弾丸の行方
悲鳴が聞こえてから、それは間もなくのことだった。
優美な紋様が彫り込まれた、二本の柱がそびえ立つレストランの出入り口。
そこから、まるで花火が夜空で弾けるかの如く、大勢の人間が飛び出して来て逃げ惑った。
恐怖で顔をくしゃくしゃに歪めていて、必死に足を動かしている。抱きかかえられた子ども達は、みんな一様に泣き叫んでいた。レストラン外にいた人々も、その尋常ではない様子を見ると、伝染するように慌てふためく。
たった一瞬で、五階フロアは地獄にも似た空間と化してしまった。
「な、なに……?」
突然の出来事に、私は肩を震わせる。
状況が飲み込めないけれど、周りの人達を見て、とにかくとんでもないことが起きたのだと思うと、怖さで涙が滲んだ。
そんな私を安心させようとしてか、目の前の彼は、肩を優しく抱いてくれた。
「大丈夫だよ」
そう言って、優しく微笑む蒼太くんに先ほどの恐怖感はない。目の前にいる男の子は、いつもの蒼太くんだった。
「……うんっ」
私は頷き返事を返すと、春野くんの背中に腕を回す。
恥ずかしさはなかった。好きな人の体温を感じて、今はとにかく安心感を得たかった。
「ーーんん〜ッ!良い、悲鳴だ。だが、足りん。足りんなぁ……もっと、最高の悲鳴を聞かせてくれェェェェェッ!!」
耳に刺さるような金切り声が、フロア全体に響き渡って、私ははっとなる。
声のする方を中心に、ざわっと人波が波紋を描いた。水面に、大きな石が投じられたかのような光景。
悲鳴が、より一層強まっていく。
私は驚いて、反射的にそちらを見てしまった。
レストランの出入り口付近に、目を疑いたくなるような、異形の何かが仁王立ちをしている。
漆黒のローブを身に纏い、髑髏を模した仮面をつける、筋骨隆々の化け物。高らかと上げられた両腕は鮮血に濡れており、指から伝い落ちる。
あれはっーー。
「……し、死神……」
私の口から、そんな単語が滑り落ちたーー。
「良いぞ、良いぞォッ!!我がボルテージは最高潮だ……さてと、殺すか」
死神は満足そうに二、三度、首を鳴らせると、姿勢を低くして楽し気に両腕を横へ広げた。漆黒の翼は今こそ羽ばたかんと、めりめり力を伝達させている。
「……あ?」
そんな死神の前に、漆黒のローブが二人。背の高いローブと、身長百三十後半くらいの、小さなローブ。
どちらもフードを深く被っており、顔は見えない。
二人は、死神が羽ばたき飛び立つのを邪魔するかのように、立ち塞がる。
「……やれやれ、だ。こんな大勢の人間の前に、汚い姿を現しやがって……何のつもりだ、テメェ?」
背の高いローブの方が、低い声で問う。
表情こそ見えないが、心底苛立っているような様子だ。
「そうですっ。もっと言ってやるですよ、ハイエナ!」
「おうよ、ワルサー!」
その隣では小さなローブ、ワルサーが幼い仕草で首を縦に振っている。
二人を前にして、死神は至極不快そうな呻き声を上げた。
「貴様ら、我の邪魔をする気か?……するのなら、そこらの人間諸共殺す。しないのなら、今すぐ失せろッ」
「おいおい……まずは、こっちの質問に答えろーーッてぇ!!」
ハイエナはそう言うや否や、ローブの内側に仕込まれていたホルスターから拳銃を素早く引き抜くと、即座に銃口を死神に向けた。
既にセーフティは解除されており、ダブルアクションの状態。故に、トリガーを引けば撃鉄は銃弾を押し出す。
そうして、ガンオイルの艶に輝くワルサーPPKの怒号と共に、銃口から380ACPの弾丸が、眼前の敵を目がけて一気に駆け抜ける。
「何ィッーー!?」
意表をつかれたように、突拍子も無い声を上げる死神。
