42 学園と入寮(改稿版)
おまたせしました。
いろいろ改稿しました。
また4章始めからです。
変更点
・ユリウス、ジュリアンの学年を一つずつ下げました。
・(忘れていると思いますが)アウグストの苗字及び、長男から次男へ変更しました。
・その他細かいところは気にしなくても大丈夫な程度です。
ねぇ、と、大きな声を出して、めいいっぱい伸ばした手の先をよく覚えている。
彼女は澄んだ瞳を細めて、応えてくれた。
なあに、と。
俺はその思わず零れたようなその笑みが大好きだった。
だから抱き上げてくれたその腕の中で彼女の頬によく触れた。
温かくて、顔を近づけるといい香りがした。
母がいない俺にとっては、それが母親の香りだったのかもしれない。
今考えると彼女も幼かったというのに、俺にとってはそうだった。
そんな彼女よりもさらに幼い俺は母に愛をもらえなかった分を補うように、うんと甘えたのだった。
―――けれど、もういない。
どこにも。
俺のせいだ。
これは誰のせいでもなく、俺のせい。
俺は無知だった。
それは幼いからと言って許されることではない。
自分の立場を忘れてはいけなかった。
俺は甘えるだけで、忘れていた。
忘れてはいけなかったのに。
忘れてしまったせいで、巻き込んでしまった。
もう、いない。
この世のどこにも。
『にげて!』
そう叫んだ彼女の姿が今でも脳裏に焼き付けられている。
そのあとに見た、躯となった彼女の姿も。
守りたかったというのに。
守ると誓ったのに。
俺は、何もできなかった。
俺には、何も守れないんだ………。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
エルフィリス王立学園。
その始まりは実に150年ほど前に遡る由緒正しき学校である。設立を立案したのは当時のバルツァー公爵家で、それ以来彼らが代々学園長を務めている。生徒は主に国内貴族子女及び一部上層階級の平民で構成されている。以前は貴族子女のみの学校であったが、十数年前の改革の際に、一部平民の学生も受け入れるようになった。かつては留学生がいた時期もあったらしいが、元々エルフィリス王国は他国との交流が多いわけではないため、現在は一人もいないそうだ。
学園の仕組みは前期課程と後期課程に分かれており、選ぶ学科によってそれぞれでカリキュラムが異なる。学科の種類は騎士科、文官科、淑女科と三つ。それらの選択は自由ではあるが、騎士科と文官科に男性が、淑女科に女性が選ぶことがほとんどである。しかしながら、女性の中には騎士科や文官科を選ぶものもいないわけではない。ティファニアもその例外の一人で、今年度に新入生における唯一の文官科をとった女子生徒である。
「あちらがエルフィリス王立学園でございます」
馬車の振動感じる中、アリッサが指し示す小窓の景色をティファニアは眺めていた。
この馬車には左右の窓とは別に正面に御者に指示を出すための開閉できる小さな窓があり、アリッサはその窓を開いて指し示したのだった。その小さな窓枠の奥には仰々しい鉄の門があり、その先には確かに貴族の屋敷のような大きさの屋敷が聳え立っていた。周りには何もなく、平地と森が広がっているだけにその場所は際立って見えた。
「うわぁ、こんなに大きいんだ……!」
その建物はまさに聳え立つという表現が正しく、歴史を感じさせる重厚なレンガ造りであった。それはウルタリア侯爵邸よりも、いや、ルイビシス公爵邸よりも大きく見えた。
「ふふふっ、驚くのはまだ早いですわ。この学園にはお嬢さまがお好きそうなところがたくさんあるのですから」
「え、本当?」
「ええ、でもまだ秘密ですよ。楽しみにしていてくださいませ」
しーっとアリッサは口元に指を立ててウィンクをした。
その少しお茶目な姿にティファニアはクスリと笑った。思えばアリッサは一度も学園のことを話てくれなかったかもしれない。質問すれば答えてはくれたが、基本的には楽しいところですよと言うだけだった。きっとそれはあとから驚かそうと思っていたからだろう。
そして、アリッサの目論見はすぐに達成させられた。
馬車はセキュリティ上校内に入れないらしく、ティファニアとアリッサは歩いて今日から生活することになる寮へと向かった。荷物は前日までにすべて届けられており、あとはアリッサが鞄一つ持っているだけだ。それはあまり重くないからと校舎案内をしてもらうことになった。
