曇り空
それは、文字通りの悪夢だった。
何か些細なきっかけがあると、それが引き金となって、まるでフラッシュバック現象のように、当時の記憶を夢の中で再現してしまうらしい。
本当に、うんざりしてしまうほど、迷惑な話だ。
どれだけ忘れたいのだと懇願しても、忘れさせてくれない。
この夢が、この記憶が、この憎悪が、俺を蝕むーー。
今から四年前、俺が中学一年生の頃の記憶。この時点では、死神であるリクと、まだ契約を交わしていない。
だから正真正銘、俺は年相応にバカをやって、部活に励んで、友達とふざけ合って笑う、ただの中学生だったんだ。
趣味は、絵を描く事。将来の夢は、漠然に漫画家とかだったか。
授業そっちのけで、ノートに漫画みたいなものを描いたりしては、恥ずかし気もなく友達に披露していた。
本当なら、美術部に入部するつもりだったけど、友人に誘われてテニス部を選んだ。
正直、スポーツ全般に苦手意識を持っていた俺だったが、面倒見の良い先輩にも恵まれて、友達と汗を流すのが不思議と楽しいと感じ、部活に励んだ。
しかし、部活に励むというのは、その分の時間が部活に注がれるというわけで。
当時、歳が一個離れた、小さくて可愛い大切な妹、梨紅にはよく怒られていた。
お兄ちゃんが、遊んでくれない。
お兄ちゃんが、構ってくれない。
お兄ちゃんなんか、もう嫌い。
そう言って、頬を膨らませていたっけ。
だから、俺は梨紅にこう言った。
部活の試合が終わって、落ち着いたら二人でどこか遊びに行こうかって。
そしたら、梨紅はすぐさま笑顔になって、飛び跳ねていた。
その数日後、運命の日がやって来る。
俺ーー春野蒼太という人間の人生、生き方を全く違った方向へと変えてしまう、残酷な運命の日だ。
試合を前日に控えて、その日はいつもより部活が長引いたのを、今でもよく覚えている。
くっきりと切り抜かれたような、まん丸い満月が浮かぶ夜空の下。
背と腹がくっつきそうな空腹に耐えながら、汗だくの体で重い足を引きずりつつ、やっとの思いで帰宅した。
家の明かりが灯っていない事に、小さな違和感を覚えながら、ドアを開ける。
案の定、屋内は真っ暗で。でも、家族が外出した痕跡はない。
空腹で頭が回っていなかった俺は、なにやら不審な空気を感じながらも、玄関からまっすぐに伸びる通路を歩く。
やがて、キッチンに母さんと、まだ子犬だったゴールデンレトリバーが、血を流して横たわっているのが視界に入る。
それを目の当たりにして、あ、とも、う、とも言えなかった。
とにかく、声が出せなくて。
大切な人が息をしていない恐怖と、一体なにが起こったのか、頭が状況を理解したくないという拒絶反応。
どうしていいのかわからずに、スラックスの股から下にかけて、一気に濡れる。
やがてそれは、フローリングの床に水溜りを作った。
腰が抜けてしまいそうになりながら、震える足を懸命に動かして、リビングへと向かう。
思考など、とっくに停止している。それでも、父さんと妹である梨紅の安否を確認したかった。
リビングは、血の海。
父さんは、折れた枝のように、到底あり得ない角度に首を折り曲げて、例に倣って横たわっている。
そして、梨紅は番いを失った虚ろな瞳を天井に向けていた。
正気を失った頬には、涙が乾いてこびりついている。細くて、白い腹から、臓器を引きずり出されていて……ソファには、長くて黒い髪の女。
そして、そして……その、隣にはーー!!
「セイジロウゥゥッーー!!!」
俺は、涙を溢れさせた瞳を開くや否や、勢い良く上半身を起こすと、虚空へと両手を伸ばす。
「蒼太さんッ!?」
どうして……どうしてッ!?
なんで、俺はあの時セイジロウとレジーナに、立ち向かう事ができなかった?
どうして、情け無く逃げた?
どうして、どうしてッ!?
「ーーッゥあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああッ!!
殺してやるッ!……殺す、殺してやる、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すッ!!」
「蒼太さんッ!……落ち着いて!」
あぁ……そんなの、わかりきっているじゃないか。死ぬのが、怖かった。
ただ、それだけだ。
我が身可愛さで、家族の仇すら取ろうともせず、背中を見せて走った。
無心で、走っていた。
もう、家族なんて頭に無かった。
自分だけ助かりたい一心で、家の外へと飛び出したんだーー!!
