32 わたしとお義母さま
まとまってるといいんですけど…。
「ああ、楽しかったぁ!」
ティファニアは夕食後、嬉しそうにベッドに飛び込んだ。
今日はティリア念願の海に行ってきたのだ。前世の知識として海がどんなものかは知っていたが、実際に見ると圧巻だった。
寄せては返す波。潮の香り。水平線に沈む真っ赤な太陽。
すべてが初めて見るもので、ティファニアは感動の連続だった。
ごろりとベッドの上に仰向けになると、軽く目を閉じて、明日は王都に帰る日、と頭の中で何度も唱えた。
そして、隣で最後の荷詰めをしているアリッサを横目で見る。
「ねえ、アリッサ。明日って、朝早くには出発するんだよね?」
「ええ、そうですわ」
手を止めてアリッサが答えると、ティファニアはベッドからぴょんと降りた。
「じゃあ、ちょっとだけここの薔薇園を見てくる。当分見れなくなるからね」
かしこまりました、とアリッサが後ろに控えようとすると、ティファニアはそれを手を引いて止めた。
「アリッサ、いいの。一人で行ってくるから。まだ明日の用意が全部終わってないでしょ?」
「…!? しかし!」
「だーいじょうぶ! 少し見てから帰ってくるだけだから! ねっ?」
上目遣いでそうお願いすると、アリッサは渋々頷いた。
「じゃあ、行ってくるね」
ティファニアが手を振って部屋を立ち去ると、向かったのは北の薔薇園だ。先日見かけた赤い薔薇の大輪が美しかったので、また見たいと思っていたのだ。
しかし、その前に、とティファニアは北の薔薇園のほうではなく、別の方向へと足を向けた。
重厚感のある扉の前に立つと、それは見覚えのあるもので、少しだけノックを躊躇わせた。
しかし、意を決してコンコンコンと扉を叩いた。
「はい。こんな時間にどちら様ですか?」
「ティファニアよ。少し、話がしたいの。通してちょうだい」
中からした声に返事をすると、扉の向こうでメイドが驚いたのが分かった。
「お、お嬢様! ここは…!」
「ううん。知ってるの。だから会いたいの。今日で最後だから。……それに、今じゃないとお父様は許してくれないと思うから」
自分の言葉を遮り、お願い、と懇願するティファニアにメイドは混乱した。屋敷の中ではティファニアが彼女に何をされたのか知らない者はいないのだ。
しかし、会いたい、と言う。
それにどう対応すべきか自分が古参であり、長くこの屋敷に仕えていたとしてもわからなかったのだ。
「お嬢さま、お願いいたします。今日はもう夜遅いですわ。せめて、…せめて、旦那様の許可をいただいてからにしてくださいませ…!」
「ごめんなさい。それはしたくないの」
ティファニアはだから、ごめんなさい、ともう一度謝ると、目を伏せた。
「……これは、命令、です。ここを開けなさい」
ひゅっと息をのむ音がした後、扉はゆっくり開かれた。
そこには中年の女性が辛そうに眉を下げて立っていた。
「お嬢様……」
「ごめんなさい。でも、あの方もいいと言ったのでしょう?」
「ですが…! また、あのようなことが起きたら…!」
自分を心配するメイドにティファニアは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ。そんなことにはなり得ないから」
そして、部屋の主のもとへ向かう。
彼女がいるのは寝室。
もしかしたら、あの時のことを思い出して、少しでも顔を歪めるところが見れたらとでも思ったのだろうか。そんなことしても、もう、虚しいだけだとわかっているだろうに。
扉を開いて、中に入る。メイドには無理やり下がってもらい、彼女と向き合った。
「お久しぶりです。アドリエンヌ様」
綺麗にお辞儀をすると、アドリエンヌは聞けぬ口を動かすのではなく、眉を少し寄せ、きつく睨むことで返事をした。
彼女は黒のシンプルなドレスを着て、ベッドに腰を掛けていた。あの頃は真っ赤なドレスばかり見ていたため、少し違和感があった。それに、化粧も夜だからか薄くしかしておらず、派手さは全くなかった。
「お元気にしていましたか? もっと前にこちらに来ていたのですが、挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
社交辞令をつらつらと並べたが、アドリエンヌは眉間の皺を深くするだけで、何もしなかった。ただ、その金の瞳だけは、何をしに来たの?、とティファニアを責めていた。
