『サムウェア・ノットヒア ここではない何処かへ』 小野崎まち ~筆舌に尽くしがたい絶望に、救いはあるのか~
【はしがき】
リクエストを受けまして、『サムウェア・ノットヒア』のレビューをしたいと思います。
実はこの作品は拙著と同じファン文庫から、奇しくも拙著と同じ時期に出版された作品です。……が、本当に、嫉妬すらさせてくれないほど凄まじい物語でした。ツイッターなどでも、賞賛の声が上がっているので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。
鬱のときに読むのは要注意です。ですが同時に、心に傷を持った人にこそ、深く響く作品ではなかろうかと愚考いたします。
【あらすじ】
見るものの胸を打つ、といった作品は確かにある。
ただし、それがどのような種類の衝撃なのかは、また別の問題だ。
美術教師・沖澄栄一郎は、個展に一つの絵を持ち込んでいた。
その絵画のタイトルは「ここではない何処かへ」
沖澄の幼馴染、零子が描いたその作品は、圧倒的な存在感を持って、見るものに痛烈な何かを問いかけてくる。
零子はいつも憑かれたように絵を描き、溢れんばかりの才能に恵まれていた。
いや、『恵まれていた』と言って良いのかはわからない。
あるいは彼女にとって、その才能は……。
「ここではない何処かへ」という作品について尋ねられた沖澄は、やがて、重い口を開き、その絵の生まれた物語を紡ぎ出す。
人を厭い、陰気で孤独な零子の唯一の心の拠り所は、絵を描くこと。
彼女は絵を描く事以外には、花を育てて幼馴染の沖澄に贈るくらいしか生きがいがない。
零子の傍にいつも存在する沖澄もまた絵描きであり、高校生だった二人は部員が彼らしかいない美術同好会に所属していた。
零子は、周囲を、そして沖澄をも圧倒する存在感を持って、いくつもの絵を描きあげていた。
絵を描くことは、彼女にとって生きることと同義のようなものだった。
だが、その描かれる絵は、圧倒的な喪失感に満ち満ちたもので。
救いというものが、ひと欠片も存在していないものだった。
零子を「陰」の描き手とするならば、沖澄はまさに「陽」の描き手だった。
その描く絵には、眩しいばかりの生が、救いが存在していた。
いつも近くにいた幼馴染。
その存在はぶっきらぼうだけど、暖かくて、優しくて。
零子は、沖澄をどうしようもなく必要としていることは明白だった。
しかし、絶望に打ちのめされ闇へ落とされた盲人は、光に憧れるが、陽の光は彼を焼き尽くす業火となる。
「あること」を引き金として、零子の心は壊れていき、ふたりの仲は、次第に離れていく。
離れられない二人が離れ、そもそもが互いを必要ではなかったのだとまで思えた時、彼と彼女が見たものとは。
――もがき、苦しみ。
狂気にも似た着想に導かれ、描き上げた、その絵の向かう先は、一体……?
