第5話 赤い絆
注意・この物語に登場するいかなる固有名詞も、実在の人物、団体とは関係ありません。
赤ヘル迷宮。
それは遥か古代よりヒロシマの地下に存在している、全77階層の巨大迷宮である。
時代により、人により、様々な名で呼ばれていた中国地方最大の迷宮は、今からおよそ70年前に『赤ヘル迷宮』という愛称が付けられ、それが正式名称として登録された。
切っ掛けは、世界大戦の末期に投下された、アメリカ軍の新型爆弾であった。
人の手が作り出した悪夢の兵器はヒロシマの町を一瞬で灰塵に帰した、はずだった。
生き残った人々が、爆心地の中に見つけたのが、灰と炭とがれきの中でも、無傷の姿で残っていた迷宮だった。
地表部分を半球状の強力な結界に守られた迷宮は、核の炎すら退けていた。
廃墟の中にぽっこりと現われた、半球状の迷宮の外壁。
その姿がまるで赤いヘルメットのように見えたから、ヒロシマの人々はこの迷宮を『赤ヘル迷宮』と呼ぶようになったという。
核にも負けなかった赤ヘル迷宮はヒロシマの人間にとって復興へのシンボルとなり、そこに産まれたヒロシマ初のプロ冒険者クランであるレッドヘルバトラーズこと通称『赤ヘル』は、ヒロシマの全ての人々に愛される、心の支えとなったのだ。
「……ごめんねえ、またタツマ君におごってもろうて」
「気にすんなよ、今日はイリアの夢が叶うことがきまったお祝いってことでな!」
軒下の赤い提灯が、少年と少女の頬を赤く照らしている。
練習を終えたタツマとイリアは、二人の家にほど近い場所にあるお好み焼き屋『赤恋』へとやってきていた。
ここは二週間前にタツマがイリアに紹介した赤ヘルファン達の集いの場である。
客層は主に30代から60代の男達が殆どで、試合のある日はビールを片手に、応援と野次を飛ばし合いながら観戦するのだ。
毎日が鉄板の熱と男達の熱い思いに満たされている、赤ヘルファン達の小さな聖地。それがお好み焼き屋『赤恋』である。
「(確か今日もナイターあったよな)」と思いながら、タツマはガラリと扉を開けた。
「おおぅ……おおぅ……おおぅぇえうぅ」
扉を開ければ、男たちの嗚咽が店を埋め尽くしていた。
△
▽
店内に散らばる客達が、片手に顔を伏すように泣いている。
すすり泣きと嗚咽、そして偶の絶叫が、酒の匂いの篭った店内に響き渡る。
崩れ落ち、支え合う男達の中で、ただ一人、気丈な姿で立っているのが、お好み焼き屋『赤恋』の主人、赤井テツオであった。
テツオの目から涙が一筋だけ零れると、熱い鉄板の上に落ちて、ジュッとなって、蒸発した。
「……ええっと、テツさん、これは一体……?」
テツオは腕を組んだまま、部屋の隅のテレビをアゴで差し示した。
画面の映像を確認したイリアが、自分の制服の胸の辺りを、絞るように掴んだ。
「……今日の試合、負けてしもたんじゃねえ、赤ヘル……」
画面の向こうでは、すでに相手チームのヒーローインタビューが行われていた。
「……いや、でも試合に負けたぐらいで、こんな」
タツマの迂闊なひと言で、店内の客が一斉にタツマの方を睨んだ。
全方位から突き刺さってくる憎しみと、悲しみと、諦めの混じった眼差しに、タツマは「ごめんなさい! ごめんなさい!」と360度回転しながら頭を下げた。
「あのねタツマ君。今日の試合はね、負けたら赤ヘルの優勝が完全に消滅する試合やったんよ」
「ああ、そういうこと、だったのか……」
ヒロシマに生きる者として、タツマも赤ヘルのことは応援している。しかし、タツマにとってのダンジョン競技とは見るよりもやるほうが一番であり、逐一赤ヘルの試合をチェックするような熱心なファンというわけでもない。
今年の赤ヘルが開幕から記録的なペースで連戦連敗していたことは知っていたが、今日の試合で優勝の可能性が完全に消えることまでは、タツマは知らなかった。
