第7話 女神の恩返し
―トントントントントントントントントントン―
包丁がまな板を叩くリズムカルな音が聞こえる。狭いアパートの一室の中、鍋から溢れる湯気が窓ガラスの縁を曇らせている。
湯気に込められた匂いと包丁の音が、浅い夢を見るタツマの脳にゆっくりと染みこんでいく。
朝ごはんの気配に、胸が締め付けられるような懐かしさを感じながら、タツマは少しづつ目を覚ましていった。
タツマに両親はいない。彼が中学二年の時に、二人共事故であっけなく他界してしまっていた。
天涯孤独となったタツマを、何人かの親戚は引き取ってくれようとしたが、タツマは頑なにそれを断った。
カヤやイクアラと言ったチームメイト達の存在と、父と母と暮らしていた場所から離れたくなかったという思いが、タツマをヒロシマに留まらせた。
父と母が残してくれたそこそこの貯金は、無駄遣いをしなければ、高校を卒業するまで一人でこのアパートに暮らすことができた。
降って湧いてきた結構な額の生命保険には、タツマは一切手をつけていない。
いつか何か起こった時のために残しているのが理由の一つであり、父と母の命と引き換えの金を使う気にはなれなかったというのが、もう一つの理由である。
―トントントントントントントントントントン―
そんなタツマの家に、タツマ以外の誰かの包丁の音が響いている。
「‥カヤか?」
合鍵を預けている親友の名前が思い浮かんだ。一人暮らしである以上、カギをなくした時などのもしもの場合の対策である。
もっとも、元々はカヤに渡した物ではなく、イクアラに渡しておいた筈の鍵が、いつの間にかカヤの手に渡っていたという顛末があるのだが…。
中学時代には合鍵で勝手に部屋をあけ、休日はしばしばタツマに料理を作りに来ていたカヤ。
タツマが冒険者部をやめてからは疎遠となり、カヤもタツマの部屋に訪れることはなかったが、復帰したことで再びタツマの部屋に遊びに来るようになったのかと、そう考えた。
「カヤー?」
返事はなかった。タツマはパジャマのまま、キッチンへとむかう。
暖簾型の仕切りをくぐると、そこには全長1,6m程の髪がいた。
髪は入ってきたタツマに気付いたのか、料理の手を止め、くるりとタツマの方を振り返る。
正面から見た髪も、殆ど余すところなく髪であった。薄緑色のエプロンから伸びる四肢も、やはり全て髪であった。形容するならば、髪の毛で作った巨大な藁人形とでもいうべきか。
髪人形はオタマと味見用の小皿を手(?)に持ちながら、ペコリとお辞儀してきた。
タツマは無言でベッドへと戻り、速やかに二度寝することにした。
「(人化はしないけど、人型になれないとは言ってなかったよなあ…)」
眠りに落ちる寸前に、気がついた。
タツマの体がゆさゆさと揺さぶられる。心地よい回転運動にタツマは再び目を覚ましていく。自分を起こす者の正体には、もはや疑問を持ったりはしない。「(髪だな、髪だろうな)」そう覚悟して、恐る恐る目を開けると、そこには髪だけでなくちゃんと顔もあった。
「…あれ? 顔がついてる?」
「寝ぼけてるの? おはよう、タツマ」
二度寝から覚めたタツマが見たのは、今度こそ見慣れた友人の顔であった。真横からの朝日に明るく照らされているカヤの頬。
可愛らしさと美しさが同居する、タツマのよく知る顔である。
「(やっぱり顔って大事なんだな)」
タツマは巷でよく言われる言葉を新解釈で理解した。
「おはようカヤ、どうしたんだ? こんな朝早くから」
「タツマを迎えに来たのよ。そのついでにご飯でも作ろうと思ったのだけど、先を越されてたわ」
そう言うと、カヤはキッチンの方にチラリと一瞬視線を向けた。呆れと戸惑いと不満と、そして恐怖が入り乱れた複雑な表情に、「ああ、カヤもアレ見ちまったのか」と、タツマは気づいた。
「わざわざ迎えに来なくてもサボったりしないって。ちゃんと行くって言っただろ?」
「分かってるけど…、少しだけ、不安になったのよ…」
カヤの拗ねたような声音に、タツマは息苦しさを覚える。
ニヶ月前、退部勧告をつきつけられたあの日、タツマはカヤ達から逃げるように走り去ってしまった。それ以降、タツマはできるだけカヤ達を避けて生活していた。カヤが不安に思うのもタツマ自身に責任がある。
タツマはベッドから起き上がりながら、小さな声で「わりい」とだけ言った。それは謝罪とも、感謝の言葉とも判別できない言葉であった。カヤも「うん」と小さく頷いた。
タツマが立ち上がり着替えを始めると、カヤは当たり前のように後ろを向いて体育座りをする。
わざわざ部屋を出るような事はしない。冒険者部の男女の線引きなどこの程度のものである。傷の手当てや、魔物の返り血を拭き取るために、ダンジョン内で裸になることはよくあることなのだから。
それはカヤとタツマの立場が逆であったとしても同じ事。タツマは気にしないし、カヤも気にしない筈だった。
だから今、後ろを向いて俯いているカヤの顔が、天狗のように赤く染まっていることなどは、タツマには想像もできない事だ。
タツマは着替えながら、カヤに尋ねる。
「今日の相手はなんて高校だっけ?」
「ヒロシマ県立第一高校。進学校としては名門校よ。冒険部の実力は下の中って所かしら。特に有名な選手もいないわ。地区予選初戦の相手だからこんなものよね。魚里高校の勝ちは確定よ」
頬の赤みをごまかすように、カヤはいつもより幾分饒舌に、早口で答えた。
「そりゃあご愁傷様って奴かな。うっし、着替え終わりっと」