そこで、見たのだ。
先ほどまで眺めていた大きな本校舎の中。その構造はカタカナの『ロ』のように真ん中が開いているようで、そこは中庭だった。
そして、そこには―――……
「わぁ……っ!」
風に舞う、懐かしい色。
それは、二本の桜。
桃色や白の淡い輝きで、少し風が吹くと儚く散りそうだった。けれど、その儚さがなんとも美しい。
前世の記憶はほとんどないはずなのに、懐かしいと思えてしまうのはその姿があまりにも印象に残っていたからだろうか。きっと、大切な思い出があったに違いない。
「綺麗……」
空に手を伸ばすと、風に舞う花びらをひとひら掴まえた。手を開くと、やはりそれはよく知っている薄桃色の花びらで、胸が締め付けられた。
「これはオージュ、ですわ」
哀愁の含んだが声が後ろから聞こえ、ティファニアが振り向くと、アリッサがその美しい二本の樹を目を細め、優しく笑って見つめていた。
驚きましたか? と綻ぶように微笑みながら問われ、ティファニアはこくりと頷いた。まさかこんな光景が広がっているだなんて予想もしなかった。
「―――桜樹、かな?」
「ええ、きっと」
「そうだったらいいのにね」
「はい」
この懐かしさを少しでも留めておきたいと思い、オージュの花を少し頂戴しようと背伸びをした。押し花にして、栞にでもしようと考える。しかし、ティファニアの小さめの身長では足をプルプルさせても届かなかった。代わりにアリッサに頼むと、綺麗なオージュを数輪手折ってくれた。
その花をアリッサから受け取ると、オージュに寄り掛かり、頭上に広がる花を眺めた。
ああ、この美しい花を大切な人と一緒に見られたらどんなに幸せだろうか。
「―――ねえ、今度お花見をしない?」
自然と言葉が出ていた。
なんとなく前世では毎年小さなお花見をしていた気がしたのだ。ティファニアは柔らかく笑みをこぼすと、アリッサからもらった花を手の中で転がした。
「ええ、いいと思いますわ」
「うん。お父様とリアはさすがに呼べないから、私と、シャルと殿下とアリッサで」
心の中でツクヨミも、と付け足した。きっと素敵なお花見になるだろうと、心を躍らせた。
中庭を北側に抜けると、淑女科の生徒の学び舎『花の棟』と文官科の生徒の『筆の棟』があり、南側に抜けると騎士科の生徒の学び舎『剣の棟』があるそうだ。
アリッサの説明を聞きながら、ティファニアは頭の中で地図を描いて覚えようと必死だった。この学園は寮内に侍女がいることは認められているが、基本的には校内で連れ歩くことはできない。道に疎いわけではないが、案内がなければこの大きな学園で迷う気がしたのだ。
「そして本校舎をまっすぐ抜けますと、白百合寮に行きつきます」
アリッサが指さす方向に中庭を抜けると、綺麗な白い建物が見えてきた。
「あれが、白百合寮?」
ティファニアが問うと、アリッサはええ、そうですわと頷いた。
「あちらがお嬢様がこれから住むことになる学生寮です」
真っ白なその建物は太陽に反射し、白さを増していた。
アリッサによるとこの学園には3つの寮があるそうだ。女子寮、男子寮、そして、白百合寮だ。
白百合寮は歴史ある建物で、侯爵家、公爵家、王族のみが利用できる寮だ。
この国には4つの公爵家と12つの侯爵家がある。これらはすべて建国当初から変わらない。伯爵以下の家は叙爵されることはあっても、侯爵公爵家は絶対になかった。『まじない』を持つのが侯爵家以上だということからも分かる通り、この国では侯爵公爵家は隔絶された位なのだ。
「ようこそいらっしゃいました、ティファニア・ウルタリア侯爵令嬢様。そして、お久しぶりです、ルーチェ」
ティファニアが長い馬車の道のりだったからか疲れたため、案内を中断して寮に入ると、少し小太りの小柄な女性が出迎えてくれた。彼女は優しそうな瞳でティファニアたちを見ていた。
「わたくしはマリア、と申します。この白百合寮の寮母をしております。どうぞお見知りおきを」
マリアは丁寧に頭を下げると、案内いたします、とティファニアを奥へ促した。部屋へと向かう道中、マリアはこの寮について説明してくれた。
白百合寮は形が『コ』の字になっている。そして、『コ』の字の両端がそれぞれ女子居住区、男子居住区と別れており、その二つをつなぐ場所は共用の出入り口、食堂やサロンがあるそうだ。
「それにしても、お早いおつきでしたね。ティファニア様が一番乗りですわ」
マリアはうれしそうに笑ってティファニアを見た。
