私のヒーロー
ーー走る、とにかく走る。
蒼太くんに手を引かれ、時たま脚をもつれさせながら、私は一心不乱に走っていた。
早くも息が上がってしまって、心臓が痛む。こんなことなら、日頃から少でも運動をしておけばよかった、と今さらながら後悔する。
だけど、蒼太くんの重荷なんかに絶対なるもんか。そう思い、例え拙い足取りだとしても、必死に足を動かした。
死神と小さなローブの戦闘地帯付近には、逃げ遅れてしまった人達がまだ大勢いる。
彼らは、目の前で起こっている非日常的な光景に理解が追いつかず、既に心が折れてしまっていた。逃げるという選択肢すら考えられないほど、思考回路は焼き切れる寸前だ。
無理もないと思う。今は、蒼太くんという支えがあるからこそ、こうして走っているわけで。もし、この状況に一人で放り込まれようものなら、きっと同じような状況になっているはずだ。
「こっちだッ!」
蒼太くんは、進路を変える。
まるで、お城の壁ようにひしめく人間をぐるりと迂回すると、人と人との間に小さな隙間が空いている場所があった。
唯一の活路を見つけた瞬間、彼は躊躇うことなく、自身の体をねじ込んだ。
当然、私もそれに続く。もう、どうこう言っている場合ではない。死にものぐるいで、人を押しのける。
蒼太くんの助けを借りて、やっとの思いで肉壁から抜け出せた拍子に、私はハッとなった。
「……友恵……蒼太くん、ダメだよ。まだ、友恵が帰って来てないッ!」
息を荒げながら、私は蒼太くんに泣きつくように告げる。
広大な人の海の中で、友恵が私たちを探し回っているとすれば、きっとどこかですれ違いになってしまう。
その果てに、大切な親友が戦闘の流れ弾に巻き込まれでもしたら……そう考えてしまった途端に、足が震え出して涙が溢れた。
この異常過ぎる状況の中で、気がおかしくなってしまったのだろうか?考えれば考えるほど、ネガティブなビジョンしか浮かばない。
「……友恵は、賢い人だ。絶対にヘマなんかはしない。きっと今も、上手いこと立ち回っているはずだ」
蒼太くんは諭すように言うと、私の顔を覗き込んで、両肩に手を置いた。
私は、その言葉を拒絶するように、激しく首を左右に振る。
「蒼太くんは、心配じゃないの!?もしかしたら、どこかに友恵がいるかもしれないんだよ!?友恵を置いて行くなんて、私には絶対にできない!」
「俺だって、心配だよ!友恵になにかあれば、悲しいよ……でも、それは友恵も同じ。俺たちになにかあれば、悲しむのは友恵だ。
だから、そうしないためにも、今はここから逃げ出そう。
きっと、友恵は俺たちのことを信じてくれている。だから俺たちは、友恵を信じてあげるんだ」
蒼太くんの言葉を聞いて、頭に上っていた熱が放出されるのを感じる。思考は正常に回り、冷静さを取り戻す。
そうだ。私が友恵の無事を信じてあげなければ、誰が信じてあげるのか。信じよう、友恵は私の自慢の親友。彼女なら、絶対に無事に決まってる。
「ごめんね、蒼太くん……私、変なこと言っちゃった」
冷静さを欠き、声を荒げてしまった罪悪感で、顔が自然と地面に向く。
それでも、蒼太くんは笑ってくれた。
「大丈夫。さぁ、行こう!」
私と蒼太くんは、手を繋ぎ直すと再び走り出した。
ゴールまで、あと五十メートルくらい。あと、少し……!