ふうっと息を軽く吐いて、彼女をじっと見つめる。
「……アドリエンヌ様、わたしが、わたしと母が、憎い、ですか?」
アドリエンヌは眉をピクリと動かしただけで、顔色一つ変えなかった。
「……それとも、お父様が、憎い、ですか? こんな状況になっても助けてくれないティリアが、憎い、ですか?」
アドリエンヌが自分を止められないのをいいことに、ティファニアは言葉を続けた。
「…でも、それって、とても、……とっても虚しい、でしょう…?」
そう、憎むことは虚しい、と思う。
だって、憎しみは憎しみしか生まないから。
憎しみから望んだ愛は返ってこないから。
「…あの日、わたしは、貴女の言っていることがとても馬鹿馬鹿しく、そして、哀れ、に感じました」
だって、あの子も、ティファニアも哀れ、だったから。
「自分のことしか考えていない、くだらない独りよがりの愛、だと。……でも、違いました。だって、……返されない愛ほど辛いものはないから」
じっと見つめあっていた金と紫の瞳はその時、初めて反らされた。
「ねえ、アドリエンヌ様、わたしは、ある少女を知っているんです。……彼女は、愛されたくて、愛されたくて、誰よりも愛に飢えていたのに、でも、愛する方法も、愛にこたえる方法も分からなくて、教えてくれる人も近くにいなくて、そして、最後には間違った愛のせいでいなくなってしまいました」
分からないことも、教えてくれる人がいなかったこともあの子の不幸だ。そして、この人の、アドリエンヌの不幸でもある。
おそらく、アドリエンヌもそうだったのだろう。
「彼女は愛そうとしました。彼女は愛されようとしました。彼女は愛にこたえようとしました。でも、どれもやり方を知らなくて、結局、自分のことしか考えていない間違った愛し方しかできなかったんです」
ティファニアはしゃがみ、そして、俯いたままのアドリエンヌの顔を覗いた。部屋が薄暗くて、感情は見えないけれど、その瞳はこちらを睨んでいる気がした。
「アドリエンヌ様、貴女は確かにお父様を愛していた、と思います。……でも、貴女は愛し方を知らなかったせいで、間違った愛をお父様にぶつけてしまいました。だから、お父様は貴女に愛を返せなかった」
この人は知らなかったが故に、教えてくれる人がいなかったが故に、子供のように愛するという感情を持て余すことしかできなかったのだ。
「だから、こうなった時、貴女の愛し方が否定されてしまった時、貴女は相手を憎むことでしか愛をどう処理していいか分からなくなったんです。……でも、それは、虚しかったでしょう…?」
虚しいはずだ。虚しくないはずがない。
だって、ティリアから、憎しみが返ってこなかったから。
憎んだはずなのに、望んだ愛が返ってきてしまったから。
「ティリアから聞きました。貴女が前のように接してくれなくて寂しい、と。ティリアは言っていました。大好きな母に戻ってほしい、と。……もちろん環境が変わってしまいました。前のように戻るとはいかないでしょう。でも、やっぱり、返されない愛は辛いんです。……ティリアを愛してあげてください」
ううっ、と言う嗚咽が零れ、アドリエンヌは顔を両手で覆うと、肩を震わせて静かに泣いた。
「わたしは貴女が屋敷にいたころ、烏滸がましいことですが、貴女を救いたい、と思いました。わたしは後悔しないために、彼女のような貴女を救えれば、と思っていました。でも、無理でした。その時のわたしが貴女を救うには、幼くて、不器用で、そして、わたし自身も愛にまだ飢えていたから。でも、今は違うと思います」
アドリエンヌの膝に手を置き、下から覗くように顔を見た。まだ手を覆っていて、表情は伺えないけど、少しでもこの思いが伝わればいい、と思って、にかっと笑う。
「だって、わたし、あの時はそうじゃなかったけれど、今はアドリエンヌ様のことが好きなんですもの」
アドリエンヌの目が大きく見開かれ、少し腫れぼったい目から金色の瞳がのぞかせた。そして、ありえない、と口が動いたのが分かった。
それもそうだろう。ティファニアは一歩間違えれば、一生心にも身体にも傷が残るような仕打ちをされたのだ。なのに、なぜ。そう思ってアドリエンヌは自分を見上げるティファニアを険しい顔で見つめた。