「そうでしたの?」
「ええ。わたくし、毎年新入生が来るのを楽しみにしておりましたから、今年もどんなご令嬢がいらっしゃるのかと楽しみにしておりましたの。こんな可愛らしいご令嬢と一緒にいられるだなんてうれしい限りですわ。ルーチェも鼻高々ですわね?」
マリアが茶化すようにアリッサを見ると、アリッサはにっこりと笑った。
「マリア先生、当り前ですわ。わたくしのお嬢様は世界一、いえ、宇宙一ですものっ!!」
「ふふっ、ルーチェがそういうならば、ティファニア様は素晴らしいのですわね。これからが楽しみですわ」
「もちろんですわっ!!」
鼻高々に語るアリッサはどこか誇らしげだった。
しかし、とティファニアは首をかしげる。
「ねえ、アリッサはマリア先生とお知り合いだったのかしら?」
「あら、ルーチェ、話していなかったのですか?」
何もわからないまま話してしまったわね、とマリアは頬に手を当て、困ったわと眉を下げた。そして、アリッサを少し咎めるように見た。
アリッサはそんなことものともせず、驚かそうと思ったのですよ、とふふっと笑った。
「お嬢様、ここは前にお話ししたレイフィア様と旦那様とわたくしたちがよく使った場所なのです。白百合寮のウルタリアのサロンに旦那様はよく招待してくださったのですわ」
「お父様とお母様が!?」
「ええ。その時にマリア先生はすでに寮母でいらっしゃいましたから顔見知りなのですわ」
そうだったのか、とティファニアは無性にうれしくなった。今度マリアにラティスたちの昔話を聞こうと思う。父と母、そして、アリッサの昔一緒に過ごした場所に今自分がいることが少しくすぐったかった。
そうして話に花を咲かせていると、ティファニアの部屋についた。
ティファニアの部屋は2階の奥から二番目。つまり、侯爵家としては序列二位の部屋だった。この序列は建国当初のもので、今の力関係でいうと、ウルタリア侯爵家は序列五位くらいだ。しかし、この国では建国当初の序列が重んじられることも多い。そのため、学園の寮も建国時の序列が使われている。
「こちらでございます」
マリアが開いた扉をくぐり、中に入ると、そこは比較的簡素な部屋であった。広い空間に大きな窓、そして、テーブル、勉強机、天蓋付きのベッドとクローゼット。部屋は一部屋だけのようで、入り口以外の扉は浴室とお手洗いに通じるものであった。もちろん家具や調度は一級品であるが、応接間や寝室が続きになっている部屋を使っていた人にはいささか狭いだろう。
しかし、ティファニアには十分だった。
「わぁ、いい部屋ですね」
窓の奥にはバルコニーが続いており、そこからはなんと森に映えるオージュが一望できた。
「まぁっ! 森の奥にもオージュが咲いているのね!」
てっきり本校舎の中庭だけだと思っていたため、森を彩る桃色に胸が熱くなった。お花見をしたいと思っていたが、木が二本だけでは少し寂しい気もしたのだ。こんなに沢山あるならば、さぞ楽しいお花見になるだろう。
「気に入っていただけてようございました」
今にもバルコニーへ飛び出しそうなくらい窓にへばりついていたティファニアはふふっと笑う声が聞こえ、ハッとして顔を真っ赤にしながら振り返った。まだマリアが部屋にいたというのに、オージュの美しさについはしゃいでしまった。貴族子女として失格である。こんな姿は家族にしか見せないだけに、恥ずかしくて穴に入りたい気分だ。
「…その、オージュの森が、あるのですね」
まるで孫を見守るようなあたたかな視線に耐え切れなくなり、話題を提供してみたが、それがまたマリアにはほほえましかったようだ。
「ティファニア様は本当に、レイフィア様のようですわ」
「お母様のよう、ですか?」
「ええ、レイフィア様はとても無邪気で明るい方でした。小さなことではしゃいでよくラティス様やアルベルト様、イェレミアス様を困らせていたのですわ。もちろん、ルーチェもですけれどね」
「マリア先生っ!!」
アリッサが慌ててマリアの言葉を遮るように前に出た。そんな昔のこと、もう忘れてくださいと言う表情が幼くて、つい驚いてしまう。しかし、忘れてほしい過去とは何をしたのだろうか。
「うふふっ、昔のアリッサがどんな様子だったかとても気になるわ」
「お、お嬢さま!?」
「あら、大好きなお嬢さまが聞きたいそうですよ。これは話さないわけにはいきませんね」
「ま、マリア先生!?」
