『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』坪田信貴~できない人間なんていない。きっと『才能』なんか、ない~
【あらすじ】
一人の教師との出会いが、金髪ギャルとその家族の運命を変えた――投稿サイトSTORYS.JPで60万人が感動した、笑いと涙の実話を全面書き下ろしで、完全版として書籍化。子どもや部下を伸ばしたい親御さんや管理職に役立つノウハウ&心理学テクニックも満載。〈登場人物〉「さやかちゃん」=偏差値30以下のギャル。天然ボケ回答連発も、へらず口が得意。「坪田信貴」=心理学を使って短期間での偏差値上昇を請け負うカリスマ塾講師。「ああちゃん」=悲しい子ども時代の経験から、熱い子育て論を持つさやかちゃんのお母さん。でもお母さん仲間からは誤解されがち。
【感想】
Q 次の英単語の意味を答えなさい。
「strong」
「japan」
A さやかちゃんの答え
「日よう日」(sとnしか被っていません。日曜日の「曜」という字も書けません)
「ジャパーン」(何故カタカナで、しかものばす)
Q 次の日本語を英単語にしなさい
「彼らの」
A さやかちゃんの答え
「hi」(恐らく、「he」と書きたかったのだと思います。それでも間違いですが)
Q [ Hi, Mike! ]どう読みますか?
A 「ヒー、ミケ!」
Q 聖徳太子、読み方は?
A 「せいとく たこ」
さやかちゃん曰く、「この子、きっと超デブだったから、こんな名前つけられたんだよ」
これは実際にあったことのノンフィクションです。高2にもなって、「strong」という単語すら知らなかったギャルが、現役で日本最難関の私立大学、慶應義塾大学に合格するまでの経緯を追っています。
教育法も様々なところで散りばめられていますが、『あの人は凄い。でも、私には才能がないから』というように自分を諦めてしまっている人には是非読んで欲しい。
いわゆる『才能』なんて、ないってことを。
人間は誰だって、変われることを。
この本は、きっと教えてくれます。
主人公(?)のさやかちゃんは、本当に、勉強が出来ません。
本当に、冗談と思うくらいです。
入塾の際に、学力を見るために課せられた試験では、上述したようなやりとりが交わされます。
『でも、学力がない人間なんて、いくらでもいるもんだよ』と仰る方もいるかも知れません。そう思ったあなた、『東西南北』ってわかりますか?
哲学やとんちではありませんよ。方角の、そのまんまの意味で。
坪田『あのさ、北が地図の上の方の時、南って、どっちの方?』
さやか『……いやー、そういうの私、無理だわ~』
『そういうけどね、君、それを知ってるって、人間としての基本性能だから』
『いやでもね、先生そうやって言うけどね、私の友達絶対知らないから! マジで!』
『仮に、そうだとしたら、日本は滅ぶよ。本当に。いや、マジで』
この会話の後、当時小学生の妹に聴いたら、「え?北が上なら、南は下に決まってるじゃん。何でお姉ちゃん、そんなこと知らないの? 嫌い!」といわれてしまい、へこんでしまします。
そこでしばらくの間、彼女は机の上に、こういうのを貼っていたようです。
ボク
北
キタ
トウ ↑ ザイ
東 ← →西
ひがし ↓ にし
南 ナン
みなみ
……頑張っているようですが、東と西が逆のような。
さて、こんな彼女が、偏差値70を超えるという慶應義塾大学に、なんと現役合格します。
『元々地頭が良かったんじゃないの?』『素質が元々あったんだよ』
なら、その『才能のあった』彼女が、高2になるまで、何故こんな状態なんでしょうか?
人は、凄い人を見て、結果を見て、『それは才能があったからだよ。私には無理』といいます。でも、それって、本当でしょうか?
もし『才能があったんだ』ということにこだわるのならば、さやかちゃんは一つだけ、だれにも負けないものを持ってました。
それは、素直さです。高2の時点で偏差値30の、さらに今まで例を挙げたくらい知識がない彼女は、『慶応に受かる』ために、小学生のドリルから、一生懸命やり直します。その努力の甲斐があって、紆余曲折をしながらも、慶應義塾に合格します。
さて、いま、『やっぱりね、ドベの学力でもちゃんとそういう素質があったんだ』と、少しほっとしたような感じになった方、いませんか?