「なんでじゃ……、 なんでじゃあ! 夏は、夏はまだ始まったばかりじゃろうが!! なんでもう、ワシらのシーズンだけが終わっとんじゃー!」
小太りの中年男が、赤いメガホンを地面に何度も叩きつけながら、悲痛な声で叫んだ。
周りの男達もそれにつられるように。「夏なんて嫌いじゃー!」「監督のアホー!」と叫び始めた。
ダンジョン競技のプロリーグの日程は、未だ3分の2も消化してはいない。本来ならばこれからもっともペナント争いが熱くなる時期だというのに、赤ヘルファン達の心は冷えきっていた。
「……というか、イリアは大丈夫なのか?」
タツマは隣のイリアへと視線を移す。
イリアもまた、赤ヘルの熱狂的なファンである。早すぎる終戦の知らせに、彼らとおなじようにショックを受けているに違いない。
「悲しいけどねえ、今年の優勝は無理やってとっくにわかっとったし、落ち込んでもしょうがないけん」
しかしイリアは、タツマに向けて薄く笑った。
幼い少女の顔が、少しだけ大人びて見えた。
「優勝は無理でも、まだシーズンは終わっとらんしね。一つでも上に行ってくれたら、来シーズンの為にも……」
『来シーズンの為にも』、そう言ったイリアの目から、涙がツッと毀れた。
「あ、あれっ? 違うんよこれ。 あ、あれっ? 変じゃなあ。 悲しゅうなんてないのに、悲しゅうなんてないのに……」
「イリア……」
「ち、違うんじゃ! 違うんじゃけん! じゃって、じゃって、今日はせっかくタツマ君が連れて来てくれたのに! お祝いじゃって連れて来てくれたのに……、泣いてもうたら、泣いてもうたら台無しじゃけん……、じゃから、じゃから……」
それは少女の精一杯の強がりだったのだろう。
イリアはタツマに背中をむけると、制服の袖で、こすり付けるように顔を拭った。
イリアの小さな背中が丸くなって震えている。
そんな少女の頼りない背中に、最後のトドメは突き刺さる。
『さて、解説の南別府さん。レッドヘルバトラーズには今年も大変つらいペナントとなってしまいましたが』
『そうですねえ、もう、なってしまったものはしょうがないですから、ここはもう、来年に切り替えて……』
テレビのナイター中継では、解説者とアナウンサーが今シーズンを総括していた。
それがイリアの、心の堰をついに切った。
「……い、い、いやじゃあ! いやじゃあー! 切り替えてばっかりでもういやじゃー! 切り替えて、切り替えて、なんべん切り替えれば気が済むん!? 終戦記念日前の終戦はもういやじゃあ! ねえタツマくん、なんでなん? なんで赤ヘル、こんなに弱いん?」
イリアはタツマにしがみついて、わんわんと泣いた。
少女の叫びに呼応するように、男達も声を上げて吠えるように泣きはじめた。
腕組みをするテツの頬から、再び涙の滴が落ちて、鉄板の上でジュッとはじけた。
タツマは自分にしがみつくイリアの頭を優しく撫でながら
「(馴染んでるなあ、イリア……)」
と、思った。
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△
「おう、ほったらかしにして悪かったなタツゥ、すぐに二人前焼いてやるからな。ちょいと待ってくれや」
「あっ、いえ、……よろしく、お願いします……」
座敷席は埋まっていたので、タツマとイリアはカウンター席についた。
タツマ達二人の目の前で、テツがお好み焼きを二枚焼き始める。
お好み焼きを焼いて30年の赤いテツオ、心なしか、動きにいつものキレはない。
タツマとイリア、二人分のお好み焼きが焼かれているのは、先ほどまでテツの涙を吸い込んでいた黒い鉄板。
『あのぉ……、一度拭いてから、焼いて貰えませんか?』
