第29話 私の夏、最後の夏
迷宮の心臓が、砕ける。
ガラスが割れたような音を立てると、赤い欠片が弾けて散った。
無色の衝撃が、そこから生まれ、輪になって幾重にも広がっていく。
タツマの髪が後ろへとなびく。春一番のような力強い風が巻き起こる。
風が空を揺さぶると、空に青い一筋の切れ目が走る。
ドーム型の世界に、数本の大きな亀裂が産まれて、雲母のように枝分かれすると、さらに細かなヒビが伸びていく。
紺色の空を白い罅模様が覆いきったとき、天が一斉に割れた。
青白い欠片が雪のようにキラキラと降り注ぐ。星明かりに輝きながら、空の欠片がくるくると舞い落ちる。
まるで天の川の星が全て落ちてきているように、タツマには見えた。
空を二つに分け隔てている天の川が、弾けて散ってしまったように。
「結界が……割れおった」
誰かが言った。
フィールド迷宮の結界が割れたことは、外と中の世界が繫がることを意味している。
それはつまり、迷宮が滅んだということ。
タツマは立ち尽くしたまま、迷宮の最後を見上げていた。
狂った迷宮の最後にしては、美しい夢のような光景だった。
ふと、胸に暖かい何かを感じた。いつの間にか、オルタがタツマに回復魔法をかけていた。
傷がみるみると塞がっていく。
オルタの魔法が、暖かい。
「ああ‥、ああ…、暖かい。風が暖かいわ」
カエデが体を抱きしめながら震えていた。
「風に、夏の匂いがするの」
喜びの声は本物のカエデの声。タツマのよく知る、午後10時の彼女の声。
「海の香りも、するでしょう?」
声が喜びに満ちている。ただの風に、ただの海の匂いに、憐れなほどに喜んでいる。
「ねえ、そうは思わない? 私の夏」
振り返ったカエデの笑顔が、春風のようにタツマの心を吹き抜ける。
黒い角質に覆われていたカエデの顔から、綺麗な顔が産まれていく
「助けてくれてありがとう。神様」
カエデがオルタを見て、言った。
カエデの角質化した黒い皮膚がボロボロと剥がれ落ちていく。
剥がれ落ちた皮膚から、カエデの白く綺麗な顔が姿を見せていく。
幸せな子供のような、彼女の可愛い本当の笑顔。
「みんな、本当にありがとう。私、とっても幸せよ」
カエデが手を両手に広げて、天から落ちてくる光のシャワーを受け止める。
こんなにも幸せなのだと、皆に教えているかのように自由な手を広げる。
七夕の天の川の下、カエデはきっと、織姫のように美しい。
白い綺麗な手が、星と満月に照らされて夢のように美しく輝いている。
「ありがとう、私の夏」
カエデの綺麗な微笑み。
天に伸ばしていた両の手を今度はタツマに向かって広げる。
思わずその手に飛び込みたくなるような、美しく奇麗な手。
「これでようやく、私も死ねるわ」
カエデの美しく綺麗な手、その指先がボロリと崩れた。
「…流石に、無くなってしまった物までは、今の私の幻覚じゃ、ごまかせないわね」
無くなった指先を見ながら、カエデが諦めの溜息をつく。
地に落ちた指は、灰に変わると風に吹かれて散っていく。
「ごめんね。騙すような真似をして」
何を騙しているのか、誰を騙しているのか、タツマには分からない。わかりたくない。
だから何も尋ねることができない。ただ、縋りつくようにカエデを見る。
「ごめんね。私って、嘘つきなのよ」
カエデが困ったような顔をしてタツマを見る。
嘘つきだという彼女の姿はやはり綺麗で、でも、指先だけがまた、崩れ落ちて
どんな嘘をつかれたのか、想像はできるが、理解したくなどなかった。
「どういうことだよカエデさん! 俺たちはあんたを助ける為に!!」
バーンが目を覚ましていた。いつの間にかタツマの元を離れていたオルタがバーンに回復魔法を唱えているのがタツマの目に映る。
