『恋する寄生虫』 三秋縋 ~問いかけられるリドル。たとえ、操り人形の恋だとしても~
【はしがき】
はじめに、『恋する寄生虫』のあとがきで、三秋さんが触れているのは「引き算の幸せ」ということで、それに触れない本レビューは全く斜め上を行ったモノに仕上がっていることを告白致します。
私は、「私というフィルター」を通じて、この作品を紹介したいと思います。
著作者である三秋縋さんには、甚だ不本意でしょうし、彼のファンの方も、不愉快な気持ちにさせるかも知れないこと、あらかじめご了承いただければ幸いです。
【あらすじ】
その冬、高坂は遅すぎる初恋を経験した。相手は一回り近く年下の少女だった。心を病んだ失業中の青年と、虫愛づる不登校の少女。何から何までまともではなくて、しかし、紛れもなくそれは恋だった。
大学卒業後、地方のシステム開発会社に就職した高坂は、しかし、その病的なまでの潔癖性ゆえに、わずか一年で職を辞してしまう。
病的な潔癖性――強迫性障害は、日常生活をも蝕み、『不潔』を恐れる高坂は、外出は極度に少なく、何処へ行くにも、サージカルマスクにラテックスの手袋をつけるという徹底さ。
帰ってくれば、何回もシャワーを浴びる。
「菌が身体について病気になってしまう」
その恐怖を抱え、引きこもりの生活を続けていた。
そんな彼には、人には言えない趣味があった。
犯罪行為と言える「趣味」。
それをどこからか嗅ぎつけてきた謎の男が、「警察に通報する代わりに、私の指示に従え」と脅迫をかけてくる。
躊躇はしたものの、脅しに屈し、また、支払われるという謝礼にも惹かれ、高坂は指示を受け入れる。
その「指示」とは次のようなものであった。
「高坂賢吾。あんたには、ある子供の面倒を見てもらいたい」
「子供?」
「そう、子供だ」
指定された子供の名前は佐薙ひじり。十七歳くらいの少女だった。それもただの少女ではなく、高坂が最も苦手にするタイプ。
白金に染められた髪。光の具合によってはアッシュグレイにも見えるようなプラチナブロンドのショートカット。肌が不健康に青白く、瞳だけが吸い込まれるように黒い。
スカートから伸びる細く長い足。息が真っ白になるような気温にも関わらず、太腿が露わになるような短いスカートを履いている。
着ているのは近所の女子高の制服で、タータンチェックのマフラーを巻き、オフホワイトのカーディガンを羽織っている。
頭にはがっしりとしたモニターヘッドフォン。耳にはピアス。
そして、よく見ればタバコを吸っていた。
佐薙ひじり。そんな容姿をした彼女は、ある秘密を抱えた、不登校児童だった。
彼女となんとか接触を試みた高坂は、やがて不器用ながらも関係を深め、お互いの社会復帰のため、力を合わせるようになる。
繰り返されるリハビリの中で、やがてふたりは恋に落ちていく。
しかしそれは二人に巣食った<虫>によってもたらされた、「操り人形の恋」に過ぎないことを、高坂は知らずにいた。
【面白かった点・みどころ】
序盤は静かな、静かな始まりなのに、すぐに怒涛の如く引き込まれていく自分に気づかされました。
潔癖性の高坂と彼のとある「趣味」。
それをどこからか知って、謎の依頼をかけていくる男。
そして出会った、気だるげでミステリアスな少女、佐薙。
佐薙の隠し持った「秘密」。
こんな「???」という、謎だらけの展開に、あっというまに「なんなの? なにが起こってるの?」といった具合に引きずり込まれます。
最初は「不潔」の代名詞のような佐薙を厄介に感じつつも、しかし男の脅迫には逆らえず、少しづつ受け入れていく高坂。
無愛想で無遠慮に押しかけてくる佐薙の心の壁も、あるきっかけを境にほころびを見せ、ふたりの距離は縮まっていきます。
そして、社会復帰プログラムのための同盟を組んだふたりの関係は、いつしか強い恋心に。
……しかし。
二人は、やがて知ります。
ふたりを恋に落としたもの。それは、彼らに巣食う<寄生虫>の仕業であることを。
本編で語られますが、寄生虫というのは、一説によると、宿主である動物の行動・思考をも支配してしまうものだそうです。信じられないというか、信じたくはありませんが、そういう研究結果が出てきているのもまた、事実です。
高坂と佐薙に巣食った特殊な<寄生虫>は、それらの生存本能によって、二人を操り、恋におとした。
つまり、彼らの恋は、操られた恋。
「操り人形の恋」であるというのです。
もし、自分が人を好きになったとして、それが、自分の中の<虫>のしわざだったら。
本当ではない、しかし衝動として確かにある「恋心」をどう考えればいいのでしょうか?
