33 わがままなわたしと優しいシャルル
「あれ? ティー、体調悪いの…?」
シャルルに指摘され、ティファニアは苦い顔をした。
「……そんなに、わかりやすかったかな…?」
ふうっと息を吐いて、目を伏せた。シャルルに誤魔化しはきかない。
「ううん。ティーは隠すのが上手いから、気づく人はほとんどいないと思うよ」
ティファニアたちがウルタリア侯爵領から王都へ戻ってきて、早一か月半。ラティスは外交官の仕事に戻り、ティファニアとティリアも日常に戻っていた。
10日前、ラティスが西にある国への出張が決まった。出張自体はよくあることだったが、今回はなぜかアリッサが同行することになった。理由を詳しくは知らないが、どうしてもアリッサがいかなければならなかったらしい。そのため、今、ティファニアにメイドとしてついているのはアリッサではない。
自分のことは隠してしまうティファニアが体調が悪くなっても、気づける者はいないのだ。
シャルルはティファニアを手招きすると、自分の隣に座らせた。近くで見ると、うっすらと目元に隈ができているのがわかる。態度で体調が悪くなったことを隠せても、流石に身体に出る反応は隠せない。
自分に体重をかけられるように後ろから手を回し、目元に当てた。
ティファニアの視界は、最近剣を習い始めたせいで皮が少し厚くなっている手で覆われた。寝不足を隠すために頑張って無理やり開いていた眼は恨めしいほどすんなり閉じてしまい、シャルルの作った心地よい暗闇に身を任せるしかなかった。
目元から伝わってくる熱が心を落ち着かせ、眠気を誘う。
「どうしたの? また、婚約の話のせい?」
シャルルが優しい声音で尋ねると、眠そうに、んー、とだけ返事があった。
「やっぱり最近多いんだね。お父様も噂を聞いたって言ってたし」
「んー…、領内で派手に動いたからだと思う。広まるのも時間の問題だったよ。でも、この髪と生い立ちのせいでそんなに多くないから。お父様とアリッサが対応してくれてるし、大丈夫だよ」
だから、心配しないで、とティファニアは言うが、問題はそこではない。
「じゃあ、その二人がいないから、こんなに疲れてるの…?」
シャルルの中での一番の疑問はティファニアの体調がなぜここまで悪いのか、だ。
少し強い口調で聞くと同時に肩を引き、ティファニアの頭をぽすっと自分の膝の上に乗せた。目はまだ手でふさいだままだ。
「お父様たちは出張だから、しょうがないよ」
「だから、ティーが対応してるの…?」
ティファニアはその問いには答えなかった。
そもそも、ティファニアの体調が悪いのは婚約話のせいではない。確かに、領内視察後、婚約の打診がちらほらと出てきたが、そうではない。あの声のせいだ。あの声のせいで意識を失ってしまうが、あの声を聴きたいがために、眠れないのだ。しかし、シャルルには言うつもりはない。隠しきっている自信はないが、それでも、絶対に悟られたくないのだ。
ならば、嘘をつくことになっても誤魔化しとしてこの話が原因であることにしたい。婚約話について頭を悩ませていたのは事実でもあるからだ。
シャルルはもう片方の手で口を閉ざしたティファニアの柔らかい髪を優しく梳いた。
「……ねぇ、ティー、僕たちで婚約しない? お互い打診避けになるでしょ? ウルタリア侯爵家は後継ぎとしてティリアもいるんだから、そのまま結婚しても構わないし、嫌になったら解消すればいい。僕らの家格は釣り合っていて問題ない。……だからさ、どうかな…?」
僕は君のこと――…、そう言いかけて、口を噤んだ。
実はこの話は前にもあった。そのときはアルベルトが提案していたのを、ラティスが怒って一蹴したのだ。
シャルルは自分の手の下で、ティファニアがきつく目を結ぶのを感じた。そして、傷一つない綺麗な白い手が自分の手に添えられる。
「シャル、私が婚約話を断る理由を、全部知ってる?」
「うん。たぶん、全部」
婚約して多くのしがらみができること。自分はまだそういうのが早い年齢だと思っていること。今でも十分幸せなこと。ラティスの元を離れたくないこと。そして―――…。
ティファニアはぎゅっと拳を握った。その拳は少し震えていた。
「そっ、か。……じゃあ、私のわがままでってわかってるでしょ? そんなことにシャルを巻き込みたくないよ。それに、利用するみたいなのもイヤ。シャルが私のせいで悲しむのはもっとイヤ」
「……ティーのわがままに巻き込まれるのは今更な気がするけど、でも、その様子じゃあ、……絶対に頷かない、ね」
シャルルは少し寂しげに呟いた。