カエデはバーンの方を振り返ると、また、「ごめんね」と謝った。
「私はね、もう一年も前に死んでいるの。死んでいる体に迷宮の心臓の分身がはりついていたせいで、生きているように見えていただけなの。迷宮が滅べば、私も滅ぶわ」
カエデがバーンに胸元を見せる、赤い偽りの心臓があったそこには、ぽっかりと穴が開いていた。
黒い虚空しか、そこにはなかった。
「黙っててごめんね、でも、知ってたら手加減しちゃうでしょ?」
「なんだよそれ!? それを知ってりゃあ俺たち、こんな事、こんな事をッ!!」
バーンの言葉はそこにいる全員の代弁だった。愕然とするウィリスやもみじが、掠れた声で何かを言うが言葉にはならない。
ただ一人、オルタだけは悲しい目でカエデを見ていた。
「アンデットにとっての死はね、生者にとっての生よりも尊いものなのよ。この迷宮で死なないって言う事はね、地獄で死ねない事と一緒なのよ。ほら、他のみんなも喜んでいるわ」
迷宮の結界が地に降り注いだ後には、今度は地表から、ゆらゆらと何かが空に向けて昇っていく。
迷宮から次々と立ち登っていく陽炎。あれはこの迷宮に閉じ込められていた誰かの魂なのだろうか。解放され、今から天に旅立つのだろうか。
空にむかっていく無数の魂は、灯籠のように淡く輝きながら昇っていった。「ありがとう」というたくさんの言葉が聞こえた気がした。
「解放してくれてありがとう。助けてくれてありがとう。本当にあなた達は私を救ってくれたのよ。幸せでいっぱいなの。私、嘘つきな女だけど、これだけは本当だから、信じて」
幸せそうに笑って言った。カエデの言葉に嘘などないと分かる。バーンは無言で両手を地に何度もたたきつけた。
「みんな、ごめんね。みんな、ありがとう」
ウィリスも、もみじも、アイアンも、皆が行き場のない悲しみと空しさを抱えて、持て余していた。
本当は皆、その可能性に気づいていたのかもしれない。
気づいていながら、見ないように目を背けていただけなのかもしれない。
カエデはもう一度「ごめんね」と謝ると、振り返り、タツマと再び目を合わせた。
「触れてくれてありがとう。約束を守ってくれてありがとう。貴方の手、やっぱり夏みたいに暖かかったわ」
あの時タツマが触れた左の頬に、ほうっと溜息を吐きながらカエデは手の平を当てた。
きっとあの瞬間を思い出して、幸せそうに目を閉じて。
自分の頬に触れるカエデの手は、すでに指が全部落ちていた。
「ねえ、私の夏」
タツマは返事を返せない。ただただカエデを、綺麗なカエデを見つめている。
幻影で綺麗に化粧をしたカエデを。
「私って、本当に欲が深いの。だから、だから……」
何も答えないタツマを、カエデは不安そうに見つめる。カエデの体が震えている。
「やっぱり、もう一度…、これが本当に最後のお願いだから。もう一度……、本当の最後に……、触れてもらっても……いい?」
指のない両手を合わせて、お願いの仕草でカエデがねだる。こわごわと、首を傾けて、苦しまぎれの笑顔で。
「こんなにボロボロの私で…、約束守ってもらった上に、やっぱり、もう一度だなんて、わがままだとは思うけど……」
カエデの言葉はそこで途切れた。
カエデに向かって駆け出したタツマに、両手で力強く抱きしめられていた。
触れるのではなく、しっかりと抱きしめられていた。
望んでいた以上のタツマの答えに、カエデは一瞬目を丸くすると、タツマの肩に恐る恐ると首を預ける。
顎を肩に乗せ、顔の重みをタツマの頬に預けると、「暖かい」と呟いた。
「抱きしめてもらえるって、体だけじゃなくて、心まで暖かくなるのね」
