31 孤児院と町のはずれ
2日に一回だなんて、ただの願望だった……
小学校の体験入学は名残惜しくも終わり、ティファニアが王都に帰る日も迫ってきた。
ウルタリア侯爵領に来てからは、ティファニアは領府に足を運んだり、体験入学をしたりと忙しく、ラティスも領主としてばたばたとした日々を送っていた。
ティファニアは昨夜、また、あの懐かしい声を聴いた。胸が締め付けられるようなあの声を。朝、ベッドの上で目覚めると、あの声を聞いたときにいつも起こる眩暈のせいでいつのまにか寝てしまったことが分かった。体調は悪くないが、胸がじりじりと焼けるように苦しかった。なのに、胸の奥はぽかんと何もないような虚無感もあふれていた。
ティファニアは拳を強く握って、胸に当てる。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせるように。
そして、ふーっと深く息を吐くとベッドから起き上がった。
支度を終え、食堂に行き、嬉しそうなティリアの顔を見ると、胸の奥が少しずつ満たされていくようだった。
最近は忙しかったので、朝食を一緒にとれないことも何度かあった。そのせいか、ティリアは何をするにもティファニアがいると喜んでくれるのだ。ティファニアは申し訳なくなり、今日は屋敷でおとなしくしていようと思った矢先だった。
「お嬢様、これからお時間ありますでしょうか?」
ティファニアはジークから声をかけられた。ジークは普段から表情が変わらない顔だが、今も表情の奥は読めない。
「特に用はなかったから、時間はあるわ。どうしたの?」
ティファニアがこてんと首を傾げると、ジークは少しだけ眉を下げた。
「突然申し訳ありません。しかし、私がお嬢様を連れていくように、と旦那様に頼まれたのです」
「どこにいくの?」
「それは、着いてからのお楽しみでございます。お嬢様が行きたいとおっしゃっていたところですよ。ティリア様もご興味がありましたら、ぜひ」
ジークが表情を少しだけ和らげる。
すると、耳聡くティファニアたちの会話を聞いていたティリアは嬉しそうにティファニアを見た。
「お姉さま! ぼくもお姉さまが行きたかったところ、行きたい!!」
お願い、と目で訴えるティリアにティファニアは曖昧に頷くしかなかった。
「………わかった。お父様がリアが行くことを良しとしたなら、わたしがダメっていうことは出来ないからね。それに、久しぶりにリアと出かけられるのは嬉しいよ」
ティファニアが口元をほぐすように柔らかく笑うと、ティリアは嬉しそうに準備をしてきますと部屋に駆け戻った。
そんなティリアの背中を見送ると、ティファニアはジークを少しだけ眉を寄せて見上げた。
「ジーク、本当にリアを連れて行ってもいいのかしら?」
「ええ、お嬢様。旦那様はほかの子と会うのもティリア様のいい勉強になるだろうとおっしゃっていました」
ティファニアは、そう、と短く言うと、顔を伏せた。
ぱたぱたと足音が聞こえ、ティファニアが顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた弟がいた。茶色いふわふわとした髪を後ろで短く三つ編みにしているのは、ティファニアがシャルルに長い髪のほうが好きだと言ったからだった。それ以来、二人とも髪を伸ばしている。
ティリアはティファニアのもとへ駆け寄ると、手を繋いだ。
「お姉さま、いこう!!」
「うん、行こうか」
ティファニアはにっこりと笑うと、ティリアの手をきゅっと握り、馬車に乗り込んだ。
ティファニアたちがついた先は、予想通り孤児院だった。
孤児院は領都の南側にあり、中心街からは少し外れた場所に位置する。そしてそこは、ウルタリア侯爵領の貧民街からそう離れていない場所だった。
ティファニアは院長と思われる男性に迎えられると、すぐに子供たちが遊んでいる場所に通された。今日は学校があるため、そこにいるのはティリアとそう変わらない子供たちばかりだった。彼らはジークを見ると、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ジーク様!! ひさしぶり!!」
「ジーク様、あそぼうよ!!」
「ジーク様、ほんよんでぇ!」
「ジーク様、そのこたちはだあれ?」
ジークは子供たちに囲まれると、今まで見たことないような優しい笑みを浮かべていた。
「みなさん、お久しぶりです。元気にしていましたか?」
「はい!! ジーク様、今日はどうしたの?」