両者の距離、約十メートルーー
ーーしかし、悔し気な息を漏らしたのは、ハイエナの方だ。
引き抜くと同時にセーフティ解除、構えてトリガーを引くまでの工程に、歪みなど微塵も無かった。ハイエナの理想とする通りのスムーズさは、日々の鍛錬の賜物。努力の結晶。
が、やはり相手は人外の存在、死神だ。
ハイエナの瞬間的な殺気で攻撃を察知し、銃口から射線を読み取ったのだろう。読み取った後に体を逸らして、僅か数ミリという紙一重さで弾丸を避けた。
死神の右隣、背後の壁に大きな風穴が空いている。
「……クソがッ」
空薬莢が、虚しい音を立てて地面に転がった。
「貴様……弾丸に、自らの魂を混ぜ込んでいるのか。ただの弾丸ならまだしも、確かにこれなら我にも届き得る。んんッ!とにかく、今のは焦ったぞ?……さあて、どうしたものかなーー?」
そうだ。この初手こそが、ハイエナにとって唯一の好機だったのだ。
通常、380ACP弾だろうが、パラベラム弾だろうが、死神の肉体に風穴を空ける事は叶わない。故に、死神は銃器を侮る傾向にある。
だが、ワルサーの力によって、ハイエナの魂を混ぜ込んだ弾丸ならば、死神に致命傷を叩き込める。
だからこそ、一撃必殺の初手でありたかったのだが、今やそれは潰えた。
必死に次の一手を考えるハイエナを余所目に、死神は一気に左へ跳ぶ。
その先には、非常階段やエスカレーター、エレベーターへ逃げ込む、大勢の人間が群れを成していた。
「ヤロォッ、人間を盾にするつもりかッーー!!」
これにより、ハイエナの拳銃は完封されたも同然。もし今発砲したものならば、間違いなく周囲の人間も巻き込む。正に、最悪のケースだ。
「私が行くですよッ!!」
死神の進路を阻むように、ワルサーも跳ぶ。死神は、ワルサーに視線を移すと嘲笑した。
「お前のような、無力で小さき者に我が止められるかな?」
「舐めるな……ですよ?」
睨み合いの末、やがて二体の死神はぶつかり合う。
小柄な体を最大限に利用し、壁から天井へと目まぐるしく動き回り、変則的な攻撃を仕掛けるワルサー。
対する死神は、無駄な動き無く的確にワルサーの攻撃を捌いた。戦況は、五分五分。
天秤は、どちらにでも容易に傾く状況である。
だが、今正にこの瞬間、ワルサーは最後の防波堤である。決壊という二文字は、決して許されない。
「おいッ、そこの仲良しカップル!あんたらも今のうちに逃げろ!!」
この戦況が悪化する前に早く逃げろ、とハイエナは怒号じみた叫びを、蒼太と茉瑠奈に飛ばす。
あの時、ハイエナーー遼は、蒼太にこう耳打ちした。
この水族館のどこかに、死神が潜んでいる。何かあれば、俺とワルサーで対処する。だから、お前は絶対にその子を守れよ、と。
ーーハイエナ……だから、カップルじゃないって、さっきも言っただろうがッ!
お前に言われなくたって、そのくらいわかってんだよッ!!
心の中でそう吐き捨てる蒼太は、勢い良く立ち上がると、すぐに茉瑠奈へ手を差し出した。その顔に、迷いは無い。
絶対に茉瑠奈を守るという、その決意一点のみ。
「行こう、茉瑠奈」
恐怖で全身を震わせている茉瑠奈は、おずおずと蒼太の手に自分の手を重ね合わせた。
優しく引っ張り上げられて立ち上がると、改めて蒼太の顔を見る。不思議と恐怖心はかき消えて、足の震えが止まっていた。
「……はいっ」
二人は、手を繋いだまま走り出す。
非常口及びエスカレーター、エレベーターなどの脱出経路は、展望エリアとは真逆の方向に位置しており、距離としては約百メートル。
そして、目の前には二人の進路を阻むかの如く、人の群れが城壁のように立ち塞がるーー。