お泊り
「お、お邪魔しますっ……!」
ぱんぱんに膨らむのは、桃色のお泊まり用バッグ。
それを肩にぶら下げて、彼女は妙に気合の入った面持ちでそう言った。
ふわふわの癖っ毛。
ぱっちりとした二重まぶたの大きな瞳に、上品にカールした長いまつ毛。上気している柔らかそうな頬。
それと、少しふっくらとした実に女の子らしい体型。
纏うのは、桜色のパステルカラーを基調としたワンピース。その上には、白いパーカーを重ねていた。
それら全てをひっくるめて。
本当に愛くるしい、まるでお姫様のような女の子。名前は、茉瑠奈。
つい先日、彼女からの告白を受けて、俺と茉瑠奈はめでたく恋人関係になった。
特別な関係になってから初めての休日。
せっかくだしどこかへ遊びに行こうか、と。お互いに浮ついた気分で話し合っていると、茉瑠奈がひとつの案を出した。
『あ、あのね? 二人で遠出するのも、もちろん良いと思うんだけどね。蒼太くんのお家にお泊りして、二人でゆっくり過ごすのも良いかなって……。 だ、だめかな?』
名案だと思った。
俺は茉瑠奈の手を取って握り合わせると、大きく頷いて肯定する。
まあどの道、茉瑠奈の挙げた案を却下する選択肢などないわけだが。
そんなわけで迎えた土曜日。
茉瑠奈は、昼頃まで美術部の活動に励み、一度帰宅してからの荷造り。
『死神殺し』として畏怖される俺は、そんな彼女を心待ちにしながら、鼻歌混じりに掃除をしていた。
気味が悪いほどに浮き足立っていて、我ながら呆れる。
そう思いながらも、しかしこの胸の高まりは止められない。
こまめに掃除をする方ではないのだが、隅の隅まで抜かりなく仕上げる。
相方であるリクには相当渋られたものの、今日一日は遼とワルサー宅に待機してもらった。
準備は万端。
あとは茉瑠奈を待つのみ。というわけで、時計の針が午後十四時を差す直前。
玄関扉にノック音が響いた。
はやる気持ちを抑えつつ薄い扉を開けると、案の定茉瑠奈が立っていた。
彼女の発した第一声が、先ほどの妙に気合の入った一言。
「やあ。いらっしゃい……茉瑠奈?」
それはいいとして。
その一言を発してから、茉瑠奈は石像のように固まってしまって、玄関から一切動こうとしないのだ。
「ど、どうしたの? 上がりなよ」
暴れる心臓に抗いながらも、俺は気さくに笑いかける。
「あ、うんっ……!」
少しの間が空いて、茉瑠奈はぎこちなく頷いた。
そして、これまたロボットのような動きで、部屋の中腹へと足を運ぶ。フォークリフトのような動きでバッグを床に下ろすと、そのままへたり込んでしまった。
彼女の奇妙な挙動に笑いをこらえつつ、俺はすぐ隣に腰を下ろす。
茉瑠奈はぴくりと肩を震わせると、身を小さく縮めた。その仕草で髪の毛が揺れて、心地の良い匂いが鼻腔に広がる。
「もしかして、緊張してる?」
「……うん」
頬を赤らめさせる茉瑠奈は、顔を俯かせてしまった。
「とは言っても、ここに来るのは初めてじゃないだろ?」
「そ、そうなんだけど。お泊りなんだって意識したら、なんだか緊張しちゃって。蒼太くんは、平気……?」
顔を俯かせたまま、前髪の隙間から上目遣いを覗かせる。
なんて言うか、その仕草は反則だと思ってしまった。
「まさか。自分でも信じられないくらいに、心臓がばくばく言ってる」
言いながら、俺は茉瑠奈の肩に手を回して優しく抱き寄せる。流れのままに、彼女は頭の重みをこちらの肩に預けて、静かに微笑む。