などと、言える空気ではなかった。
タツマの右隣では、イリアが俯いたままぐずぐずと鼻を鳴らしている。
左隣では背広姿のサラリーマンが、眼鏡に残る涙の痕を、お手拭きでキュッキュッと吹いていた。
ここは終戦の店内。
活気はなかったが、静けさだけは取戻し、男たちはちびりりびりと酒を傾け、冷めきったお好み焼きをつつき始めた。
「あいよ、お待ち」
カウンター越しに差し出されたお好み焼きを、タツマは俯いているイリアの分も受け取った。
ソースやら花鰹やら青のりで、綺麗にお好み焼きを飾っていく。
「ほら、食べなよ。イリア」
「ご……、ごめんねえ。タツマ君」
その謝罪は何のための言葉だったのか、
イリアは鼻をすすりあげると、お好み焼きへと箸を伸ばした。
今日の夕食は、イリアが赤ヘル迷宮の舞台に立てることを祝うことが目的だった。
しかし今、この空気の中で『赤ヘル』という単語は、迂闊に言いだせなくなってしまっていた。
イリアは未だぐずぐずと鼻を鳴らしており、店内は早すぎる終戦にすっかり打ちのめされていたのだから。
「そういやタツマよぉ、部活の調子はどうよ? そろそろ地区予選も終わるころじゃねえか? 甲子園はいけそうなのか?」
「え、ええ……、まあ、ボチボチってところです」
隣でイリアの肩がビクリと震えた。
「(きわどいところを突いてくるな)」と、そう思いながらも、タツマは話題を濁した。
「なんでえ覇気の返事だなあ。いつもだったら、『バッチリですよ』ぐれえ言ってるだろうが」
そういうテツの声音も、覇気はなかった。
タツマは誤魔化しの笑顔を浮かべると、これ以上話しかけられないように下を向いて、お好み焼きを頬張った。
「……タツマ君、といったかね? イリアちゃんの友人の」
「ふゃい! ひゃんへひょう?」
お好み焼きを一杯に頬張ったタツマに、不意に話しかけてくる男がいた。
隣に座っている眼鏡をかけたサラリーマンが、声の主だった。
彼はタツマのことを『イリアの友人』と言った。
タツマがイリアに赤恋を紹介したのは僅か2週間前。タツマもそれなりに常連のつもりだったが、たった二週間で二人の赤恋での地位は逆転していた。
「今週の日曜、君たち魚里高校は赤ヘル迷宮で試合をするんだってね?」
赤ヘル迷宮、その言葉に静けさを取り戻していたはずの店内がにわかにざわめき、不穏な空気が流れ始めた。
皆、気持ちの整理をようやくつけようとしているところなのに、なぜそんなことを思い出させるのか、鋭い視線がサラリーマンに向けられた。
「どうしてそれを……!?」
甲子園に向けたヒロシマ地区予選の準決勝と決勝が赤ヘル迷宮へと舞台を移したことは、明日正式に発表されるものだと厳島は言っていたはずだった。いち早く連絡を受けた、当事者のダンジョン部を例外として。
「私が勤める会社は今大会のスポンサーの一つでね。蛇の道は蛇というやつさ」
男はそう言うと、タツマの奥に座るイリアへと向けて一瞬優しい視線を送った。
そして眼鏡の奥の眼差しをキッと厳しいものに変えると、手に持っていたジョッキをドンっとテーブルに叩きつけ、立ち上がり、叫んだ。
「魚里高校の赤ヘル迷宮での健闘とぉお、甲子園出場を願ってぇえ、三、三、七拍子!」
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
突然のことに、店内は一瞬で固まった。
静まり返った店内の中で、男はただ、無言で手のひらを叩き続ける。
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
一人で、何度も、繰り返す。
たった一人の三・三・七拍子。
しかしそれは、赤ヘルファン達が蘇る、全ての始まりの音となる。
