王の誕生
半開きになっていた扉から、戦場へと足を踏み入れる二人だったが、そこにシュラの姿は無い。
埃が舞い、工具が散乱している、えらく閑散とした空間だけが、軟らかな月明かりに照らされていた。
「拍子抜け、というよりは、違和感というのでしょうか。
あの男ならば、ここで私達を待ち構えていると思ったのですが」
予想外の展開に、虚をつかれたリクは歯切れの悪い物言いをすると、そのまま薄汚れた地面に視線を落とす。
確かに、リクの言う通りだ。
敵は、絵に描いたように好戦的な死神。こちらの気配を察知するや否や、意気揚々と仁王立ちで待ち構えていたはず。
だが、そこにはいない。
真っ向からぶつかり合う事こそ、自身の生き甲斐だと豪語していた死神が、だまし討ちをするとは考えにくい。
「……シュラの気配が、次第に薄くなっている……?
主。もしかすると、先ほどまで感じていたものは、気配の残り香だったのかもしれません」
リクの動揺を孕んだ声が、廃工場に反響する。
「残り香、かーー」
どうにも、きな臭い。
まるで、何者かが裏で糸でも引いているような違和感。いや、最早気味が悪いと言ってもいい。
「……上の階に通ずる階段があるようだな。とりあえず、二階を隈無く探索してから、改めて考えるとしよう」
「はい」
『死神殺し』は、廃工場の奥にある階段に視線を移すと、足早に階段へと向かった。
リクも、その背中を追う。
階段を登ると、簡易的な会議室や事務室などがあり、最後に行き着いたのは、かつて労働者の憩いの場であったであろう休憩室。
警戒しつつ、古びた木造の引き戸を開けて、突入する。
次の瞬間、『死神殺し』は言葉を失った。
「な……ッ!?」
およそ十二畳ほどの、開けた休憩室。
その床一面が、血の海と化していた。
水面に浮かぶのは、恐らく契約者だったであろう男の死体。
その死に様は、正直異常。
言うなれば、醜さを強調した、前衛的なオブジェか何か。
四肢が無く、両眼が潰されている。切断面を見る限りだと、刃物で切り取られたのではなく、無理やり引き千切られたのだろう。
死因は、見たままに出血性ショック死。
眼球無き暗黒の空洞が、恨めしそうに天井を見上げていた。
「……酷いですね。いくら敵とはいえ、人間である契約者を、ここまで執拗に弄ぶなんて」
凄惨な光景を見かねたリクは、不快感をあわらにしながらそう言った。
状況を見るに。
圧倒的な力量の差を持ちながら、契約者を殺し、それでも尚いたぶり尽くす異常性。
この契約者に、何らかの私怨を持っていた人物が引き起こした、殺人現場のようでもある。
だとするならば、これは既に戦いという行いを逸脱しており、虐殺という二文字がお似合いだ。
しかしながら、一体誰が、何の目的を持ってして、この悲劇の一場面を作り上げたというのか。
例えば、契約者が『死神ギルド』の一員だった線で考えた場合。
ギルドの禁忌に触れてしまい、制裁として同胞に殺されたとしても、わざわざ契約者の死体を欠損させた上、このような辱めをする必要性があるだろうか?
思考を張り巡らせ、あらゆる状況で考察してみるものの、なかなかピンと来るものがない。
これにはお手上げか、と『死神殺し』は死体を見下ろすと、彼の心臓が嫌な音を立てて、跳ねた。
「……まさか」
思わず、といったように息を漏らす。
彼はかつて、このような殺し方を好む殺人鬼と戦った事があった。
人の死を芸術作品だと謳い上げ、至高の死に際を追い求める人格破綻者。
その者の仕業であれば、いろいろと合致する。
だが、それは殺人鬼が生きていればの話だ。
四年前。『死神殺し』は殺人鬼と交戦し、確かにその手で闇に葬った。故に、生きているはずがない。
いや。あの男は、絶対に生きていてはいけないのだ。
それは例え、地上、天上を支配する神が許したとしてもーー。
「ーーあらあら、もしかしてあなた、『死神殺し』ちゃんじゃない?
