第28話 勝者なき戦い
一人で複数を相手に闘うなど、タツマにとってはお伽話である。タツマは神話の英雄でも、達人と呼ばれる種類の人間でもない。
才能が足りぬわけではない。戦闘の勘やセンス、身体感覚に限っては、獣人にも劣らぬ恵まれたものを持っていると、厳島はタツマの事を評している。たまの輝きに、驚くほどに鋭い一撃を見せることもある。
しかし未だタツマは発展途上、言い換えれば未熟である。
ゴブリンやサハギン達、連携もとれぬ格下の魔物を3,4匹相手取るのならばどうにかなる。
しかし相手は鍛えあげられた人間。カヤにイリアにウィリス。自分と実力が同じか、あるいは上の者を複数同時に相手にするなどと、タツマでなくともできるものではない。
ボスモンスターとなったカエデにいたっては、タツマなどよりも遥か彼方の高みにいる。
だから本当は、タツマはカヤとの一対一の間に、なんとしてでも勝負を決めておくべきだった。
仲間たちが次々と倒れていく隙に、カヤの腕を切り落としてでも、タツマは迷宮の心臓にトドメを刺すべきだった。
タツマにとっては、それが最大で唯一のチャンスだったのだから。一対複数どころか、一対一でもタツマではカエデに勝てる要素はない。
倒れていく仲間に心が乱れ、カヤを相手に剣先が鈍った。
そしてタツマは勝機を逃した。
劣勢の中で勝機を逃した者には、二度目の勝機は巡ってこない。
タツマではカエデに勝てない。
さらに敵はカエデだけでなく、カヤやウィリスにイリアまでもが敵に回っている。
勝敗は既に決まっている。決まっていないのは敗北の形だけだ。
どうやってカエデに殺されるのか、それだけがタツマの未来に不定の形で横たわっている。
金太を蹴り飛ばした後のカエデがタツマを見据える。
乱れた髪の隙間から、黄色く濁った目でタツマを見る。作り物のような干からびた目でタツマを見る。
角質化し、黒い鱗のような物質に覆われた頬の上では、泣き黒子などどこにあるか解らない。
カエデの面影など、髪の色と顔の輪郭ぐらいしか残していない。
別人としか思えない、醜いカエデがそこにいた。
カエデ灰色でガサガサの唇を大きく歪めると、黄色い歯を見せつけるように口元を歪めた。
笑っているのだということすらわからぬほどに、醜悪で、恐ろしい顔だった。
寿命が一気に縮んだ気がした。
いや、寿命はこれから縮まるのだ。タツマとカエデとの距離、それが今のタツマに残された寿命なのだから。
トンッっとカエデが地を蹴る。
軽い体に異常な筋力は、爆発的な速さを産む。
高校で最速クラスのカヤよりもさらに速い。タツマへの距離を、タツマの寿命を、カエデは一瞬で縮めて来る。
後ろから迫る“仲間”の気配を感じたのだろう、カヤが一歩左後へと下がった。
そこはタツマと共に戦うときのカヤの定位置。カヤのお気に入りの場所である。右利きのタツマをフォローするならば、そこが最も適切な場所なのだから。
しかし今、カヤがフォローする相手はタツマではなくカエデである。
カヤが譲ったその場所に、カエデが自然に、するりと入り込む。
タツマの寿命は、残り1M。
タツマの命を終わらせるのは薙刀の袈裟斬り。一撃で決着させるつもりなのだろう。
今日、最も速く最も鋭い斬撃が、タツマを襲う。
躱せないのは直感で分かった。体を退いても間に合わぬ事を理解した。
二度と再現できぬ、無意識の動きだった。厳島が賞賛する、タツマの勘と身体感覚がタツマの寿命を僅かに伸ばす。
体を刃の反対方向へとかがめながら、右腕を頭のすぐ左へと掲げる。
死を感じ、死に逆らった肉体は、間に合った。タツマの神剣は、妖刀の刃をギリギリで受けとめていた。