私達のすぐ側では、死神と小さなローブの戦いが、激化の一途を辿っていた。
攻めては守り、守っては攻め。永遠と繰り返される途方もないループに、終わりは見えない。
それでも、こっちの終わりは見えてきた。
ゴールまでの距離ーーあと、二十五メートル。
この地点まで来ると、避難はだいぶ進んでいるようで、先ほどに比べれば天国のような空間。エレベーター付近は混雑しているけれど、エスカレーターや非常階段なら待つことなく下層へ降れそうだった。
安堵のため息が喉元まで込み上げていたところで、泣き声が聞こえた。
小さな女の子の泣き声。私たちのすぐ目の前で、女の子が一人で泣きじゃくっていた。
人の波に呑まれて、両親とはぐれてしまったのだろうか。周囲に、両親らしき気配はない。周りの大人達は、泣いている女の子に手を差し伸べようとはしなかった。自分達だけで、精一杯だとでも言うように。気づいているけど、気づかないフリをしている。
「……ッ」
「茉瑠奈?」
その子がどうにも気がかりで、居ても立っても居られない。
私は、歩みを止めて蒼太くんの手を離すと、女の子のところへ駆け寄った。
膝を床について腰を下ろして、できるだけ冷静を心がけて尋ねてみる。
「大丈夫?……お父さんと、お母さんは?」
「おとぉさんと、おかぁさん、いなくなっちゃった……うぅっ」
恐らく六歳くらいであろう女の子は、目元を腫れさせた顔でこちらを見て、たどたどしい口調でそう言うと、再び涙ぐむ。
やっぱり、はぐれてしまったのだろう。
「茉瑠奈、この子は?」
突然進路変更をした私に、蒼太くんは少し驚いたような表情をしている。
「たぶん、両親とはぐれたんだと思う。こんな小さな子、ここに置いてけぼりにはしておけないよ。一緒に連れて行く」
「連れてくって……」
そのあとに続けてなにかを言おうとしていたけれど、やがて口を噤む。蒼太くんの言わんとする言葉は、なんとなくだけどわかった。
だけど私は、蒼太くんの可否を聞くことなく、女の子を抱き上げる。
そして、安心させるように笑いかけてみた。
蒼太くんは観念したように、息を大きく吐き出した。
「わかったよ、連れて行こう。とにかく、急ごーーーー茉瑠奈ッ!!」
しまった、と言わんばかりに目を見開かせる蒼太くんの視線は、私の背後。
それにつられるように、おもむろに後ろを振り向くと、そこには自分よりも三倍ほど大きいのではないか、と思ってしまうほどの巨体ーー死神が立っていた。
死神は右腕を振り上げていて、あらゆる筋肉が隆起しているそれには、不快と怒りが込められている。
「せっかく、少女の儚い泣き声を背景に、気持ち良く殺し合いをしていたというのに……それを妨げるのは、お前か?」
「ひッ……!?」
死神の向こうには、小さなローブが悔しげに片膝をついている。その隣では、背の高いローブが拳銃を構えているけど、周りの人間を巻き込むのを躊躇っているのか、その引き金を引けないでいた。
たった数分の空白で、戦況は大きく傾いている。私は、咄嗟に女の子の頭に腕を回す。とにかく、この子だけでもと。
「少女の聖歌にも似た泣き声は、誰よりも我を奮起させるのだぞ?……あろうことか、それを止めてしまうとは、愚かしいにもほどがある。興ざめだぞ、んんッ!?」
だめだ。鉄槌が振り下ろされる。次の瞬間には、振り下ろされてしまう。
数秒後の未来、自分の末路が容易に想像できて、吐瀉物を吐き出してしまいそう。すっかり足が竦んでしまっていて、もう横にも後ろにも跳べない。
……だ、誰かーー。
「茉瑠奈ぁッ!!伏せろぉぉッーー!!」
咆哮じみた声が、突き刺さる。この声を、私は聞き間違えるなど決してないだろう。数年間、ずっと時を共にして来た、大切な親友の声なのだからーー。
鼓膜で声を受け取り、私は反射的に体を屈める。
人混みから颯爽と飛び出したのは、友恵。
その両手には、清掃用のモップを握りしめて、大きく頭上に構えている。
あれは、剣道においての五行の構えの内のひとつーー天の構え、または火の構え。故に、その構えから繰り出される斬撃はただひとつ。全ての構えの中でも最も速く、高い威力を内包した、振り下ろし。
私はつくづく思った。
……ああ。やっぱり、友恵は私のヒーローだ。敵わないなぁ、友恵には。
「さっきから聞いてりゃ、わけのわかんないコトをぐだぐだぐだぐだ。気持ち悪いっつーのォッ!!!」
友恵に、目の前の異形を恐れる感情は一切なくて、おまけに文句までぶつけている。
そして、正に怒髪天を衝くように、直毛で綺麗な髪を振り乱しながら、死神へモップを思い切り振り下ろすーー!
友恵の勇敢なその姿に、蒼太くんも背の高いローブも、思わずといったように感嘆の息を漏らしていた。