操り人形であることをやめ、「恋」という甘美な衝動を殺すか。
操り人形であることに甘んじ、「恋」に身を焦がすか。
その謎かけが、真っ向から問われてくる作品です。
たとえ操られた恋とはいえ、操られていることを肯定するのなら、それは「自分の意思」ではないか?
そう考える一方で、「そんなのは恋ではない」と言い切ってしまうこともできる。
しかし、それは「恋」という寄生虫へのアレルギーなのかもしれない。
そもそもが、「本当の恋」ってなんでしょうか?
つらい時、生きるのが不器用な二人が出会って、支えあって愛を育んでいく。
そのささやかな二人の幸せに、誰が異を唱えることができるのでしょう?
――たとえ、それが「操り人形の恋」だとしても。
この物語は、始めから終わりまで、どことなく「ドライ」な、冬の気候のように、どこか「乾燥した」タッチで進められているように感じます。
その描かれている恋愛にも、「濡れた」感じがなく、なにか無菌室のような、薄ら寒さすら感じるような、「乾いた感じ」がどこまでもつきまといます。
でも、それって、ふたりの愛が「乾いている」わけではない。
確かに彼らの不器用さ、ウブとも言える、ぎこちない、表面的にならざるを得ないもどかしさは、どこか表面的な印象を与えます。
しかし、それはむしろ激情の本流で、二人のそれぞれを翻弄しつつ、読者までも飲み込んでいく。
そういったたぐいの愛情です。
ただ、それがどうしても冬の乾いた寒さを連想させてしまう。
そういう、形容しがたい雰囲気を感じます。ドライなのです。
物語が中盤から後半に差し掛かり、ふたりの恋が「操り人形の恋」であることを知ってからは、その気持ちがとみに高まります。
序盤の引き込みも巧みですが、そこからは怒涛のごとく、これでもかというほどの勢いで読者を巻き込み、畳み掛けてきます。
この作品の「トゲ」は、読者に不安を与え、心に深い傷を与えつつ、問いかけてくるのです。
――幸せとは、本当の愛とは、何なのか? あなたは操られているだけではないのか? だが、たとえ操られているだけだとしても、幸せであれば、愛があれば、それでいいのではないか?――
と。
不幸に身を置いている者にとって、まがい物であっても、一縷の希望は大きな光となり、縋り付かざるを得ない希望になります。
それを否定することは、正しいことであっても、許されるのでしょうか?
そもそも、幸せを否定するのならば、それはそもそも「正しいこと」と言えるのでしょうか?
……結局私には、この答えは出せませんでした。
本作品にはむしろ、答えの出ない問い掛けを、あえて仕掛けられているのかもしれません。
そして、ラストになって、彼と彼女が下す選択は。
他の多くのレビューでも触れられていることですが、やはり考えさせられます。
果たして、それは正しいことなのでしょうか?
幸せなことなのでしょうか?
あるいは悲しいバッドエンドなのでしょうか?
私には、答えが出せません。高坂と佐薙の気持ちに深く共感すればするほど、彼らの出した答えは、心に突き刺さり、その刺は致命傷になってしまったからです。
――もし、私だったら?
「彼らの恋」は、その枠を超えて、一読者の私の心の泉に一石を投じ、それは大きな不安の波紋となって、広く深く、心を揺らしてきました。
……果たしてみなさんは、どう感じるでしょうか?
【残念だった点】
私にとって残念だった点は、著者の三秋さんの読んでもらいたかった(であろう)ように、この物語を読み解くことができなかったことです。著者は、この物語を、「引き算の幸せ」、精神的欠陥を持った人間が、ちっぽけな幸せを享受した時、その幸せは孤独であったがゆえに光り輝き、残るものになる――ということであったかもしれません。
その意味では、私は、この物語を全く読み違っています。
ですから、この物語の「真のレビュー」に関しましては、実際にこの本を読んでいただき、このレビューの読者となってくれているあなたの手に委ねたいと思います。
自分でレビューを書いておいて、「私のレビューは正しくない。あなたの感じたことがレビューです」と、丸投げしてしまう愚を、どうかお許しいただきたいです。
ただ、私は私の感じた面白さを、このレビューを読んでくれたあなたに届けたい。
それで、あなたがこの物語に、興味を持って頂ければ、これ以上の幸せはありません。
【その他】
三秋縋さんは、ベテランと言っていい作家さんのようで、他にも、メディアワークスさんから「スターティング・オーヴァー」「三日間の幸福」「いたいのいたいの、とんでゆけ」「君が電話をかけていた場所」など、多数の作品を生み出しているようです。シリーズものの作品で続けているのではなく、読み切りで一作一作勝負に来ているようで、少し好感が持てますね。
気になった方は、是非。