しかし、カエデの一撃はそこで終わらない。タツマの腕ごと押し切るように、力と体重を乗せて来る。
重い一撃を、タツマは奥歯をギリギリと噛みながら耐える。引くことも、受け流すことも出来ない。タツマにできることは命ギリギリで踏ん張るだけだ。気を抜けば一気に押し込まれ、首が飛ぶ。
いや、気を張っていても終わりなのだ。タツマが相手をするべきはカエデだけでは無いのだから。
がら空きになったタツマの右の胴に向かって、カヤが棍と共に低く飛び込んだ。
カエデの薙刀と競り合っている今のタツマに、カヤの突きに対処する方法はない。剣で受ける事も、避けることも出来ない。
今度こそ終わりだと思った。このままカヤの一撃をまともに食らって体勢を崩し、トドメにカエデの薙刀に体を二つに断たれることだろう。
タツマの未来予想は正しい。但しそれは、タツマが本当に一人であったならの話だ。
タツマの寿命はまだ終わらない。タツマは一人ではないのだから。
迫り来る赤い棍に向けて、タツマが握る黒い神剣の柄から髪が伸びる。黒い二房の髪が捻り合いながら伸びていくと、棍の突撃を絡め取って受け止めた。
「オルタ様!!」
タツマが縋りつくような声で守護神の名を呼ぶ。タツマにはまだ、オルタがいる。
悪魔と同等の能力を持ったカエデの幻覚も、悪魔と同格の女神には通じない。
例えこの場にいる全員が敵となっても、オルタは最後まで裏切らない。
タツマが倒れるまで、あるいはオルタが滅ぶまで、オルタはタツマとともに在るだろう。
だから、タツマの寿命が、ほんの少しだけ伸びた。
オルタは戦いの女神ではない。神格は低く、戦いなどとは縁遠い生活をしてきたオルタでは、タツマの窮地をほんの少しだけ救うのが精一杯だった。
左モモに焼きつくような痛みを、タツマは感じた。
タツマの足に、刃のように鋭いつららが突き刺さっていた。
正確なコントロールと絶妙なタイミングの氷魔法。
タツマの動きを奪う最も的確な場所に、戦女神の守護を持つウィリスの魔法が見舞われていた。
戦いの基本は足だ。足を踏ん張りきれなければ腕にも力は伝わらない。ガクリと膝が崩れると、薙刀を受け止めていた剣の角度がさがる。カエデの薙刀が神剣の刃を滑り落ちて来る。
刃と死がタツマに迫る。
それでも体を僅かに後ろに逸らしたのは、タツマのヒトとしての生への執念だったのだろう。
まな板の上の魚の、最後のあがきでしか無かったが。
刃がタツマの胴を深く抉る。軌道が斜めに走ると、タツマの血が舞った。
誰がどう見ても致命傷。胸がバックリと割れ、赤が迸る。
当のタツマにも、間近で血が吹き出す様がはっきりと見えた。
地に膝をつく。刃を振りきったカエデが、醜い顔で愉しそうに見下ろしていた。
自分の胸から夥しい血が地面に撒き散らされる。傷口が、焼けた鉄のように熱い。
支えきれなくなった上半身がゆらゆらと揺れる。うつ伏せに倒れるべきか、仰向けに倒れるべきか、そんな詮無きことを考えた。
しかし、死へと誘う傷口は、やわらかな暖かさに包まれると、タツマは再び生に踏みとどまった。
オルタがタツマの傷口に向けて髪の毛を伸ばしていた。傷を癒やそうと、血を止めようと、タツマの血で真っ赤に髪を染めながら、回復魔法を発動していた。
青い光が、タツマの命をギリギリでつないでいた。タツマの右腕にしがみついて、決してタツマを死なせぬと、回復魔法を唱えていた。
髪の毛の先の青い光が、タツマの切り裂かれた胸を塞いでいく。
オルタの全力の回復魔法。
オルタの魔法なら、治療の時間さえ与えられればタツマの傷を塞ぐことも可能である。
しかし目の前の敵は、治療が終わるまで、わざわざ待ってくれるような相手ではない。