「今日はお仕事でここに来たのですよ。すみませんが、遊ぶのはまたあとにしましょう」
えー、そうだったの? と不満そうに口を膨らます子供たちをなだめると、ジークはティリアの背中を軽く押した。
「その代わりに、彼を仲間に入れてあげてください。私はお仕事をその間に終わらせてきますので」
背中を押され、急に子供たちの前に出されたティリアはくりくりとした目を見張った。そして、ばっと勢いよく大好きな姉のほうを見た。
「お、お姉さま、ぼく……」
「リア、なるべく早く帰ってくるよ。ジークと少し話してくるだけだから。ちょっとみんなで遊んでおいで」
「でもっ―――…」
お姉さまと遊びたいのに、と言いかけて、ティリアはその言葉をごくりと飲み込んだ。ティファニアが自分を見ている瞳が、拒否、を表している気がしたからだ。
2度目の姉からの拒否。
あの時はティファニアは俯いて、ティリアの顔を見ないようにしていた。
しかし今回は、笑っていた。そう、あの時、屋敷で部屋から戻ってきたときから、馬車の中に至るまでティファニアは辛いことを隠すようににっこりと笑っていた。
ジークとこれから行く場所に関係があることはわかるが、はっきりとした理由がわからなくて、自分にはまた言ってくれないのかと思って、涙が込み上げてくる。しかし、ティリアは今表情を崩せば、ティファニアに心配をかけてしまうと思い、ぐっと堪えた。
「……わかった。頑張ってね」
ティリアはにこりと笑うと、姉の背中を見送った。
ティファニアはジークに案内され、孤児院にある鐘楼へと向かった。
1時間ごとに正確にならされるその鐘は、領都には4つ存在し、領都に暮らす人の時計代わりになっている。
ティファニアは階段をのぼり、一番上の階につくと、天井に空いた穴からぶら下がる頑丈そうな綱を見た。それをたどって上を見上げると、そこには青銅の鐘が釣り下がっていた。その内側には何かがびっしりと書き込まれており、心なしか淡く光って見えた。
「ねえ、ジーク、この鐘の中、光ってない?」
ティファニアが首を傾げると、ジークは上を見上げた。そして、じっと見てからティファニアに言う。
「いいえ。中は真っ暗ですよ」
その答えに驚いたが、そう、と言って、気を紛らわすために窓から見える外を見た。
高いところから見る領都ウルタリアは綺麗だった。立ち並ぶレンガや石で作られた家々。遠くに見える活気のある市場。そして、町から地平線へと続く長い長い綺麗に整備された街道。
「どうですか?」
そう、問われたが、ただただ、綺麗だ、としか返せなかった。
「では、こちらをご覧になってください」
ジークの指さすほうを見ると、そこは先ほど見ていた窓とは反対側に位置する景色だった。
そこからは、廃墟の跡や簡易的なレンガの家が並ぶ景色が見えた。
「どうですか?」
先ほどと同じ問いがふってきた。ティファニアは一瞬目を細め、そして、目に焼き付けるようにその景色から視線を外さなかった。
「見覚えがある、わ。…ここよりもずっと、ずっと、汚かったけれど」
「ええ、もともとあそこほど廃れた場所ではありませんでしたからね」
「……うん、あそこは世界の果て、みたいだから」
「でも、私が住んでいたころはもっと、今よりもずっと、汚い場所でした」
「……うん」
「汚くて、臭くて、みんな死んだような目で生きていました」
「……うん、そうだよね」
「毎日が空腹の地獄で、何日も食べないことは当たり前のことです。領主様主催の炊き出しも年に数回しかなく、そんなものでは生き繋いでいくことはできませんでした。誰の助けもなく、ただただ日々を必死に生きていました」
「……うん」
「しかし、私はライトリア様に拾われました。理由は旦那様の話し相手に、ということでしたが、ライトリア様は道端に飢えと暴力で倒れていた私に手を差し伸べてくださいました」
「……そっか、伯母さまが」
「はい。それから私の人生は一変しました。今まで来たことのないような綺麗な服が渡され、朝昼晩の食事があり、旦那様の命で、将来は傍で使えるために勉強をするようになりました。そして、その頃でした。私がお嬢様と同じように貧民街をなくしたい、と思ったのは」
「……ジークも、だったんだね」
「私は猛勉強し、結果、旦那様の部下として働くことができるようになりました。そして、旦那様のお父様が亡くなられたあと、旦那様が領主になられてからは領内が潤うようにと試行錯誤を重ねました。しかし、どれも大々的な効果はありませんでした。そこで、私は外交官の旦那様について周辺諸国を回り、様々な国の法や自治の仕方を研究いたしました。そして、それを領内で試しましたが、やはり、大きな効果を得ることはできませんでした」