「最初は家族だからって理由でした。でも、愛したり、好きになったりする理由ってそんなものでいいのかなって思います。それに、…ティリアに聞きました。アドリエンヌ様は恋愛小説がお好きだってこと。わたしも本が好きなので、おすすめを教えてください! それから、酸っぱい食べ物がお好きで、紅茶にはいつもレモンを入れるんですよね? この間、レモンティーに合うお菓子を作ったので、ぜひ召し上がってみてください! あとは、刺繍がとてもお上手で、ティリアの子供服はアドリエンヌ様が全て刺繍していたと聞きました。わたしは刺繍は得意ではないので、今度教えてください! わたし、アドリエンヌ様のことをいっぱい聞きました。それで、もっと貴女を好きになりました」
楽しそうに語ると、外から足音がした。
ああ、そろそろかな。そう思って、ティファニアは少しだけアドリエンヌと距離を置く。
「ねえ、アドリエンヌ様、時は残酷で、戻すことができません。でも、いつも進んでいるんです。だから、アドリエンヌ様も進みませんか? 貴女は愛すことが恐くなって、憎むことにしてしまったけど、また愛してみませんか? 一歩が恐いだけで、あとはティリアとわたしもいますから、一緒です。貴女はまだわたしたちが憎いかもしれないけれど、お父様はまだ貴女を好きになれないかもしれないけど、でも、わたしたちは進むことができると思います! それに――……」
そう、続けようとして、バンッと扉が強く開かれた音に遮られた。
そこには寝間着姿の弟が息を切らしていた。
「お、おねえさま!!」
「あら? リア、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ!! その、大丈夫なの…?」
けろりとしている姉に、ティリアはほっと胸をなでおろした。もしかしたら、あの時のことを思い出してしまうのではないかとビクビクしていたのだ。
あの、血に濡れた光景は今でも鮮明に思い浮かべることができた。
あんなことがもう起こることはない、と分かっていても、ティファニアがここに来たと知ったときに居ても立っても居られなかったのだ。
「うん。大丈夫よ。それよりも、リアは挨拶はしたの?」
「う、うん。……したよ」
「それは昨日のことでしょ? じゃあ、最後にまた、お別れしておいたほうがいいよ。また、当分会えなくなっちゃうから。…ねっ?」
「う、うん。分かった」
ティファニアはアドリエンヌのほうへティリアの背中を押した。そして、優しく微笑んだ。
「それに、家族だから、もっと仲良くなりたいんです。じゃあ、お休みなさいませ、お義母様!」
手を振って、すぐに部屋を後にした。
最後に横目で見えたアドリエンヌの顔はやっぱり睨んでいたけれど、最初よりはずっと和らいでくれている気がした。
ちょっとずつ、ちょっとずつでいいのだ。
ちょっとずつだけでも、アドリエンヌの心に愛が伝わったなら、それでいい。
アドリエンヌの部屋に行ったのはティリアのためでもありますが、自分のためでもあります。
ティファニアはゲームの中のティファニアを自分がなり得た、もう一人の自分と思っています。
これでウルタリア侯爵領編は終わりです。
あと、夏が思ったより多忙になってしまったので、週2更新に戻します。
蛇足。
ラティス、拗ねる 番外編
「ううっ、なんで、ティーは私にいってくれなかったんだい?」
「お、お父様、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。でも、私がティーのために駆けつけたかったな…」
「お父様、リアに嫉妬しても意味ないよ」
「それは、そうだけど…」
「リアがかっこよかったよ。でも、お父様のほうがかっこよかったから!」
「ほ、本当かい?」
「うん! それに、お父様、『まじない』をわざと一方通行にしてくれたでしょ?」
「……気づいていたのかい?」
「うん。だから、わたしからだったら接触できるってわかってたの。…ありがとう」
「いや、いいんだ。ティーが満足いったなら」
「うん。やっぱりお父様はわたしの一番だね!!」
「ティーっ!!」
このあとめちゃくちゃぎゅっぎゅした。
ていうか、あんまり拗ねてないw
『まじない』はアドリエンヌからの接触はできないけど、ティファニアからはできる仕様です。