今日は日曜日。そして魚里高校ダンジョン部にとって、ヒロシマ県地区予選の初戦の日となる。
タツマ達二軍には練習はなく、代わりに一軍の試合を見に行くことが義務付けられている。もちろん、今日から復部するタツマもその例に漏れない。
名門校の二軍選手というのは、試合当日は健気な応援団へと変わるものだ。
魚里高校のダンジョン部の総部員数は70名を超える。その中で、一軍選手は30名、公式戦のベンチ入り人数が18名、スターティングメンバーともなればたったの9名である。
一度も試合に出ることなく、三年間応援だけで高校生活を終える選手も少なくはない。
しかしタツマ達は今日、応援に行くわけではない。建前上はチームメイトの応援ではあるが、その内実は敵情視察である。
一週間後の紅白戦で倒さねばならぬ相手である魚里高校の一軍。その実力を知るためにタツマ達は観戦しに行くのだ。
「しかし、観戦の前にやんなきゃいけないことがあるよな…」
「ええ、せいぜい頑張ってね、タツマ」
皮肉交じりのエールを受けたタツマはキッチンとの敷居へと目を遣った。随分と早い時間から準備されていた女神様の心尽くしを、食さずに家を出るわけにはいかないだろう。
食べなければきっと泣く、間違いなく泣く、シクシクと泣く。
ちょうどその時、敷居の向こうから、するするーっと髪の毛が伸びてきた。
床を這いながら、まるで蛇のように近づいてくるそれに、二人は「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
髪の毛の先には二組の箸が握られていた。
髪の毛は一組ずつ、タツマとカヤの手にその箸を握らせると、再び、するするーとキッチンへと戻っていった。
「えーっと‥、ひょっとして、ご飯ができたってことなのかな?」
「えーっと‥、わたしも、お呼ばれされちゃったってことなのかしら?」
二人は手に持った箸を見つめながら、呟いた。
「…すごい!」
目に映る光景に、タツマは驚きと賞賛の声を上げた。
テーブルには出来立ての朝食が湯気を立てながら彩り豊かに並んでいた。
ご飯に、お味噌汁、佃煮に、たまご焼き、煮物に、漬物という、純和風な料理の数々がタツマ達を待っていた。
それを作ったはずのオルタは、いつの間にか髪の毛を縮めて、ちょこんとテーブルの上に鎮座していた。
「確かに、日本食が得意とは言っていたけど…」
「そういや昨日そんな事言っていたよな。…こっくりさんで」
しばらく惚けて立ち尽くしていた二人であったが、剣から触角のように伸びる二本の毛に『どうぞ』と促され、そろりと席についた。
先ずは日本食の作法に則り汁物からだろうと、タツマとカヤは目だけで打ち合わせる。そして恐る恐ると味噌汁を口に運んでいく。
「なっ‥? う、うまい!?」
「えっ‥? 凄く、おいしい!?」
昆布だしの深い味わいが、二人の口の中に広がる。ネギと豆腐だけのシンプルな味噌汁ではあったが、味の波が二人の舌をしびれさせる程に押し寄せて来る。味噌汁とは斯くも味わい深い物だったのかと、二人は16年の人生で初めての発見に驚いた。
「で、でもっ、他の料理はどうなの!?」
カヤは眉を釣り上げると、だし巻き卵に手を伸ばした。タツマもじゃがいもの煮物を口元へと運んだ。
「これも‥! 本当に、おいしい! …悔しいけど…」
「すごい! すごいよオルタ様! どれも最高においしいよ!」
二人の手放しの賛辞に、オルタは恥ずかしそうに髪をくるくると三つ編みにしていた。
「でも、何で!? 何でこんなに美味しいの!?」
「ああ、碌な材料がなかった筈なのに、なんでこんなに旨くなるんだ? 一体どんな魔法をつかったんだ? オルタ様!」
タツマの家には調味料も食材も最低限のものしかない。もちろん、髪の毛のオルタが買い物になど行けるわけもない。
タツマの問いに、オルタは慎ましやかにに、しかし幾分得意気にある方向を指し示した。そこには、コンロに乗せられた大きな両手鍋があった。
「そうだわ! 出汁よ! この料理は出汁が違うんだわ! 出汁は日本食の命だもの! それにしても、こんなに美味しい昆布出汁は初めてだわ!」
「なるほどなー、手間暇かけてんだな。道理で美味いわけだよ。………あれっ、ウチって昆布なんてあったっけ?」
タツマがふと放った言葉に、カヤの顔がピクリと引き攣った。カヤもタツマの台所事情は知っている。かつお節とか、昆布とか、そんなシャレたものはタツマの家にはなかったはずだ。
では、一体何で出汁をとったと言うのだろうか。
不安と、疑念と、恐怖が二人の心を捉え始めた。
タツマとカヤは顔を見合わてゆっくりと頷くと、意を決して、コンロの方へ支え合うように歩いて行く。
カヤに目で促されたタツマが恐る恐る鍋を開けると、そこには美しく澄んだ黄金色のだし汁と、黒い髪の毛がごっそりと入っていた。
「…………ッ!?」
カヤは口元を抑えながらトイレへと駆け込んだ。出遅れたタツマは、手元にあった空の鍋に犬のように顔を突っ込むと、人差し指を喉に突っ込み、朝食の巻き戻しボタンを迷わず押した。
鍋のなかにびちゃびちゃと、朝食であったはずの何かが溜まっていく。
―シクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシク―
女神の啜り泣きが朝のアパートに響く。タツマの持つパーソナルカードには、昨日に続き、新アビリティー獲得を示すマークが更新されていた。
【アビリティー】女神の出汁(昆布味) 効能/栄養◎ 旨味◎ 疲労回復◎ NEW!