耳元でカエデの声が響く。肩に頭を載せているせいで、タツマからは顔は見えない。
どうでもいい。きっとあなたは綺麗な顔をしているのだから。
「ごめんね、抱き心地は最悪だし。臭いも酷いでしょ?」
カエデの体は冷たい。ガサガサで、張りがなく、腐肉の匂いが漂っている。
タツマは顔を左右に振ると、一層強くカエデを抱きしめた。カエデの腕がそろりと、タツマの背に回されていくのがわかる。腕だけで、カエデの手首の先はもう無かった。
するとカエデは、誰にも聞こえないように、小さな声で、耳打ちするように、言った。
「ありがとう、私の夏」
強く抱きしめるタツマに比べて、カエデの抱擁は控えめで優しい。
「わたしね、夏が好き」
タツマの心臓が跳ねる。カエデからは心臓の音は聞こえない。
「暑っ苦しくて、ジメジメして、やかましくて、面倒で、カレーなんてすぐに腐っちゃう、そんな夏が好き」
タツマは無言のまま、頷くだけで応える。カエデは一人で、しゃべり続ける。
「気持よくて、輝いて、優しくて、明るくて、日差しがずっと離れずに暖めてくれる、そんな夏が大好き」
タツマの体が火照っても、カエデの体は冷たいまま。
「だから、夏みたいなあなたが、……大好き」
子供のように無邪気な告白だった。言い終わった後、タツマの肩に載せていた顎をカエデは少しだけ、バツが悪そうによじった。
「やあねえ、告白までヘタクソね。準備なんてできてなかったし、国語、苦手だったのよ」
タツマは首を横に振ると、一層強く抱きしめる。
冷たいあなたの体に、自分の熱が移ればいいと、抱きしめる。、
カエデがもう一度顎をよじた。今度はタツマがそこにいるのを感じるように、甘く、擦るように。
「ありがとう。私、初めてだったのよ」
「できてよかった」と、ほっとした声で、付け加えた。
「返事はいらないわ。幸せな想像のまま、いかせてほしいの」
タツマが何かを言う前に、カエデの言葉がタツマの口を塞ぐ。
「もう、あまり時間もないしね」
カエデの肘がボトリと落ちた。
「ねえみんな、このままでいい? きっと私、酷い顔してるから」
声音が変わる。
凛とした力強い声は、魚里高校の元キャプテンの声だった。
全員を背にして、タツマに首を預けて、カエデの顔は誰にも見えない。
もはや幻覚も使えない彼女の、最後の見栄なのかもしれない。
抱きしめられたままいきたいという、彼女の最後の願いなのかもしれない。
オルタは既に全員に回復魔法を唱え終わっていた。バーンやアイアン、イクアラも目を覚まし、起立していた。
張りのあるよく通る声で、カエデは全員に言葉を残す。
引退前の最後の言葉を。
「バーン、強くなったわね。本当に強くなったわ。でも、もっと広い視野を持たないと、チームの柱としては力不足よ。九児がいない今、貴方がみんなを引っ張りなさい」
「押忍!」とバーンが声をあげた。涙を堪える裏返った声は、バーンに不釣り合いに高い声だった。
「アイアン、あなたにはもう言うことはないわ。貴方の信じる道を進みなさい。甲子園の魔物は強力よ。これからも皆を守ってあげて。貴方は最強のブロッカーになれるわ」
「はい」と返事をした鉄巨人の目から、雫がこぼれていた。水銀のような、銀色の涙だった。
「ウィリス、あなたも随分と腕を磨いたわ。最後にあなたの成長が見れて嬉しかったわ。でも、もうちょっと愛想を振りまかないとダメね。部屋はちゃんと片付けなさいね。だらしないと気になる相手にも幻滅されちゃうわよ」
母親の小言のような別れの言葉に、泣き顔のウィリスが「うん。うん」と素直に頷いた。二人は最後まで家族のように仲がよかった。