「はぁっ……はぁっ……ぐ、ぅうぅッ」
死神には、死神を。
そして俺は、ただセイジロウを殺すだけのために、死神であるリクと契約を交わす。殺した後に、この国に巣食う死神を殺し尽くすと、決意した。
「そ……蒼太さんっ」
「梨紅……リク?」
思考が、鮮明になる。
目の前に、苦しそうに顔を歪めるリクがいて。その白くて細い首を、俺の両手が雑巾を絞るかのように、ギリギリと握りしめていた。
「す、すまないッ!」
俺は慌てて、首から両手を離す。解放されたリクは、苦しげに肩を上下させながら、ケホケホと咽せている。
どうやら、ここは俺の自宅らしい。
八畳の狭い部屋に、壁時計の針を刻む音が、反響している。寝間着が汗でひどく濡れていて、目から涙が絶え間なく溢れていた。
そうだ、と俺はここで思い出す。
昨夜、シュラの引き起こした騒動は、テレビで大々的に報道され、真庭市民を震え上がらせた。
恐らく、レストランで食事をしていただろう女性一名が犠牲となり、殺人犯は依然として逃走中である。
そして、当然目撃者が多数いるにも関わらず、足取りは全く掴めていない、と。
目撃者の何人かは、死神の仕業だと主張していたが、世間はそんな馬鹿げた言葉を鵜呑みにはずはない。
ただただ、真庭市に深い闇を植えつけて、この事件は迷宮入りする。
この事件を受けて、真庭市全ての学校が、急遽休校するという措置を取った。
当然、真庭高校も然り。
月曜日は休校、外出はなるべく控えるように、と。
生徒達の中で連絡網が駆け回り、昨夜帰宅してすぐに、友恵からその旨のメールが届いた。
最近は、通常の学校生活に加えて、深夜の死神狩りも連日行っていたため、疲れが溜まっていたのか、二度寝をしてしまったらしい。
結果として、二度寝の目覚めは最悪。見なくていいものまで、見てしまった。
「リク……その、すまなかった。大丈夫か?」
顔を俯かせて、息を整えるリクの肩に手を置く。
漆黒のローブではなく、ワルサーから支給された、厚地で純白のニットワンピースを着込むリクは、ゆっくり顔を上げると、そっと俺を抱きしめた。
ふわっと、なんとも形容し難くも、心地良い香りが鼻腔を包む。
「お、おい……?」
「蒼太さん、うなされていました。また、あの夢を見たのですか?」
あの夢とは、俺が先ほど見ていたものを指しているのだろう。こうして、悪夢にうなされる俺を、リクは何度も見てきたのだから。
「……ああ、久しぶりに、見てしまったらしい」
「無理もありません。昨夜、セイジロウと出会い、殺したはずなのに生きているなんて、残酷な現実を知ってしまったのですから」
再戦を求める俺を横目に、連戦はごめんだと言って、セイジロウは姿を消した。
レジーナの気配消失能力は、数多の死神の中でもトップクラス。一度逃げられてしまえば、その足取りを追うのは困難を極める。
仇を討ち取ったと思い込み、セイジロウはのうのうと生きていたなどと、考えただけで気が狂ってしまいそうだ。
……だが、今度こそは確実に、ヤツの首を刈り取ってやる。
「なぁ、それよりも首は大丈夫なのか?」
透き通る首に、赤黒い手形の跡が、痛々しく刻まれていた。
「いえ、気にしないでください。私は死神なので、跡はすぐに変えますから」
リクはそう言うと、俺の背中をぽんぽんと優しく叩く。なんというか、まるで小さな子どもをあやすかのように。
「死神って言ったって、女の子だろ……?そりゃ、気にするって」
ベットの上で、この体勢で、よくよく考えると気恥ずかしくなる状況に、俺は堪らずに頬を指で掻き、天井を見上げる。
リクは、おもむろに俺の顔を覗き込むと、笑顔を見せた。
戦いの時からじゃ想像もつかない、天使のような笑顔。
「それは、蒼太さんがリクを、女の子として認識してくれているというコトでしょうか?」
「え?……あー、まぁな」
いくら死神とはいえ、目の前にいるのは女の子。細くて、小さくて、綺麗な女の子以外の何者でもないだろう。
「ふふっ」
「何を、笑っている?」
「いいえ、なんでも。少し、落ち着きましたか?」
リクはそう言うと、俺の背中から手を離す。なんというか、気をつかってくれたのだろうな、いろいろと。
「そうだな、リクのおかげだ」
その言葉に、彼女は安心したような笑みをこぼすと、ベットから降りる。
「それでは、リクはお昼ご飯を作りますね」
「どうしたんだ、急に?それに、俺はもう味覚が……」
「蒼太さんの元気が出るように、頑張って作りますから。味は濃くしますので」
そうとだけ言って、こちらの返答を聞かずに、リクはキッチンへ向かってしまう。
窓の外は、あいにくの曇り空。
ドス黒い雲がひしめき、今にも雨が降り出してしまいそうな空は、不安に怯える真庭市の人々の心情を、如実に表しているかのようだったーー。