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
たった一人の三・三・七拍子が、二人の三・三・七拍子に変わった。
店主のテツが、男と共に手を叩いていた。
仕事道具のヘラを放りだし、お好み焼きが焦げるのも、厭わずに。
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
テツは手を叩きながら、一度口角をぐいっと釣り上げると、こう、呟いた。
「ワシは阿呆じゃ、どうしょうもない阿呆じゃ。目の前の悲しみに囚われて、子供らに気を使わせるとはのぉ」
赤恋の主人、テツは店内をゆっくりと見渡すと、全員に聞こえる大きな声で、こう、叫んだ。
「赤ヘルのシーズンは来年も、再来年も、その先もずっとあるじゃろが! でもなあコイツラの夏は一度きりかもしれんのじゃ、ワシら大人が、応援できんでどうするんじゃ」
そしてテツは顔を伏せたままのイリアに向けて、皺の刻まれた顔で優しく微笑んだ。
「顔をあげいや、イリアちゃん。赤ヘルのシーズンは終わっとらん。なぜなら今日から、イリアちゃんがワシらの赤ヘルになるんじゃからなあ」
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
テツは、話は終わったとばかりに、手をさらに強く叩き始める。
二人だけの三・三・七拍子は、少しずつ、ゆっくりと、波紋のように広がっていく。
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
パンパンパン パンパンパン パンパンパンパンパンパンパン
「……テツさん、……正田さん、……紀藤さん、……西田さん、……長富さん、……それに高橋さんまで……」
顔を上げたイリアが、手を叩く男達の名を一人一人呼んでいく。
男達がイリアに送る三・三・七拍子。
それは赤恋の赤ヘルファンが、イリアのファンに変わった瞬間だった。
イリアの隣にはタツマがいる。
タツマはイリアを優しい瞳で見つめながらも、
「(いつの間に……、ここの客全員の名前を覚えたんだ?)」
と、戦慄した。
「みんな、みんな、ありがとうじゃけえ! 頑張るけえ! わたし、頑張るけえ!」
店内40人の男達が一人の少女に送る三・三・七拍子は、最初に始めたサラリーマンの「いよー!」っという掛け声とともに、一本締めで幕を閉じる。
「「「「「「「「「「パンッ」」」」」」」」」
同時に、歓声が、上がった。
「くぅー、こりゃあもう、日曜は応援にいくしかねえなあ!」
「あったりまえだじゃあ! わしらのシーズンはまだ終わっとらんのじゃからな!」
「赤ヘル迷宮でイリアちゃんを応援できる。こんな幸せな事はないのう!」
「対戦相手はどこじゃあ? わしは高校のダンジョン競技はよう知らんのじゃ!」
「高校野球に自信オヤジのわしが教えちゃるわい! じゃからみんなで、一緒にいくぞぉ!!」
店内は活気が戻っていた。赤ヘルファンの男たちが、まるで試合後のチームメイトのようにイリアをハイタッチで迎えていく。小柄なイリアの為に膝立ちしたり、中腰の姿勢になりながら。
「みんな! みんな! ありがとうじゃけえ! がんばるけえ! がんばるけえ!」
明るい声で、イリアが店内をめぐる。その涙はさっきまでの悲しいものではない。
「薄情な常連客じゃなあ、客がみーんなおらんなってしもたら、ワシも店閉めて応援にいくしかないじゃろが……」
テツは手首でグイッと目元をぬぐうと、楽しそうにそう言った。
始まりの男は眼鏡の奥でフッと笑うと、すっかりぬるくなったビールを口に運んだ。
「あのぉ……。そろそろバイトあるんで、お金ここ、置いときますね」
そしてタツマは、完全に乗り遅れていた。