遼とルー子
ーー女の子、だと?やめてくれ、何の悪い冗談だ。
雨宮の戯言に、思わず頭を抱えたくなる。目眩にも似た感覚を、足下いっぱいに感じた。
あいつは、そんな可憐で純情な生き物ではない。百歩譲ってやれば、確かにまだあどけない、小学生の女の子に見えなくもないだろう。
が、ヤツの本性は全くそれとかけ離れている。酒は浴びるように飲み散らかし、煙草をパカパカと吸っては煙を吐き出す、俗欲にまみれた正真正銘の◯◯アマだ。
まぁ、そんな事はどうでもいい話。
何故、ヤツらがこんな水族館にいるのかだ。
まさか、ただ魚を眺めに来たわけではあるまい。何かしらの目的があって、ここに来ているのは間違い無いはず。だとすれば、まさかーー?
遼と呼ばれる青年と、ルー子と呼ばれる少女を目撃してからというものの、春野はまるで石像のように、動きを停止させていた。
そうなってから、既に数分が経過する。
みるみる内に顔面が蒼白になり、血色を失う春野の尋常ではない様子に、隣に立つ茉瑠奈は激しく狼狽していた。
そして、それは私も同じ。
明らかに、様子がおかしい。こうなると、ただ単にあの二人が、春野の知り合いというわけでもなさそうだけど……。
「春野くん……どうしたの、具合でも悪くなった?」
背中を指でつつき、茉瑠奈は心配そうに春野の顔を覗き込む。
そこでようやく、春野は息を吹き返した死体のように動き出すと、茉瑠奈に引きつった笑顔を向ける。
「いや、なんでもない。大丈夫だから……」
口ではそう言って頬を掻いているけど、誰がどう見ても大丈夫そうではない。
こちらの緊迫した空気とは裏腹に、あちらは随分と盛り上がっているみたいだけど……。
「遼!鮫はもう見飽きたし、馬鹿にし尽くしましたので、今度はこっちの方に行きましょう!クラゲコーナーで、クラゲをコケにしてやりますですよ!」
ルー子はそう言うと、こちらへ向かって駆けて来た。無邪気に走る主人の動作に合わせて、ポニーテールも上下左右、縦横無尽に揺れている。
……やっぱり、この子は鮫に何かしらの恨みでも持っているのだろうか。鮫に対して愛着を持っているわけではないけれど、出来れば鮫をいじめないであげてほしいと願う。そして、次の被害者はクラゲなんだな。
「おいおい、そっちの方はもう見ただろ?クラゲコーナーはこっちだって!ルー子、思いっきり逆走してるぞー!」
遼の制止など御構いなしに、ルー子はご機嫌な様子で走り続けた。人と人との隙間を、小さな体で器用にすり抜けると、そのまま私を抜かしてさらに加速する。
その目前には、先ほどから様子のおかしい春野。ルー子の視線は、完全に水槽の方に行っており、春野には気がついていないようだ。
あ、このまま春野が避けなければ、間違いなくぶつかる。しかし、春野は春野でルー子に意識が行っていないため、避けるには遅い。
頼みの綱の茉瑠奈は、心配そうに春野の表情を伺っているし……。
ーーなんて考えていたら、案の定ルー子と春野は激突してしまった。
「痛ッッッッッーー!?!?」
「ひゃあッ!?」
鈍い音を立ててぶつかり合うと、二人は仲良く尻餅をついた。
「ゔッ……あぁぁッ……!!」
悲鳴にならない悲鳴を上げるや否や、春野は勢い良くうずくまり猫背になると、自らの股間部を両手でおさえだした。
「はっ、春野くんッ!?」
茉瑠奈の角度からでは見えなかっただろうが、私は確かに目撃していた。ルー子の頭部が、春野の股間にクリーンヒットしていたのを。
女の私にはその痛みなど知る由もないのだけど、春野の反応を見る限りよほど痛いのだろう。ああ、可哀想に。
「うー、なんかフニって、フニってしたものがおでこに当たったような……」
そう言うと、ルー子は不快そうにおでこをさすった。そんな彼女の頭を、いつの間にかこちらへ駆け寄っていた遼が、ぺしんと音を立ててはたく。
「こらっ、ルー子!歩く時はいつも前を向いて歩け、走れって言ってるだろ、まったく。
ウチのルー子がすみませんでした!ほら、お前も謝れ!
そうだっ、お怪我は……無いようですね。うん、良かった!」
春野の安否を確認し、爽やかな笑顔を浮かべる遼だが、当の春野は瀕死の状態ですよ。確かに外傷はないかもしれないけど、彼は内部に物凄いダメージを受けてますからね。
「あ?……あ、ああ、大丈夫だ、じゃない、大丈夫ですから。はは、気にしないでください」
春野は一連の出来事に辟易しつつ、遼にぎこちない笑みを送る。心なしか、遼を見る春野の目線が鋭いような気がした。
「彼女さんも、せっかくのデートだってのに、お騒がせしてしまってすみません」
両手でルー子を立たせると、遼はぺこりと茉瑠奈に頭を下げる。
茉瑠奈は顔を赤くさせると、手をぱたぱたと左右に振った。
「い、いえ〜。彼女とか、そういうのじゃないですから。えへへ……」
「えっ、違うの?まぁ、いいや。
とりあえず、邪魔してすみませんって事で!ね、お兄さん」
遼は気さくな雰囲気で、いまだにうずくまっている春野の側で腰を下ろすと、肩に手を置く。
そして立ち上がろうとした瞬間、
「ーーーー」
彼は、春野に何か耳打ちをしたように見えた。
「それではお二人共、お邪魔してすみませんでした!ルー子はクラゲコーナーに行きますので!!」
事の成り行きを見守り、ルー子は元気良くそう宣言すると、今度こそクラゲコーナーの方角に走る。
その姿を見て、遼はため息をひとつ漏らして頭を掻いた。
「おーい!だから、前を向けと言ってるだろーが!!」
そしてルー子の後に続くように、遼は足早に追いかけた。
「春野くん、大丈夫?本当に怪我してない?なんか、災難だったね」
「う、うん……ありがとう……」
だいぶ痛みが引いたのか、茉瑠奈の肩を借りてよろよろと立ち上がる春野。その顔は、死人のように真っ白だ。
遼とルー子……まるで、台風のような二人だったな。