甘美な悪夢
熱々のお湯に体を沈めて、堪らず息を吐き出す。
ゆったりと湯船に浸かるなんて、どれくらいぶりだろうか。ふと思って記憶を遡ってはみたものの、のぼせた頭じゃ答えなんか出てこない。
とにもかくにも。
極楽で夢見心地なんだから、些細な事はどうだっていいのだ。
『あの、蒼太くんっ……。 入るね?』
浴槽の縁に肘をかけて、だらしなくくつろいでいた矢先。樹脂ガラスに茉瑠奈のシルエットがぼんやりと映り、おずおずとした声が飛んできた。
「どっ、どうぞ!」
口から心臓が飛びでそうな感覚を味わいつつ。言いながら、瞬時に身を立て直して、狭い浴槽に彼女分のスペースを作る。
『さっきの約束、ちゃんと守ってよ?』
「安心してくれ。男に二言はないよ」
かくして。
一緒に入浴する承諾は得られたのだが、ひとつの条件がつけ加えられた。
それは、目をつぶり決して茉瑠奈の姿を見ないように、という約束だった。
なんというか思い描いていたものと違う。もっとこう、背中を洗ってあげたりとかしたかったのだが。
それに、茉瑠奈の裸体を眺められない生殺しの状況。
そもそも、つい先日致した行為の方が、彼女にとってよほど恥ずかしいんじゃないだろうか?
なんて、さり気なく反論してみたけれど、
『いくら蒼太くんでも、それは本気で殴るよ?』
『は、はい』
と真顔で怒られてしまったので、俺は渋々その約束を呑み込んだ。
それと一緒に。今後一切、彼女を怒らせないようにしようと決意する。
たぶん、下手な死神なんかよりも怒った茉瑠奈の方がよっぽどおそろしい。と、戦場で培われた本能が、そう告げていたからだ。
「お邪魔します」
がら、と浴室ドアが開く音。
ぺたぺた、こちらへ近づく茉瑠奈の足音。
もちろん、目をつぶっている俺にはなんにも見えない。
ほどなくして、
「うんっ。ちゃんとつぶってくれてるね」
と、安心したような彼女の声。
「信用ないなぁ」
「しっ、信用はしてるよ? ……でも、念のため、ね?」
念のためか。
ようするに、信用されていない証拠なのでは。
「体と頭を洗ってからそっちに行くから。ちょっとだけ待ってて」
シャワーヘッドから放たれる、お湯の放出音。
ごしごしと体を擦る音。
ぼたぼた滴る水滴の音。
何ひとつ見えていないわけだが。
想像がかき立てられるからか、これはこれで興奮できるぞ!?
「……それじゃあ、入るよ」
ちゃぷん。
水面が揺れて、水かさが増すと少量の湯が溢れ出る。それと同時に、つま先にむっちりとした感覚が伝わった。
「ん?」
「ひゃあ!」
つい目を開けてしまいそうになるが、男の意地でなんとか耐える。
「ご、ごめんね……? お尻で、蒼太くんの足を踏んづけちゃったみたい。お、重くなかった?」
——何ィッ!?
「問題ない。むしろ軽いくらいだよ?」
ご馳走さまです。
「はあ、落ち着く……。 やっぱり、お風呂は良いねぇ」
「そうだなぁ」
二人仲良く、安らぎのため息を息吹く。
そんな中。
茉瑠奈が油断しきっている隙をついて、薄っすらとまぶたを半開きにしてみた。
男の意地もあるけど、その実男の性ってのもある。
二律背反。男ってのは、悲しい生き物だな。うん。
すると目の前には、もじもじと身を縮める茉瑠奈の白い背中が。
あまりにも綺麗な背中に生唾を飲み下して、堪らず人差し指で撫でてみた。
ぴろん、と。
「わああぁ!?」
「——ぶッ!」
瞬間、顔面に飛ぶのは鋭い肘打ち。
だが、俺はめげずに彼女の柔らかいお腹周りに腕を回す。
「きゃあっ! そ、蒼太くん!?」
「大丈夫、安心してっ。ちゃんと目はつむっている! それに、体を触る行為は禁止って、約束の中にはなかったはず!」
「一体何が大丈夫なのっ!? た、確かにそうかもだけどぉっ……。 なんか、お尻に変なモノがあたってるしっ」
おいおい。
変なモノ呼ばわりはさすがに傷つく。
「ううう……。 蒼太くんって、案外意地悪なんだね。新しい発見だよ」
「そう? だとしても、それは茉瑠奈にだけだよ」
「……ま、まあ。これくらいなら、大目に見てあげても良いかな」
大きなため息を吐き出すと、しかし満更でもなさそうに茉瑠奈は言う。
熱い熱湯の中で体を密着させて。
俺たちはのぼせ上がるまで、しばし混浴を楽しんだ。
風呂から上がると、茉瑠奈は実に可愛らしいパジャマを着こみ、ドライヤーで髪を乾かす。