「本当だ。蒼太くんの心臓の音が聞こえてくるよ……。 とくんとくんって。お揃いだね」
「お揃い、か」
良い言葉だなと、俺はひとりごちた。
うららかな春の午後。
青い空の爽やかな射光。
俺と茉瑠奈の忙しない鼓動が、静かな空間に刻まれていく。
狭い部屋で身を寄せて、しばしお互いの存在を感じ合う。
「今日ね。女の子の友達の家にお泊りしてくるって、嘘ついてきちゃった。お父さん、そういうのうるさいから」
まあそうだよな、と。
よほど無関心な親でなければ。
大事な娘が、どこぞの馬の骨かもわからない男の家に泊まり行くなどと言って、首を縦に振るとは思えない。
「なんだかイケナイことをしてるみたいで、ちょっとドキドキだね」
言って、くすくすと笑う茉瑠奈。
彼女の様相を見て、不意に心臓が跳ねる。同時に、ご両親へ申し訳ない気持ちを抱いた。
暴れていた心臓が多少なりとも落ち着いてから、茉瑠奈は夕飯に手料理を振る舞いたいと言った。
しかしながら。あいにく、ウチの冷蔵庫には食材というものが存在しないので、散歩がてらに最寄りのスーパーまで肩を並べて歩く。
実に他愛のない、道中の会話。
意味を成さない言葉の交換だが、それは存外に楽しかった。
こうしていると、この世に”死神”という異物が存在していないかのようで。
自分自身も、まるで普通の人間になったんじゃないかと。そう、錯覚してしまいそうだった。
二人でテレビを観て笑い合う。
茉瑠奈の手料理を食べる。
彼女が皿を洗って、俺がそれを拭く。
あたりまえの日常風景だが、俺にとっては非現実。それが狂おしいほど幸せに感じられて、宝物のようなひと時。
「ふう、ご馳走さまでした」
食事を済ませて皿を洗い終えた俺と茉瑠奈は、お茶を飲んで一息つく。
「お粗末さまでした。そういえば、さっきの肉じゃが、味が濃くなかったかな?ごめんね。いつも家で作る感覚で味つけしちゃったから」
「いいや、絶妙な味つけだった。さすがは茉瑠奈だ」
もちろん。
味覚が死んでしまった俺には、味の濃さなんてわからない。
それでも美味しいと感じられた。何より、茉瑠奈と一緒だからそれはひとしおだ。
「言い過ぎだよぉ。でも、気に入ってもらえたなら良かった」
ほっと胸をなでおろす茉瑠奈。
それから、しばし会話を弾ませていると、時計の針は二十三時を差そうとしていた。
楽しい時間は、こんなにも早く過ぎてしまうのだなと驚く。
「もうこんな時間か。そろそろ風呂に入ろうかな」
いつもはシャワーで済ませるのだが、今日は茉瑠奈がいるので浴槽にお湯を溜めている。
「そうだね。一番風呂は、蒼太くんがどうぞ?」
「あ、ああ。ええと、茉瑠奈が嫌じゃなければ、一緒に入らないか? ……なんて」
「へ!?」
瞬間。
茉瑠奈の顔が真っ赤に染まった。
それはもう、顔面から湯気が出てしまいそうなほどに。
最も、それはこちらも同様だが。
「あ、あれだよ。二人で入れば時間も光熱費も節約できる! な、こんなにお得な話はないだろ!?」
それに、茉瑠奈の裸が拝めるし。と、密かに心の中でつけ加える。
もちろん。二人で同じ時間を共有できるだけでも、じゅうぶんに幸せだ。
それでも、できるならもっと密になりたいと欲張りになってしまう。
そう思う反面、茉瑠奈に無理強いはしなくないという気持ちもあった。
困惑した顔で、人差し指をつんつんさせる彼女を見るや否や、俺は咄嗟に頭を下げる。
「ごめんっ! 今のは冗談だから気にしないでくれ!」
「……い、良いよ?」
「……え?」
「一緒に、入ろう?」