしない!」
「見てきたような、じゃない。事実、見てきたのさ。友恵、お前をな」
鋭くも、純粋でまっすぐなムサシの眼。
たぶんだけど、彼の言葉には嘘も偽りもないんだと。
そう思ってしまった。
「しかし、なにはともあれだ。仇討ちをするというならば、お前はこの世界の裏側をよく知るべきだな。
知った上で、それ相応の覚悟を抱かなくては、いずれ後悔する羽目になるだろう」
「世界の裏側?」
「応とも。死神がひしめく、正真正銘の異世界さ」
ムサシは、カーテンをおもむろに引っ張ると、続けて窓を開ける。
窓の外に広がるのは、深夜の静寂に包まれた街並み。
「さて……。 俺に掴まれ、友恵。この街の中腹まで一気に跳ぶぞ」
言いながら、ムサシは私に密着すると、腰に腕を回そうとする。
合わせて、数歩後ずさった。
「と、跳ぶってなに? ……っていうか、ちょっと待って! もうずっとお風呂にも入ってないし、たぶん臭いからこっちに寄らないで!」
髪はぼさぼさだし、ここ一ヶ月顔さえも洗ってないのだ。
おまけに飾り気のないパジャマ姿で外出なんて、最悪過ぎて死にたくなる。
私は、全力で首と手を振って抵抗した。
それなのにムサシは、私の慌てふためく様子を見て楽しそうに笑う。
そのまま、ひょいっ、と体を抱きかかえてしまった。
「なあに、案ずるな。とても良い匂いだぞ? ……にしても軽いな。飯はしっかり食っておけ」
「やだあっ、やだやだっ!? よけいなお世話だし、とにかく離せえ! 離せって言ってるでしょ!!」
人生初のお姫様だっこ。
それは、想像していたように甘いものではなくて。
羞恥心が満載の、まるで拷問のようだった。
「あまり喋るな。舌を噛むぞ」
いくら反抗しても、きっとムサシが降ろしてくれることはない。
大きなため息を吐き捨てて、投げやりな気持ちで諦める。
「わかった! わかったわよ! せめてジャケットだけは羽織らせて!」
だっこの体制のまま、ジャケットを手繰り寄せると、ムサシはこっちの気なんてお構いなしで屋根の上に立つ。
一ヶ月ぶりの外気。
でも、爽快感は皆無。
どろどろとしていて、気持ちが悪い。
「今のお前になら、少なからずわかるだろう? この街に潜む、異形の気配が」
「よくわからない……。 でも、なんだろう。胸がムカムカして、吐きそう」
「ほう、目覚めたてにしては上出来だな。その感覚を、よく覚えておくといい」
瞬間。
ムサシの屈強な肉体が、さらに隆起する。筋肉が微かな音を立てるのを耳で聞くや否や、視界が一気に飛んだ。
「ひゃ——!?」
空気の圧が、私の全身を叩く。
まるで、ジェットコースターに乗っているような、地に足が着いていない感覚。
つむっていたまぶたを、恐る恐る開いてみる。
「う、嘘……!」
そこは、屋根の上ではなかった。
屋根よりもはるか上空。
夜空の海に、私とムサシが浮かんでいた。