「……」
「しかし、この1年でこの領内は劇的に変わりました。道を整備しただけで尋ねる商人が増え、領府が雇った清掃員のお陰で町は綺麗に保たれ、警備隊を結成することで治安はよくなり、領府に職の斡旋機関を作ることで就業率は跳ね上がりました。職に就くものが増えたおかげで、食料や日用品などを買うようになり、領内に回るお金が増えました。子供たちは無料で学校に通えることで将来の選択肢は広がっています。そして、学校の給食のお陰で飢えに困る子供はいなくなりました。……全て、この1年と少しのことです。これからは改革案が最終段階に進むにつれ、もっと良くなっていくでしょう」
ティファニアは景色を眺める目を動かさずに、うん、みんなのお陰だね、ありがとう、と呟いた。
「……いえ、お嬢様、これはお嬢様のお陰です」
「ううん、わたしは何もやっていない。頑張ったのはみんな。わたしは机の前で数字を眺めてただけ、だよ」
「いいえ、……確かに領内で実際に頑張ったのはお嬢様ではありませんでした。そこに住む人や領府の領官たちです」
しかし、とジークはまっすぐとティファニアを見つめた。
ティファニアはその真剣な声に視線をジークに移す。すると、ジークの表情は優しく笑っていた。
「しかし、最初に手を差し伸べ、救い上げてくださったのはお嬢様です。旦那様でも私でもありません。他でもないティファニアお嬢様です」
「……わたしは、わたしは、彼らを手を差し伸べて助けられたのかな…? 救え、…たの、かな?」
「ええ、自信をもっていいことです。胸を張ってください。貴女様は彼らを、救えました。誰も助けられなかった彼らにめいいっぱい手を伸ばしてくれました。孤児院の彼らもそのおかげで助かりました。まだ生活水準は低いですが、あの、貧民街と呼ばれた場所はもうないに等しいです」
ああ、わたしは彼らにとってのラティス―――手を差し伸べてくれる人になれたのか。
「そっか、そっかぁ……、よかった。本当によかったよ。わたしはちゃんと助けられたんだ…。わたしはちゃんと手を伸ばせたんだ…。わたしはちゃんと、救えたんだ……。――もう、わたしみたいな思いをする子はこの領にはいないんだね。……ああ、よかったぁ…。よかった……」
涙が込み上げてきて、ティファニアの不安だった感情を洗うように流れていった。
いつの間にか、ティファニアの口元はジークと同じように優しく笑っていた。
しかし、その涙はなかなか止まらず、嬉しそうに景色を眺めるティファニアの頬を何度も伝っていった。
「ねえ、ジーク、この景色、どうかしら?」
涙が止まり、ティリアの元へ戻ろうとしたとき、ティファニアはふと無表情に戻ったジークに自分が聞かれた問いを同じく返してみた。
すると、ジークはふっと表情を緩め、外を眺めた。
「とても、……とても、綺麗ですね」
その答えにティファニアは嬉しそうにうふふと笑った。
「うん。わたしもそう思うわ」
ティファニアがティリアを拒否したのは、スラム関係は全く見せたくないからです。
これで、またこじれていっちゃうこの姉弟。
自分が相手のためと思っていることが、相手が自分のためと思うとは限らないですよね。
ジークさんの過去と諸々でしたね。
あと1話でウルタリア侯爵編は終わります!
その後、過去編が完結いたしますので、そしたらやっとヒロインと学園編ですね!
夏中に入れたらいいなーと考えています。
また、願望ですけどね笑
蛇足。
ティリア、拗ねる ぱーと3
「リア、ただいま!」
「お姉さま! おしごとおつかれさま!!」(ぎゅーっ)
「うん、ありがとう。リアはみんなと楽しく遊んでる?」
「うん! 初めてこんないっぱいのひととあそんで、楽しいよ!!」
「そっか、良かった。それじゃあ、わたしはあっちで―――……」
「あーっ! お姉さま、目、どうしたの? あかいよ?」
「えっ? ああ、えーっと、ちょっと、いろいろあったの。リアは気にしないで。辛くて泣いたわけじゃないから。…ねっ?」
「……わかった」
「うん、じゃあ、わたしはあっちで女の子たちに本を読んであげてくるね。リアは玉遊びを楽しんでね!」
「あっ、お姉さま!」
「ん? どうしたの?」
「……いや、なんでもないや」
「そう? じゃあ、あとでね」
「…うん」(お姉さま、ほんとはぼくをたよってくれてもいいんだよ……)