「金太、あなたは誰よりも才能あるんだから、もっと真面目に練習しなさい。チームはあなたを必要としてるわ」
「わかりました」と、らしからぬ殊勝な返事を金太は返した。
「一年生の皆、才能に溺れず、練習に負けず、焦らず、怠けず、まっすぐに強くなりなさい。あなた達には未来があるもの。もっともっと強くなれるわ」
イクアラ、カヤ、イリアの返事が重なる。託された未来を握りしめるように、拳を硬く握った。
「もみじ、司令塔ならもう少し堂々としなさいっていつも言っていたでしょう? 貴方は私よりも才能があるのよ。自信を持って、私なんかを超えるキャッチャーになりなさい」
「はい」と、力強く答えようとしたもみじの返事が上擦ってしまったのは、涙だけのせいではなかった。
姉を超えるキャッチャーになどなれないと、一年間も練習に行ってなかった自分に、カエデを超えられるわけがないと、もみじは引け目を感じていたから。
「できるわ、貴方なら。私の幻覚を破ってくれた貴方なら。私の事を信じてくれるなら、私の言葉も信じて。私が行けなかった所まで、貴方なら必ず行けるわ。お願いよもみじ、大好きなもみじ」
「はい」と、今度は確かにもみじは答えた。泣きじゃくりながら、息を飲み込みながら返事をした。
「父さんや母さんにもよろしくね。私は本当に幸せだったって。産んでくれてありがとうって。私は幸せにいけたって伝えておいて」
泣き声で言葉が産まれなくて、顔を縦に何度も強く振ることでもみじは答えた。
「神様、本当にありがとう。私を助けてくれて、皆を癒してくれて。これからも皆のこと、よろしくお願いしてもいいでしょうか」
オルタがコクリと頷く。やはり孔のような悲しそうな目でカエデを見ていた。
一人ひとりへの薫陶が終わるころには、カエデの四肢はどこにもなかった。
タツマにしっかりと抱きしめられることで、ぶら下がるように体が支えられていた。
タツマの手から重みが更に消える。
腰がボトリと落ちた。
全員に背を向けて、見栄を張り切った後に、フーっと長い息を吐きだす。
「これで、私の最後の夏も終わるわ」
最後に訪れたカエデの夏は、ほんの一瞬の輝きだった。
「みんな、甲子園に行ってきてよね。どうせなら優勝もしてきなさい。あなた達なら絶対にいけるわ」
全員がもう一度頷いた。
そして何かを吹っ切ったようなカエデの素の声。離別の言葉は彼女らしい明るいものだ。
「さようなら、みんな。さようなら、もみじ。さようなら、私の夏」
いつか聞いたことのある別離の言葉は、今度はもうタツマには覆せない。
カエデの体が軽い
小さな粒子が空に向けて登っていく。
滅びるのだとわかった。カエデの魂が、旅立つのだとわかった。
手の中の存在が消えて行くのが分かる。
抱きしめている最後のカエデの体がみるみる軽く、薄くなっていく。
カエデがいなくなる。タツマの手からいなくなる。
繋ぎとめようとするタツマの手から、するするとほどけて、いなくなっていく。
カエデが、空に溶けていく。
空気なのか、カエデなのか、もはや存在の定義もわからぬ中、カエデがタツマの耳元で-あっ-という、あくびのようなぬるい声を上げた。
寝ぼけているような、眠たそうな、甘えた声をタツマの耳の孔にそっと残す。
「やぁねえ、本当に……」
「女って、なんでこう、欲深い生き物なのかしら…」
「もう少しだけ…、抱きしめてほしいだなんて…」
「また‥、夏が‥こないかなぁ…、なんて…」
「欲が…深くて、いやに…なっちゃ…うわ、……ねえ」
それがカエデの最後の音だった。小さな小さな音を残すと、タツマの微かな肩の重みが魔石へと変わる。
タツマの叫びが、天の川の空を突いた。