やっぱり、私の見立て通りに、しっかり良い男に成長したみたいね」
『死神殺し』とリクの立つ位置から、ずっと先。
休憩室の隅にある暗がりから、色気をふんだんに含んだ声が飛んできた。
その声を聞いた途端、『死神殺し』は膝から崩れ落ちそうになる。
ただならぬ事態を察知して、臨戦態勢を整えたリクは彼の前に立つと、得物を構えた。
「あなたは、リクだったかしら?相変わらず綺麗な髪をしてるのね、羨ましいわ……」
戯言を並び立てて、暗闇から這いずり出てきたのは女の死神。
黒絹のような長い髪に、切れ長の瞳。
全ての男を魅了するようなボディラインを持つ彼女を、『死神殺し』はよく知っている。
「レジーナッ……!?」
「まぁっ、まぁまぁまぁ!ちゃんと名前を覚えてくれてたのね!嬉しいわっ」
忘れるわけがなかった。
いや。忘れたくとも、その名前が耳にこびりついていて、忘れられないというのが正しいか。
当然である。
レジーナと彼女の契約者こそが、彼をリクの契約者にし、『死神殺し』へと至る直接的な要因を作ったのだ。
そして、その契約者の名前はーー。
「ねぇっ、セイジロウ?」
『死神殺し』は、眼球が飛び出してしまいそうなほどに、双眸を見開かせる。
レジーナの目線の向こう。
緑色のジャケットに身を包み、以前よりも伸びた髪の毛を揺らし、窓から射し込む月光に照らされる男は、彼の反応を見て心底楽しそうに嗤った。
「……おや、これはこれは『死神殺し』くんじゃないか。
どうしたんだい?まるで、狐にでも化かされたような顔をしているよ?
もしかして……自分が殺した男が生きていることに、びっくりしてしまったのかな?」
濁った眼差しで、セイジロウは目の前の『死神殺し』を見据える。
「セイジロウゥッ……!!何故だッ、何故お前が生きているッ!!」
「何故、か。あの後、僕にもいろいろあったもんでね。
一度は死を覚悟したものの、死ねなかったみたいなんだよ。ま、キミにとっては、災難な話だよねぇ?
まさか、仇である僕を殺したはずなのに、こうして生きてるんだからぁ、あ、あはははーー!」
絶叫じみた声を上げる『死神殺し』を肴にでもするかのように、セイジロウは腹を抱えると、楽しそうに声を荒げる。
レジーナも、それにつられて笑みをこぼした。
全身に巡る血という血が、頭を目指して走る。視界が、くらりと揺れた。
今すぐにでも、この拳をあの男の顔に叩きつけてやりたいという衝動に駆られるが、
「……主」
彼のフードの裾を引っ張るリクが、激流の堰となりて、彼を宥めた。
言ってしまえば、あの日から二人は運命共同体。彼の痛みを、彼女は自分の痛みのように感じている。それを知っているからこそ、『死神殺し』は冷静さを取り戻せた。
「……この契約者は、お前がやったのか?」
「あー、でもさ、この作品は心に響かないだろ?こいつ、素材としてはーー」
「そんな事は聞いていないッ!」
うんざりするほど、つくづくこの男とは噛み合わない、と『死神殺し』は苛立つ。
これまでに、会話を交わしたのはほんの僅かだが。結果として、互いの齟齬を痛感させられるだけだった。
「ああ、そうだよ。この男の、殺人者としての在り方が気に食わなかったからさ」
「シュラ……死神はどうした」
「うん。一発殴ったら、逃げた。というか、逃したよ。別に、彼に興味は無かったからね。僕の目的はさ、このつまらない契約者の殺害と、キミだったんだもの」
やはり、この男が裏で糸を引いていたらしい。違和感、気味の悪さの正体は、これだったのだ。
セイジロウは、残忍かつ狡猾。何より、たちが悪いのは、非常に頭が切れる。
おそらく、なんらかの手段で『死神殺し』とシュラの交戦した情報を得て、シュラを払い、契約者を殺し、こうして待ち構えていたのだ。
必ず、『死神殺し』がこの廃工場に訪れるのを見据えて。
「何故、お前がこの真庭市にいる?」
『死神殺し』の言葉に、セイジロウはぐにゃりと口の端を釣り上げた。
「この街にはね、王の資質を持った契約者がいるんだ」
「……王の資質、だと?」
王の資質。という単語に、思わず言葉を途切れさせてしまった。
「王の資質を持つ者が、死神と契約をした時、この国に改変が訪れるーー聞いた事はないかい?
僕はただ、王が誕生する貴重な瞬間を観に来ただけだよ……もちろん、久しぶりに再会する、キミへの挨拶も兼ねてね」
そうして、セイジロウは大袈裟な身振りで、まるで翼のように両手を大きく広げると、窓の外に浮かぶ月を仰いだ。
「さぁ!ここから、楽しい楽しい、怒涛の展開さ。キミも楽しみだろ?『死神殺し』くんーー否、
『春野蒼太』くん。
長らく停滞していた物語に、新たな一ページが加わるよ……?」
見る者を取り殺してしまいそうな。
魔物の魔眼を思わせる、鈍く濁った双眸を、蒼太へと向けるセイジロウ。
彼は、至極楽しそうにそう歌い上げた。
王の誕生まで、あと僅か。
誕生した後、この国の物語は大きく動き出すーー。