俺はベッドの上で、そんな彼女の様子を眺めながら。
静かに、体の異変に気がついた。
右手に続いて、左手の感覚も薄まっている。おまけに、視界もぼんやりと歪む。
体の限界が、すぐそこまで迫っているという警告。
多くの死神と契約者を屠った人間に対しての、それ相応の罰だとは理解しているつもりだ。
けれど、茉瑠奈を前にして、これはあまりにも残酷過ぎる。
もしも、このまま。
両手の感覚を失って、視覚さえも失えば。彼女を抱きしめて、温かくて柔らかな感触を感じる事も、その姿を慈しむ事すらできなくなってしまう……。
「……あぁ」
逃げ場のない不安にかられて、俺は力なくうなだれる。
密閉された空間に放り込まれたような、途方もない息苦しさをまざまざと味わっていると、柔らかい感触が唇に広がった。
「む……?」
なにが起こったのか、理解するのにさほど時間は要さない。これは、茉瑠奈の口づけ。
不思議なものだ。
たったその一瞬で、不安や息苦しさが吹き飛んでしまった。
やがて名残惜しそうに唇を離すと、彼女は恥ずかしそうに笑って、こう言った。
「お風呂のお返し」
「……茉瑠奈」
気がつけば、茉瑠奈は俺の隣に腰を下ろしていた。
彼女は、頭の重みをこちらの胸に預ける。
「今日一日……。 一緒にお散歩して、スーパーでお買い物して。一緒にテレビを観て、ご飯を食べて、お風呂に入って。
こうしていると、まるで蒼太くんのお嫁さんになれたみたいだなって。幸せだなって、思ったの」
茉瑠奈の屈託のない笑顔と言葉に、どうしようもなく胸が締めつけられる。
不意に、俺は言葉を詰まらせてしまう。
「あのね。学校を卒業してから、進学するか就職するかはまだ決めてないけど。でもね、蒼太くんとはずっと一緒にいたいって、そう思ってるんだ」
目頭が熱くなって、涙が滲んでしまいそうだった。
「って。ごめんね、急に! 自分勝手な事を、べらべらと喋っちゃって。ああっ、こういうのを重い女って言うのかな!? 気にしないでいいからね?」
顔を真っ赤にさせて、あたふた両手を振る茉瑠奈。
「そんな事ないよ。 ……俺も、茉瑠奈とずっと一緒に、いたい」
叶うならば。
ずっと、ずっと一緒にいたい。
それこそ。嬉しい時も、悲しい時も。
同じ時間を共有して、人生を終えるまでずっと一緒に。
だけどそれは、決して叶わない儚い願いだ。
死神との戦いで、俺の魂は残りわずか。
彼女と一生を添い遂げるどころか、来年の春を迎えられるかもわからない。
「嫌だ」
「蒼太くん?」
孤独であれば、どれだけ気楽だったか。どれだけ、楽天的でいられたか。
だけど今は、茉瑠奈という大切な存在を見つけてしまった。
同時に、自分の死に対して希薄だった恐怖の感情が、急に明確となって怯える。
「嫌だ……!」
もっと。もっと、生きたい。死にたくない。
俺は、茉瑠奈を乱暴に抱き寄せた。
溢れる涙が、彼女の肩を濡らす。
「茉瑠奈っ……! 一緒に、ずっと俺と一緒にいてくれ。 ……どこにも、いかないでくれ」
突然抱き寄せられた茉瑠奈は、俺の異様な様子に何か言うわけでもなく、背中にそっと腕を回す。
まるで子どもをあやすみたいに、背中を優しく叩いて、頭を撫でてくれた。
「蒼太くんは、甘えん坊さんだね」
※
「……また、この夢か」
これで何度目だろうか。
こちらの否応なしに、極めて鮮明な映像が延々と流れる夢。
その夢を見る度に、俺の心はまるでハモンセラーノの様に、少しずつ削がれていく。
「……茉瑠奈」
名前を呼んだところで、返事は返ってこない。彼女だけがいない真っ暗な部屋に、虚しさが漂うだけだった。
頬を伝う、大粒の熱い涙。
その受け皿になってくれた彼女は、もうこの世にはいない。
「こんなに泣き虫だったんだな、俺って。なあ、茉瑠奈」
——会いたい。
死神が跋扈する、異世界と化した深い夜。
甘い夢であり。悪夢ともいえる夢を見て目を覚ました俺は、ひたすらに夢想した。
緊張し過ぎて、ロボットのように動いていた茉瑠奈。
テレビを観て笑っていた茉瑠奈。
キッチンに立って、肉じゃがを作っていた茉瑠奈。
流しで皿を洗っていた茉瑠奈。
可愛いパジャマを着ていた茉瑠奈。
ゆっくりと目をつむり、空想する。
あの日、確かに存在していた彼女を。
それは遠のいてしまった睡魔が再び訪れるまで、永遠と——。