カエデの顔が忌々しそうにゆがむと、タツマの腕にしがみつくオルタを薙刀でバッサリと切り裂いた。
神剣とオルタがカランと地に落ちる。カエデは薙刀を振りかぶると、ゴルフボールでも打つかのように大きなスイングで剣を弾いた。
オルタが高く空に舞う。風に吹かれたのゴミ袋のように。
黒い髪の毛をタツマへと懸命に伸ばすが、もはやタツマには届かない。オルタの癒しの魔法は相手に触れていなければ発動しない。
神剣とオルタは、屋上のフェンスにガシャリとぶつかるまで飛ばされた。
そして今、タツマは全くの無防備となる。
武器もなく、死に体のタツマに、もはやカエデは手を下すまでもないと判断したのだろう。タツマから一歩、下がった。
代わりにカヤが前に出る。
膝をついたままのタツマの胴に向けて、カヤが棍を振り抜いた。タツマの胴が、ぐにゃりと曲がる。ふさがりかけていた傷口から再び血が噴き出ると、タツマは後ろに飛ばされて転がっていった。ごろごろと視界が縦に回る。
仰向けで動きが止まったタツマの上に、小さな太陽が咲いた。まばゆい光の中で、朦朧としていたタツマの意識の光が弾け飛んだ。
光が収まった後には、赤い肉塊だけがそこにあった。もはやピクリとも動かなかった。
タツマではカエデに勝てなかった。ものの数秒で敗北するしかなかった。
オルタが共に在ったとて、2対4では、勝負にもならなかった。
動かないタツマを見ながら愉しそうにカエデが嗤う。音もなく、声もなく、顔を歪めるだけで嗤っている。
タツマはピクリとも動かない。
勝利を手にした迷宮は、いいことを思いついたと言う風に手を打った。
―パンッ-
という音が響く。カエデの柏手は、暗示を切る為の合図でもあった。
何を思ったのか、迷宮はカヤ達3人の催眠を切った。
カヤ達の目に正しい光が戻る。正気を取り戻して、自分の成した事をようやく理解した。
仲間たちが倒れている。愛しい彼が倒れている。記憶に残る映像と、手に残る肉の感触から、自分たちがそれを成したのだと、気がついた。
カヤが怒り、ウィリスが青ざめ、イリアが喚いた。
「あ゛ぁああー!!!」
真っ先にカエデに飛びかかったのはカヤだった。
血のように赤く燃えた目でカエデに襲いかかった。しかしその目は、カエデに届く寸前で再び恋する女の目に変わった。
迷宮はただ、カヤ達の反応を見たかっただけらしい。再びカヤ達を支配すると、ゲラゲラゲラと、うがいでもするように笑った。
迷宮は笑い方を覚えたらしい。愉しそうに愉しそうに笑っていた。
催眠を切ったり、かけたり、カヤ達のスイッチを入れたり切ったりしながら、玩具のように遊び続ける。
カエデが、迷宮が、ゲラゲラとわらう。
ゲラゲラゲラ、ゲラゲラゲラ
ゲラゲラゲラ、ゲラゲラゲラ
ゲラゲラゲラ、ゲラゲラゲラ、
シクシクシク、シクシクシク
ゲラゲラゲラ、ゲラ
不協和音に気づいたカエデは、泣き声の方を振り向いた。
フェンスまで弾き飛ばされていたオルタがタツマに向けて這いよっていた。回復魔法を唱えようとタツマの元へと近づいていた。
嗤いを止め、オルタを踏みつける。
それでも髪を伸ばそうとするから、オルタを足で蹴とばした。
10m程弾かれたオルタは再びタツマへと這いよった。
シクシクシクと泣きながら血まみれのタツマの元へ這いよった。
カエデがまた、オルタを蹴った。カラカラと音を立て乍ら、短剣と共に転がっていく。。
そしてオルタはもう一度タツマへと這いよる。やはりシクシクシクと泣きながら、酔っ払った蛇のように、ふらふらと地面を這って来る。
迷宮が、ゲラゲラゲラと笑う、
嗤いながら遊戯を繰り返す。
蹴っては笑い、蹴っては笑い。
最後には飽きてしまったのだろう。最初のように薙刀を大きく振りかぶると、思い切りオルタを遠くへと弾き飛ばした。
