死神還し
緩やかな夜風が漂う、静かな夜。
真庭市の隣に位置する、槇原市の駅から十数分歩いた先に佇む、築五十年のこじんまりとしたアパートの一室の前で。
コンコン、と。
「お兄ちゃん!……ユウジお兄ちゃんっ!!いないの!?」
最初は控えめなノックだったのだけど、次第にそれは強まっていき、最終的には借金の取り立てか、と思えてしまうくらいに、薄っぺらい木造の扉を激しく叩く。そこで、私はようやく悟った。
ユウジお兄ちゃんは、この槇原市……いや、この世にはいないのかもしれないとーー
ーー学校で一日の授業を終えて帰宅するや否や、手に受話器持って血相を変えたお母さんが、慌ただしく玄関まで駆けて来るとこう言った。
槇原市に住むユウジお兄ちゃんが、行方不明になっているのだと。
連絡をくれたのは、お兄ちゃんと同じバイト先で働いていて、大学の後輩である男の人だった。
その人が言うには、ある日突然お兄ちゃんが、バイト先に出勤しなくなってしまったらしい。特に連絡もなく、それが一週間ほど続いたそうで。
だけど、何の連絡もなしにバイト先に出勤せず、そのまま無断で辞めてしまう人はたくさんいるらしくて、その人はお兄ちゃんもそうなのだと思っていたらしく、特に不信感は抱いてなかったらしい。
ある日、あれはやっぱバックれだったんですか、という旨の確認のメールを送ったけど、返信は一向に返ってこなくて。直接電話をかけてみても、繋がらなかった。
そこで、おかしいと思った彼は、お兄ちゃんのアパートまで直接赴いて尋ねてみたけど、お兄ちゃんは出てこない。さすがにおかしいと思ったらしく、大家さんに扉を開けてもらうように頼む。
開けてみれば、生活感はそのままで、長い間に蓄積された埃が積もる、お兄ちゃんだけがいない部屋だった。
だからその人は、もしかしたらお兄ちゃんが実家にいるのでは、と一縷の望みをかけて電話したそうなのだけど。
当然、お兄ちゃんは実家にはいないし、もうずっと前に会った以来、顔を見てすらいないのだ……。
私とお母さんでメールを送って、電話もかけてみたけれど、やっぱり繋がらなかった。それどころか、登録していたお兄ちゃんの電話番号が、既に使われていないと、機械的な音声で宣告された。
お父さんが帰って来て、すぐさまお母さんは、お兄ちゃんが行方不明になっていると伝えて、泣きつく。
今現在の日本で流行している謎の事件。なんの前触れもなく、人間が謎の失踪を遂げてしまう、俗称、神隠し事件に巻き込まれてしまったのでは、と。
とにかく、警察に捜索願いをだそうと。
だけどお父さんは、放っておけと一言だけ言って、それだけ。
もとは成績優秀だったお兄ちゃんは、陸上で良い結果を出せなくなってから素行不良になってしまって、挙げ句の果てに大学を中退した。
そういう経緯もあって縁を切り、お父さんの会社を継ぐという話も、台無しになってしまって……だけど、実の息子が行方不明になってしまったかもしれないのに、そんなのあんまりじゃないか……!