その声にティファニアは申し訳なくなる。
「……ごめんね、シャル。わたし、シャルのこと―――。……いや、それにね、わたし、シャルとこんな風に会えなくなるのも嫌なの。だってさ、婚約すると、婚前の男女を二人っきりにさせられないとか言われちゃうんだよ」
それは婚約していなくとも、むしろ、そのほうが言われることなのに、とシャルルは少しずれているティファニアにクスリと笑った。
「だからさ、今のままでいようよ」
今のままで。
懇願するように聞こえたのは気のせいであろうか。
ティファニアは口をキュッと結ぶと、もぞもぞと動いて体勢を変えた。シャルルの腰に手を回して、ソファに寝そべりながら抱き着くように身体を寄せた。
そして、頭をお腹にぐりぐりと押し付ける。
「んー、うふふ、……シャルのおなか、やわらかーい」
体調不良で寝不足であったうえに、先ほどの会話で気が滅入ってしまったティファニアは急に誰かに甘えたくなった。特に最近はラティスの出張の影響でスキンシップも少なかった。
ティファニアが甘えられるのはラティス、アリッサ、そして、シャルルだけであるため、一気に箍が外れてしまったのだ。
「うーん、ティー、相当参ってるでしょ? 一旦ベッドに入ったら?」
「そんなことないよー。至って通常運転だってー。シャルがお客さんとしているんだし、だいじょーぶ」
「そう?」
「うん、そうそう」
「ティー、どれくらいちゃんと寝てないの…?」
「うーん、どれくらいだろぉ。うふふ、7日くらーい?」
意識が浅いところにあるのか、ふわふわとした答えしか出さないティファニアにシャルルははぁっと小さくため息を零した。なぜ、そんなに寝ていないのか、と。
「ティー、寝れないの?」
「んー……。そんなことはないよ。ただ、寝たくないだけ」
「なんで? 夢見が悪いとか?」
「うーん、…そんなところー」
「ふーん、…そう?」
「うん」
「そっか」
勝手にうんうんと納得するシャルルの膝の上で、ティファニアは猛烈な眠気を感じた。先ほどからある、シャルルのお腹枕と安心感のおかげでもう瞼が重くて仕方がないのだ。
「ティー、大丈夫だよ。今なら僕もいるから」
「……う、ん…」
その返事を最後に、ティファニアは夢の世界へ誘われてしまった。
シャルルは魂が抜け落ちたように静かに眠るティファニアの唇をつーっと人差し指で辿る。桃色のぷっくりとしたそれは柔らかくて、温かくて、甘そうだった。
彼女の知らないうちに自分のものにしてしまおう、と魔がさす。
そうすれば、ティファニアは…、
顔を近づけて、その唇と唇が触れ合う直前―――……
『今のままでいようよ』
あの言葉が頭の中で響いた。
……ああ、やはり、あれは懇願していた。ティファニアは自分の気持ちを知っていて、あんな風に言ったのだ。
ははっ、と乾いた笑みがこぼれた。
「ごめん、ティー。……ごめん」
目の奥が熱くなったことを誤魔化すようにきゅっと目をきつく結んだ。そして、額にかかる前髪をそっと払いのける。
チュッと音を立てて少しだけ触れるように唇を落とした。
これが最後だ、と思って。
シャルルはまた、艶のある髪を優しく、優しく梳いた。
「ティー、愛してるよ。僕らは………家族だ」
ガチャリと扉が開かれる音がして、シャルルはティファニアを起こさないようにそちらを振り向いた。
そこには兄のように慕ってくれるティファニアの弟が苦笑いしながら佇んでいた。
「シャル兄様、お姉さまは寝た?」
「……ああ。さっきやっと」
「そっ、か」
良かった、とほっとするティリアにシャルルはぽんぽんと頭を軽くたたいた。
「よく気付いたね」
「あー、うん。まあ、ね。お姉さま、かえってくる前から少しずつ、つかれてたみたい。それでも、気づいたのは2日前だけどね」
「だから、急に呼んだんだね?」
「……うん。お姉さまは、ぼくには、ぜったいに、言ってくれないから」
「うん。…そうだろうね」
ティファニアは絶対に弱みを見せない。特に、弟であるティリアには。
だから、2日前に自分でもわかるくらい疲弊している姉を見て、ティリアはシャルルに頼ることにしたのだ。悲しいことに姉は全く自分を頼ってくれないから。悔しいことにシャルルにはそういった面を晒け出せるようだから。
「お姉さまは、なんで……!」
「…ん?」
「いや、なんでもない、です」
ティリアは拳をぎゅっときつく結ぶと、何もできない自分に歯噛みした。
次回は久しぶりに新しい攻略対象キャラの登場です。
そこから、過去編が一気に片が付く……予定、です。