屋上のフェンスが再びガシャンと揺れた。
無様な女神を見ながら、迷宮はゲラゲラゲラと嗤っていた。
カヤの目から涙がポロリと落ちた。
ゲラゲラゲラ ゲラゲラゲラ ゲラゲラゲラ
ゲラゲラゲラ ゲラゲラゲラ ゲラゲラゲラ
動く者は誰も居ない。オルタの泣き声ももう聞えない。
笑い声だけが響いている。
「…わら‥うな…」
動かなかった、血まみれの少年が声を上げた。
「カヤ‥達を‥わらうな…」
掠れた声で、最後の命をすり減らしながら言った。
「オルタ様を‥、わら‥うな」
最後の命の炎が、消えてしまうその前に
「カエデさんを…、わら‥うな」
ゴム紐のようにぶらぶらとたわむ足で、立ち上がる。
「カエデさん…で…、わらうな…っ」
立ち上がり、血まみれの髪の隙間から、タツマはカエデを見据える。
タツマに睨まれたカエデがニヤリと嘲笑う。
愉しいとはどういうことかを、迷宮は今日は存分に学んでいた。捻くれた心で学んでいた。
神剣を持たず、半死半生のタツマなど、今の迷宮には新しいおもちゃにしか見えない。
愉しそうに、タツマに向けて歩いて行く。
立ち上がったもののタツマが何かをできるわけではない。
立ち上がれただけで奇跡だった。もう、一歩も足を動かすことは出来ない。
近づいてくるカエデと死に対して、何一つ武器も持たないし、拳で振り上げる力もない。
タツマとカエデの勝負は既に付いている。試合が終わった後に、逆転など出来はしない
完全なる敗北。
タツマとて、もはや負けた事は解っている。
立ち上がったのは、このまま死ぬだけは許せなかったから。
迷宮が許せないし、自分が許せない。
許せないという気持ちだけで立ち上がった。
しかし、立ち上がったところで何ができるわけでもない。
道連れどころか、一矢報いることもできはしない。
タツマは神話の英雄でもなんでもない。ただの力なきヒトなのだから。
無謀で愚かで、その癖、何もできない男だ。
許せない。許せない。動かない。動かない。
だからせめて、口を開く。
「ごめん…」
最初の謝罪はチームメイト達に。
自分に付き合わせてしまったせいで、こんな事になってしまった事に謝りたかった。
共に甲子園に行けなかった事に謝りたくて。
イクアラやカヤ達と甲子園に行きたかった。みんなと甲子園に行きたかった。
それも今は叶わない。自分のせいで。
許してもらえる物でもないだろうが、謝った。
「ごめん…」
二度目の謝罪はカヤとイリアとウィリスに向けて。迷宮に弄ばれてしまった三人に謝った。
迷宮なんかに操らせてしまったことを、攻撃を受けてしまったことを。
きっとカヤもウィリスもイリアも傷ついてしまっただろう。
カヤ達にやられてしまった自分が、申しわけなかった。
「ごめんなさい…」
三度目の謝罪はオルタに向けて、オルタの髪はまた短くなってしまったのだろう。
守護神になってくれたオルタに、いつもタツマと共にいようとしてくれたオルタに、何一つ恩を返すことが出来なかった。
今もタツマの方へと這いよるオルタの気配を感じながら、タツマは謝る。
こんなになっても自分を見捨てようとしない守護神に向けて、謝った。
ジャリッという靴音がすぐ前で聞こえた。悠々と近づいてきたカエデが、タツマの前に立っていた。
醜く笑いながら、カエデはタツマのすぐ前にいる。
「ごめん…なさい」
最後の謝罪はカエデに向けて。
カエデの願いを叶えることができなかった。
ただの一つも願いを叶えることができなかった。
迷宮から解放してあげられなかった。助けてあげられなかった。
カエデが薙刀をゆっくりと振り被る。これで本当の最後なのだと、タツマは思う。