沖澄に託された花は、咲くことが許されるのか。
【良かった点・みどころ】
この物語は、二人の若い絵描き達の物語です。
互いに互いを必要とし、絵を描くことに天命を見出している。
そんな二人の、不器用極まりない、悲しい物語。
読者は、まず冒頭の「ここではない何処かへ(サムウェア・ノットヒア)」というタイトルの絵の描写に、心臓を鷲掴みにされると思います。
そうですね、読んでいただいたほうが話が早いかも。
少し抜粋してみましょうか。
〔抜粋(……は省略を表す)〕
黒い背景。
微妙に異なる色合いのブラックが何層にもわたって塗りたくられたそれは、絵の上部を中心にして波紋のようにグラデーションを為している。
……即ち上部には、一本の右手が描かれている。透き通るような白い肌を持った美しい腕。
……真っ暗闇の世界に、天から差し伸ばされた救いの手。
……圧倒的な救いが、そこにあったのだ。
もしも、その絵が、そのままの状態であったなら。
「……ええ、そうなんでしょうね。この絵を見ているだけで、僕は無性に悲しくなります。いえ、そうじゃない。正直に言えば、死にたくなる。……」
魅入られたようにその絵から目を離さず、藤堂は言う。
その絵――『ここではない何処かヘ(サムウェア・ノットヒア)』。そこに連れて行ってくれるはずだった救いの御手の、その手の甲には、実物の釘が深く穿たれていた。
この作品の冒頭は、この絵から始まります。
そのあとも、いくつもの印象深い絵が、物語を彩る。
<絵を文章で描き、その絵が物語を語る>
私が間違いもなくこの作品を推せる一点目は、まずはそこでしょう。
小野崎まちという作家は、この描く技術・引き込む技術が、並外れている。
「生きることに不器用な」、とは、陳腐であるがよく言われる言い回しです。
しかし、零子の生きている・見ている『世界』は、絶望そのものだったかもしれません。
沖澄は、そのことにうすうす気づきながらも、その世界を共有することはできずにいます。
いえ、絶望を見た人間にしか、あるいはそのような人間にすら、それは決して共有できない世界。そんな世界に、零子は生き、絵を描くことで足掻き続けています。
彼女は、「自分の絵で、誰かが喜ぶことを嫌い」だと言います。
それはなぜか?
なぜなら、彼女にとって、自身の描く絵とは……彼女なりの深い意味があったのです。
やがて、「あること」が二人を訪れて、零子は心を壊し、やがて絶望に身を委ねてしまうのですが、私はこの場面に、心がひどく傷つけられたのを覚えています。
それは、ありえない変化です。それは、『救いという名を騙った絶望』であったとも言い換えられるかもしれません。
まさに、ぞっとするものでした。
高校生の二人を見守っていた美術教師・来栖は、壊れてしまった彼女を見て、こう表現します。
「あの子の笑顔というのを、僕は初めて見たよ。そして、もう二度と見たくなくなった。あんなものを目の前で見せられ続けたら、僕の弱い心なんか、あっという間に呑み込まれてしまう」
彼女の求めたもの。
それは、決して彼女の手の届かないものでした。
――彼女が望むものは、あまりにも当たり前で、平凡な。
もう、胸が苦しくてたまらなくなると思います。
彼らの苦しみに、苦悩に、心が押しつぶされそうになりました。
そして、二人が離れていくある日。
沖澄は、あるとき、狂ったかのように筆を振るい、そして零子は……。
……さてさて、結構ネタバレしてしまいましたね。
申し訳ありません。レビューはここまでにしておきましょう。
興味がおありでしたら、あとは自分の目で確かめてくださいね。
好む好まざるにかかわらず、深く心を抉り出し、何かを残す。
そんな作品だと思います。
【残念(?)だった点(少しネタバレ注意!)】
ラストは、救いがあるのかないのか、これは実は終結に至る数章の『読み方』によって、解釈が分かれると思います。
実際、沖澄は零子に救いの手を差し伸べているし(?)、素直に読めば、確かに救いはあるかもしれません。あるいは作者もそう描いたのかもしれない。
ただ、ラストに至るまでの零子の抱えていた絶望は、あまりに闇が深すぎて、そもそも零子には、幸せになる権利が(そう、それは「権利」と言って紛いないと思います)与えられていたのか? 救いを伸ばした手には、釘が突き立っていたのではないか、と考えさせられるのです。
その意味で、私は表題に『筆舌に尽くしがたい絶望』と記しました。
私はハッピーエンドを良しとする読者でありますから、本作もまた、ハッピーエンドで終わったのだと思いたいです。ですが、しかし……。
果たして、他の読者の方は、どのような判断を下したのでしょうか?
そして、これから読むことを決めた読者様は、果たしてどのように読み、どのような判断を下すことになるのでしょうか……?
……それはきっと、あなたの胸の裡に。
【その他】
『サムウェア・ノットヒア』は、原題を『サムヒア・ノーヒア 著:ちょろんぞ』といい、現在でも公開されています。興味を持たれた方は、是非覗いて見られることをオススメいたします→ http://ncode.syosetu.com/n8676bo/