少し揶揄うような口調だと分かってはいるが、アリッサはあたふたしながらマリアを止める。まさか自分の過去を聞かれるのがこんなに恥ずかしいだなんて思いもよらなかった。学生時代にはっちゃけた記憶があるだけに、ティファニアには知られたくない。お嬢さまの前では格好の付くままでいたいのだ。
「まぁ、ルーチェったら、そんなに慌ててしまって……。今は話しませんわ」
「もーっ、マリア先生、揶揄わないでくださいませっ!」
少し涙目になりながらアリッサはホッとした。
そして、それを見計らったようにマリアはティファニアに言った。
「では、今ではなくまたの機会にでもお話いたしますね」
「マリア先生っ!?」
アリッサの驚きの声を聴くと、マリアは優しそうにふふふと笑い、ティファニアに入学式までの予定を伝え、今日は休んでくださいと部屋を後にした。
マリアが出ていくと、アリッサはティファニアに追及されないようにか紅茶を用意しに、厨房へ向かった。その顔がまた見たことのないもので、新しい発見にくすりと笑ってしまう。
「まさか、アリッサがあんなに慌てるなんてね」
ティファニアは一人になった部屋で柔らかいソファに腰を落ち着ける。すると自然とふぅと息が漏れてしまい、少し肩に力が入っていたことが分かった。
ティファニアはバルコニーへの窓を開けると、オージュを眺め、そして空を見上げる。
「ねえ、ツクヨミ」
「ん? どうかした、ティア?」
いつものように返事が返ってきて、なぜかほっとした。
「もう来てる?」
誰が、とは言わない。
「いいや。まだだね」
「そっか」
ああ、とツクヨミの低すぎない心地の良い声が身体に響いて、よかった、と表情を崩す。
ティファニアはもう一息つくと、バルコニーの手すりに肘をついて小さく寄りかかった。そして、奥に見えるオージュを眺める。それは正しく森という表現が正しいくらいの本数のオージュがあり、咲き乱れるという表現がとても合うくらい森を桜色に彩っていた。
「やっぱり、綺麗……」
「そう?」
「うん」
「俺はティアのほうが綺麗だと思うけど?」
ツクヨミはさらりと褒め言葉を言ってのけ、空に浮かんでいた身体をティファニアに預けるように寄りかかって後ろから抱きしめた。
ティファニアは少し顔を赤く染めつつ口をとがらせる。
「ありがとう。でも、分野が違うでしょ…? それにバルコニーだから危ないよ」
ラティスやアリッサ屋敷の使用人達が毎日のように褒めるので賛辞も聞き慣れたものだが、それでも嬉しいし、少し照れくさい。ティファニアは顔の色を悟られないように少しうつむき、責めるような口調でツクヨミを叱る。
しかし、ツクヨミはあっけらかんとしていた。
「大丈夫。落ちても俺が守ってあげるから」
「もーっ……」
口では怒っていても、ティファニアがツクヨミの手を振りほどくことはなかった。それを知っていてツクヨミはますますティファニアが愛おしい。ぎゅーっと抱きしめる力を強くする。
ティファニアはうふふっと少しうれしそうに笑った。しかし、突然何かを見つけ、本校舎がある方向を指さした。
「ツ、ツクヨミ……」
「なあに、俺のティア?」
「あれ……」
ツクヨミはなにかに至福の時を遮られたことに少しむっとしながら顔を上げた。そして、ティファニアの指さすほうを見る。すると、そこには見覚えのある青年がいた。
「あれって…?」
ティファニアの顔は心なしか青ざめていた。その指の先には黒い靄があったからだ。
その黒い靄には見覚えがあった。確か、前にお茶会に参加した時に見かけたものだ。見るだけで肌を逆なでするような悪寒を覚え、触れると気分を悪くするそれだ。
あれは―――……
「ウルリヒ様……?」
ティファニアの声が小さく漏れると、聞こえようのないはずのウルリヒがこちらを向いた、気がした。
ティファニアは悪寒を感じ、咄嗟にしゃがみ込む。バルコニーの手すりから下はしたからだと見えないはずなのだ。今はとにかくウルリヒの視界から外れたかった。妙に心臓がうるさかった。
「ティア、行ったよ」
どれくらい待ったのかわからないが、長い時、そこにいた気がした。ティファニアはツクヨミの言葉を聞いて胸をなでおろした。
そして、そのままつたない足取りで中に入ると、ベッドに向かい、ティファニアは埋まるようにふわふわした布団に身を預けた。先ほどの寒気を思い出して、ぎゅっと目をつむる。
(なんなんだろう、あの靄は……?)
そう考えるうちにティファニアの意識は眠りの中に沈んでいった。