未練は山ほどある。やり残したした事もたくさんある。死にたくなんてなかった。
でも、どうしようもない。
自分では、どうしようもないのだ。
醜いカエデの顔を見ながら、何一つ事を成せなかった自分が憎む。
呪いの迷宮から、カエデを救えなかった自分を呪う。
ゲラゲラゲラと、醜い顔でカエデが嘲笑う。
綺麗なカエデに、そんな醜い顔をさせてしまう自分が悔しい。
何も出来ない自分が口惜しい。
やはり自分では何も出来ないのだろうか。
誰にも、何一つも、残すことは出来ないのだろうか。
死の直前にタツマは考える。こんな自分でも、せめて何かできることはないかと、考えた。
死はすぐ側にいる。カエデはすぐ側にいる。
すぐ側にいるカエデを見て、タツマはようやく、それに気が付いた。
たった一つだけ、今のタツマにもできることがあると気がついた。
そもそも自分はその為に、この迷宮に来たのだと思い出した。
甲子園に行くことも、皆を救うことも、カエデを救うことも何一つできない今の自分だが、たった一つだけできることがあることに気がついた。
やるべき事が決まったのなら、迷わない。どうせ他に自分にはできることなどないのだから。
最後の命の力で、タツマは右手をまっすぐに伸ばす。武器を持たぬ右手を、力のない右手を前に伸ばす。
甲子園にも、迷宮の心臓にも届かない右手だが、たった一つだけ今の自分でも手に届くものがそこにあるのだから。
カエデの頬
もう一度触れてほしいという願い。もう一度触れたいという気持ち。もう一度触れるという約束。
ゲラゲラゲラと迷宮が笑っている。ゲラゲラゲラとカエデの口を借りて笑っている。
それでもカエデは、そこにいるはずだ。
薙刀が振り下ろされるその直前、伸ばされたタツマの右手が、カエデの頬に、確かに触れた。
醜く、ガサガサの頬だった。黒い角質化した頬の中に、目では見つけられなかった泣き黒子を探す。最後のカエデの泣き黒子を探す。
ほくろはすぐに見つかった。硬い頬の上に、そこだけ柔らかい、小さな小さなカエデがいた。
親指で確かに、小さくて柔らかいカエデを見付けた。
「…ここに…いたんですね…」
タツマが笑う。
よかったと、ほっとして笑った。
迷宮に操られていても、カエデはきっとそこにいるのだと思ったから、タツマは笑った。
ちゃんとカエデに触れることができたから、
こんな自分でも一つだけでも約束を果たすことが出来たから、タツマは最後に笑えた。
-あっ-という声が聞こえた気がした。
薙刀が振るわれている合間、ゲラゲラゲラという嗤いのほんの隙間に、カエデの小さな小さな淡い声が、確かにタツマには聞こえたのだ。
だからタツマは、一層幸せに笑った。
やっぱり、あなたはここにいた。
カエデの醜い顔が、ホンの一瞬綺麗にみえた。
醜く笑う顔に、綺麗なカエデの笑顔が重なった。
最後の姿を焼き付ける。
例えまやかしでも、この世界で最後の瞬間に、綺麗な貴方を目に焼き付けて、行きたいと思った。
薙刀が振るわれる。タツマの胴に向けて振るわれる。今、タツマの体を真っ二つにして、タツマの生は終わる。
-カツン-
という音をタツマは聞く。
カエデの薙刀は、タツマの腰で止まっていた。
剣の鞘をカツンと打って止まっていた。
ヤマトがタツマに作った丈夫な剣の鞘に、力のない、緩い斬撃が当たっていた。
「カエデ…さん?」
タツマの呼びかけにカエデは答えず、タツマにぐるりと背を向ける。
タツマの手がカエデから剥がれ落ちる。
ボスモンスターはタツマにとどめを刺さなかった。今、カエデが見据える先に在るのは迷宮の心臓。
「今じゃあッ!! オルタ様ッ!!!」
金太の声が響いた。
カエデの目線と、金太の目線が交わる先には、人型になったオルタが両手に剣を掲げていた。
