路地裏の極楽
ーー2011年。10月。
ーー自分は、平凡な人間だと思う。
勉強はそこそこ。スポーツは、まぁ得意。
不思議にも、女には困った試しがないものの。
とにかくだ。
自分には大層な将来の目標があるわけでもなく、人生を賭してでもやってやる、と熱望するほどなりたい職があるわけでもない。
過ぎ行く毎日を、なんとなく怠惰に過ごしていた。
気がつくと、ある程度勉強さえしていれば、入る事にはたいして苦労しないであろう国立大学に入学していた。
だけどまぁ、自分は特別になりたいと思った事はない。平凡だからと言って、特別焦りを感じるわけでもない。
普通に。ただ普通に、過ぎ行く人生を辿っていければいいと思っていたーー。
「ーー本当にそうかしらね。
それは、底の底からの本心?あなたは本当に、心から平凡を求めている?
何か、刺激が欲しいのではなくて?」
目の前の髑髏が喋った。
無骨な髑髏の化け物の割には、声はトロけてしまいそうなくらいに綺麗な音色だ。
僕は、反射的に肩を震わせてしまう。
ちなみに、僕は今黒いローブを羽織った髑髏の化け物に、所謂『壁ドン』なるものをされていて身動きが取れない。
ビルとビルの間の薄暗い裏路地にある、ジメジメとカビ臭い壁。
辺りには、飲食店などから出たビニール袋に包まれた生ごみが、所狭しと並んでいる。あらゆる生ごみの臭いが混ざり合った、何とも言えない腐臭が鼻腔を包む。
できることなら、一刻も早く壁から身を離してここから去りたい。
「……刺激?何のことだい?そんなものいらない。僕は、ごく普通に暮らせれば何の文句もないよ」
「あら、そう。でも何故かしらね。
貴方のその瞳、何故だかそこらに溢れているつまらない人間共とは違う。
私を、ぞくぞくさせてくれる瞳よッ!」
髑髏のしなやかな指が、僕の首筋を撫でた。
ピクリ、と体が跳ねてしまう。
そんな僕の反応を見て、顔こそ見えないものの、髑髏の口角が上がったような気がした。
「な、何を、訳のわからない事を!!」
僕は、握り拳で背後の壁を殴る。
じんわりと、血が滲んだ。
「ねぇ、本当の自分をさらけ出したいとは思わない?
貴方の中に蠢く欲望を、思いのままに解放出来たら……それは、とても気持ち良い事よ?」
「僕の中に、蠢く欲望?……はっ、なんだよそれ。僕にはね、欲望なんて無い。自分で言ってて悲しくなるけど、本当に無いんだ。僕は、空っぽなんだ!!」
なんだ、この感覚は。
心臓が鷲掴みにされたかのような、この圧迫感。
肺に酸素がうまく満たされていないのか、どこか息苦しい。
頭は冷えていく一方で、体は熱いのか寒いのかよくわからない。
情けないほど膝が笑って、地面に尻餅をついてしまいそうになる。
眼前に佇む、髑髏の甘美なる深淵への誘いは、僕を引きずりこまんとして指を絡めていた。
「……可哀想に。自分の素晴らしい本質を、まだ知らないのね。
貴方は差し詰め、鳥籠の中に閉じ込められた哀れな小鳥。生まれながらに大空へ羽ばたける力を持っていながら、窮屈な鳥籠の中で羽ばたけずに啜り泣いているのよ。
いいわ、私が貴方の皮を剥いであげる」
「皮を、剝ぐ……!?」
自然と声が上擦った。
瞬間的に、背筋が凍てつくような気分を味わう。
冗談じゃない!
皮なんか剥がれてしまえば、とんでもない事態になるのは言うまでもない。
脳が、体へ信号を送る。逃げろ、と。
体は脳から信号を受け取るものの、悲しいかな今の両足は言う事を聞きそうにもない。
情けなく震えていた。
「あら、ごめんなさいね。言葉足らずだったわ。本当に貴方の皮を剥ぐわけではない。いや、剝ぐのだけれど」
ーー足音。
髑髏の視線が、そちらへ移る。
数メートル先に、男が立っていた。
見たところ、いかにも冴えない感じの中年のサラリーマン。
ひどく酔っ払っているのか、ぶつぶつ独り言を垂れ流しつつ、千鳥足で壁にぶつかっては離れたりを繰り返している。
僕は、心の中で懸命に叫ぶ。
ダメだ。ここに来ちゃダメだ。もといた場所に、早く引き返せ。
じゃないと殺されるぞ、と。
「剝ぐってのはねーー」
髑髏がそう言ったのを鼓膜で捉えてから、次までは本当に一瞬であった。
突風の様な衝撃に、僕は息を呑む。
辺りのゴミ袋が、重力を無視したかのように、一斉に宙を舞った。
「ーーこうやって剝ぐのよ」
数メートル先のサラリーマンの腹部を、髑髏は一瞬で貫いた。
戸惑いや焦りなどの感情は皆無。むしろ、実に楽しげで幸福の感情を全身に身に纏う。
そうして、当たり前の結果として。
真っ赤な鮮血が吹き荒れるのだーー。