『こんなことは起こりえない。何か、理由があるはず』
人は、きっと、そう思ってしまう。
何故って、そう思わないと、『今自分がいる満足できない状況』を直視することに耐えきれないからだと思います。
『あの人と私は違う』『出来る人は、最初からその素質があったんだ』
そう言って、その人を特別視することで、『自分とは違うから』と切り離して、安心する。
『でも、私は普通の(あるいは、才能のない)人間だから』って。
でも、この本は、教えてくれます。
きっと、才能なんて、ないんだってことを。
それは、叱咤でも偉ぶった哲学でもない。
優しくて過酷な事実であり、全ての凡人のための、エールです。
それをどう捕らえるかは、読み手次第かも知れません。
この物語は、私塾の教師である坪田信貴の視点で、どうさやかちゃんに関わっていったか、どう教えたか、ということをユーモラスに、読みやすく、柔らかい口調で語っていくスタイルを取っています。
坪田さんは「ダメな人間なんていない。ただ、ダメな指導者がいるだけ」と言い切っています。生徒の良い面を限界まで引き出し、伸ばしていく。
私は『才能なんてない』といいましたが、『なら、努力すれば良いってことだろ』と反発を受けるかも知れません。いいえ、恐らく、努力だけではどうにもならないことがあります。それは、さやかちゃんにとってもそうです。彼女は坪田先生という一人の先生と出会い、家族の支えの中で、変わっていきます。何より、この先生に師事しなければ、合格なんて、到底出来なかったでしょう。
『ほら、努力だけじゃないって。周囲の環境とか、尊敬できる師匠に出会えたら、私だって変われたかも知れないのに』
そういう反論は、もちろん承知の上です。
ところで、今の文を読んで、違和感を覚えた方、いますか?
『変わったかも知れないのに』
もしかして、過去形にしてませんか? もう、自分なんて変えられないと信じて疑わない方も、多いんじゃないでしょうか?
いや、少し説教くさい感想が過ぎますね。すみません(汗)
でも、さやかちゃんは「現在」を必死で生きていることがわかります。
「未来」は「現在」の積み重ねなんだってことに、気づかせてくれます。
さやかちゃんと、自分を重ねて読んでみてください。きっとそこには、本当に、勇気づけられる気づきが詰まっている。そう思います。
さやかちゃんを支えていたのは、坪田先生だけではありません。
母親の「ああちゃん」。この人が、本当に凄い。
さやかちゃんは塾の勉強に熱中しすぎて、学校は『寝る場所』にしてしまいます。
当然、教師からはクレームが来ます。
『お宅の娘さんは相変わらず授業を全く聞かず、熟睡しています。どうなっているんですか?』
『先生。さやかは、本気なんです。どうか許してもらえないでしょうか?』
『ええ、知ってますよ。慶応でしょう(笑)。そういう馬鹿げたことをいまだに言い張っていますが、到底、行けるわけがありません』
『ええ、でも、皆さんが無理だと思っていることを、さやかは成し遂げようとしているんです。ですから、塾でも何時間も勉強し、家出も朝までずっと寝ずに勉強しています。だったら、あの子は、いつ寝れば良いんですか?
あの子には、学校しか、寝る場所がないんです。先生は、さやかを慶応に導こうとしてくださっていない。無理だといって、笑っておられる。でも、塾の先生は“行ける”とおっしゃる。だったら、さやかにとって信じるべきは塾の先生じゃないですか』
さやかちゃんには、信じてくれる人がいた。
それだからこそ、頑張れた、とも言えます。
ですが、実際、両親は不仲で、喧嘩ばかりしています。
それが、さやかちゃんが変わることで、その仲が修復していく過程も、本書には書かれています。頭から娘の慶応合格など夢物語だと思っていた父親も、本気で娘を応援するように変わっていきます。
人って、きっと『才能』で生きてるんじゃない、と改めて思い知らされます。
きちんと努力して、その先に『結果』がついてくる。
「努力のあとに結果がついてくる」
そういいながらも、私は、この物語を読んで、「才能」というのは、「結果」に対する理由付け(ある人にとっては言い訳)なのではないか、と思うようになりました。これは本文には書かれていなく、勝手に夢想したことではあります。
さやかちゃんが『慶応』に受からなければ、この本は出版されなかったでしょう。
結果を出したからこそ、私はこの本を読むことが出来た。本当にラッキーです。
一方で、さやかちゃんは明治大学にも、『西の慶応』と言われる関西学院にも現役合格を果たしています。それでもやはり、『慶応』に受かった結果があったからこそ、この本が生まれたわけです。
でも、考えてみてください。もし、さやかちゃんが慶応に落ちていたら、彼女の努力は無駄だった、努力に価値なんて、結局ないんだ、といいきってしまえるでしょうか?
私は、そうは思いません。結果はどうであれ、一番大切なのは、彼女の、彼女を巻き込んだ人々の成長にこそあったのだと思います。
今伸び悩んでいる人。
人生を諦めている人。
努力してみたい人。
そんな人たちの心を、奮い立たせてくれる一冊です。
是非、読んでみてください。