黒い神剣。迷宮の心臓を唯一滅ぼすことのできる武器。神剣の切っ先が示す先にあるのは迷宮の心臓。
神剣を扱えるのはタツマだけではない。神剣はオルタの父がオルタとその夫になる者へと与えた物だ。オルタに扱えぬ訳がない。現にオルタは毎日それを扱ってきたのだから。
カエデが獣のような咆哮をあげた。モンスターの咆哮だ。
迷宮の心臓に向かって駆ける。薙刀を手に迷宮の心臓を守る為に駆けようとした。
そのカエデの足首を、突然氷柱が縫い止める。
ウィリスの正確無比な氷魔法。
ウィリスが一年生の頃、カエデと二人三脚で磨き上げたコントロールとタイミング。それがカエデの足を凍らせていた。
前のめりになったカエデの体を真横から飛び込んできたカヤの棍が打ち払う。カエデの体が弾き飛ばされる。
そして、光。
最後に炸裂したイリアの光の魔法は、ただの目眩ましではあったが効果的だった。カエデは守るべき迷宮の心臓を一瞬だけ、完全に見失う。
流れるような連携が、カエデの足を止めていた。
三人の幻覚を解き、最後の連携を声なき言葉で指示した司令塔が、唇をキュッと噛んで地に立っていた。もみじは目を覚ましていた。
その隣には、もみじに肩を貸しながら、樽簿金太が祈るような眼差しでオルタを見ていた。
▲
▼
作戦の始まりは金太だった。カエデに派手に蹴り飛ばされ、意識を失った金太ではあったが、皮肉なことに金太の身を覆う脂肪がダメージが少なくしていた。受けた攻撃も、金太に限っては蹴り一つだった。
金太は、ゲラゲラゲラという迷宮の笑い声で目を覚ます。
血溜まりに沈んでいるタツマと、カエデに操られている3人を見た時に、『これはダメじゃ』と思った。今から自分がタツマを助けに行った所で、なんの役にも立たないと判断した。
戦況を覆すには、操られている全員の幻覚を解除するしか無い。それができるのはもみじだけだ。金太は自分に注目が向いていないのをいいことに、シーフらしく、こそこそともみじへと近づいていった。
その途上、金太と同じく遠くへと飛ばされて、タツマへと這いよろうとしていたオルタの進路と交差する。
オルタの上にちょこんと載った神剣を見て、ふと思い出した。オルタが毎日神剣を包丁として使っているという話を。
金太とオルタの間だけで、作戦は密かに交わされる。
「スティールじゃ、オルタ様がスティールを決めるんじゃ!」
卑劣な迷宮に対して、姑息な男がとった手段はだまし討ち。
「(正攻法で来ん相手に、正攻法で戦ってやる必要はないじゃろ)」
力では及ばなくとも、化かし合いならタヌキの領分だ。
金太はもみじの元へ、オルタは迷宮の心臓へ。
気づかれぬように、焦る心を抑えながら。
「(間に合ってくれえ!!)」
カエデに気づかれぬように、もみじを起こし、ウィリス達の幻覚を解かねば、チャンスは来ない。
カエデがタツマに気を取られている内に、作戦は遂行された。もみじが目を覚ましたのと、カエデの薙刀が振り上げられたのは同時だった。
「(あかん、間に合わん……ッ!)」
そして、成功する。
間に合わないとおもった作戦が、何故か間に合った。
カエデの刃はタツマの腰元で、何故か止まった。
首をかしげるよりも、金太は声を上げた。「今じゃ!」と。
▲
▼
台座の上の迷宮の心臓。
髪を斬られ、さらに小さくなったオルタには、両手を掲げてギリギリで手が届く高さだった。だが、届く。
神剣の刃は迷宮の心臓に届く。
背伸びしなが神剣を振るうその寸前に、オルタとタツマの目が合った。
孔のようなオルタの目が、何故か泣いているようにタツマには見えた。
「オルタ様ぁーー!!」
神剣が振りおろされる。パリンと何かが、割れる音がした。