気がつけば私は家を飛び出していて、槇原市にあるお兄ちゃんの住んでいたアパートの一室の前で、狂ったように扉を叩いていた。
そして、どれだけ叩いたところで、それは無駄なのだと気づき、力なく地面にへたり込んでしまう。
「ユウジお兄ちゃん……どこに行っちゃったのぉ……?」
頭の中も、心も真っ白。もう、何も考えられない。そんな私に近づく、複数の気配と足音。
「ーーなかなかどうして……キミは、綺麗な七色に光る魂を宿しているね?さすがは、王の資質を持つ者といったところかな?」
「ほぅ。この小娘が、マギアの言っていた王の資質を持つ者か……そのわりには、地味ぃで薄幸そうだがの!」
男の人と、小さな女の子の幼い声。
きゃぴきゃぴとはしゃぐ女の子に、男の人は「こら、失礼だろう?」と窘めた。
「あなた達は……誰?」
首を動かす気力など、もうない。私は目だけを動かして、ふたつの影を捉える。
「申し遅れてすまないね。はじめまして、茉瑠奈さん。
私は……確か、彼らから『死神還し』と呼ばれていたかな?……この日本で、初めて死神と契約した人間だよ。そして、こっちが私のパートナーであるイズモ」
「イズモだ!見ての通りに、妾は死神である!よろしくな、茉瑠奈!」
「死神……還し……?」
そう呟いて。下へ、下へ向けていた視線をゆっくりと上げていくと、そこに立っていたのは見目麗しい男の人だった。
私の憶測だけれど、年齢は二十代前半くらいだろうか。まるで絹のようなさらさらの髪の毛が、緩やかな夜風になびいて揺れる。目鼻立ちがはっきりとしていて、柔らかくも鋭い瞳から放たれる目線だけでも、世の女性をのぼせ上がらせるのは容易そうだ。
華美なんて二文字で表すには足りなくて、最早彼を形容すべき言葉が見つからないほどに輝く美丈夫。
その横には、一見小学生の低学年にも見えてしまう女の子。小さくて幼い体に、黒のローブではなく色鮮やかな着物を羽織り、艶めかしい肩をはだけさせている。だけど、幼さの中に艶と色気を内包した死神……イズモが、『死神還し』の脚に腕を回して、ぴったりと寄り添うように立っている。
おおよそ、現実とはほど遠い存在感を放つ二人を前に、自分が今どこにいるのかさえわからなくなってしまいそうだった。
「……む?茉瑠奈よ、何故情けなく脚を地に着けておるのだ?苦しゅうない!このイズモの前だからといえど、そんなに畏る必要はないのだぞ?」
「こらイズモ。余計な茶茶は入れないでって、いつも言っているだろう?」
ぺし、と『死神還し』は、イズモの頭を軽く叩いた。
対するイズモは、むぅっと唸って、不機嫌そうに頬を膨らませる。
あどけない仕草をする目の前の女の子が死神だなんて、俄かには信じ難い。それに、薄っすらな確信はあったものの、噂や都市伝説の中で語られていた死神が、こうして実在するなんて。二重にも三重にも、とにかく驚きの連続で思考が迷子だ。
「……キミのお兄さんである、雨宮雄二さんが行方不明になってしまって、意気消沈していたところ、突然すまなかったね」
「え……!?」
雨宮雄二は、お兄ちゃんの名前だ。なんでお兄ちゃんの名前を……それに、どうして行方不明になったことを知っているの?
混乱する頭を、なるたけ冷静に思考を回せるように努めて、私はおそるおそる聞いてみた。
「……あなたは、お兄ちゃんのお友達なんですか?」
「いや、友達というわけではない。だけど、キミのお兄さんは知っているよ。
何故、誰が原因で行方不明になってしまったのかも、知っている」
『死神還し』は首を左右に振ると、そう言って私に手を差し出す。単純な手を伸ばす動作でさえ、華麗に魅せてしまう彼の一挙一動に思わず見惚れる。
手を取ると優しく引っ張り上げられて、久しぶりに地面の上に立った。
「あの……誰かのせいで、お兄ちゃんは行方不明になってしまったんですか?」
「そうだよ。もちろん、キミにも真実を知る権利がある……けど、ここでひとつ警告しておくね。
知ってしまえば、今までのような日常を送るのは、きっと難しいだろう……それでも良いという覚悟があるのなら、ついておいで?少し長くなるから、場所を変えよう」
優しくて、蕩けるような笑みを浮かべていたかと思うと、瞬時に笑みはどこかへ消えてしまう。こちらの心臓を鷲掴みにするような眼光と、恐ろしくも美しくて凛々しい表情で、私を見据えた。
一度、生唾を飲み下して喉を鳴らす。
今までのような日常……蒼太くんや、友恵がいる楽しい日々が、私からなくなってしまう、ということだろうか?大好きな蒼太くんとは、もう会えなくなってしまう……そう思うと決心が揺らぐけれど、私は激しく頭を振って、なんとか思いとどまった。
それでも私は知りたいのだ。
お兄ちゃんが、誰のせいで行方不明になってしまったのかーー!
「教えてください……覚悟は、覚悟はできてますから!」