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第25話 夢魔の淫夢




この迷宮において、タツマはこれまでに二度、空気が変わった事を感じた。


一度目はセーフティーゾーンから迷宮に足を踏み入れた時。二度目は公園の迷宮から第一病棟へと侵入した時。

二度とも世界が裏返ったような、黄泉の世界に迷いこんでしまったような錯覚を味わった。

踏み込んではならぬ境界を超えてしまったのだと。そう錯覚した。



あれは所詮錯覚だったのだと、タツマは今なら思う。



Hの円。ドアも無ければ壁もない。剥がれかけたオレンジ色のペンキで地面に描かれただけの境界。僅か直径30Mの空間に過ぎない。



しかし、そこは確かに地獄(HELL)だった。



つま先が境界を踏み越えた瞬間、痺れが走った。痛いと、冷たいと、焼かれたと、刺されたと、喰われたと…、そう感じてつま先を見た。


足は無事である。恐怖と本能が見せた幻だった。


タツマが視線を下に落としたのはホンの一瞬の出来事だ。無事だったと、僅かに心の緊張を解いてしまった。



それがタツマの隙となる。



再び目を上げると、視界は真っ黒に塗りつぶされていた。


深く、厚く、重く、冷たく、べっとりとした黒だった。一切の光が届かぬ、深海のような黒だった。

自分の身体も真っ黒に染まっていた。手も、足も、魂も、全てが黒く塗りつぶされていた。


一面の黒の中で、たった二つの黄色があった。不気味に輝く黄色い光だ。いや、光ではない、それは黄色い闇だと、タツマは思った。



黄色い闇が、タツマの目を捉えた。黄色い闇が嗤った気がした。


黄色い闇の正体は、醜く、恐ろしく、濁りきったカエデの目だった。


黄色い目が一面の黒の中で丸く膨れ上がった。目は、大きな二つの卵になった。


黄色い卵だ。卵がどんどんと膨らんでいく。殻が弾けて、何かが孵る。二つの黄色い卵から、何かが一斉に湧き出てきた。


生まれたのは蛭のようなラッパだった。巨大で黄色い、ぐにゃぐにゃと動く7つのラッパだ。



ラッパが、一斉に鳴った。



7つのラッパが叫び声を上げる。口から黄色い体液を吐き出しながら、何万人もの女の悲鳴を一度に合わせたような強烈な不協和音を奏でた。

黄色い雨がびちゃびちゃとタツマの身体に降り注ぐ、服と身体がみるみると溶けた。



7つのラッパの叫び声は、赤ん坊を産むための妊婦の声だった。叫び声の後には、黄色い血に塗れたカエデが、にゅるりとラッパから生まれた。

7つのラッパから、7人の黄色いカエデが生まれた。生まれたままの、死んだままの姿だった。



カエデの14の黄色い目が一斉にタツマを見た。醜かった。肌は爛れ、ひび割れ、肉は張りを無くして、骨が所々浮かび上がっていた。



7人ともとてつもなく醜い姿ではあったが、タツマは見惚れた。

心ではなくタツマの欲が、下半身が見惚れていた。



7つの口が-あん-と開いた。黄色く濁った歯の奥で、赤い舌がチロチロと揺れていた。

タツマの下半身がズクンと疼く。



『カエデさんがお腹をすかせている』と、タツマは思った。


『フランクフルトはどこだったろうか』と、タツマは思った。


『フランクフルトが何処にもないから、自分の首を差し出そう』と、タツマは思った。



だからタツマは、頭をぬっと前に突き出した。


お辞儀するように頭を前に差し出しながら、タツマは興奮していた。


自分の首がカエデに喰われる瞬間を想像するだけで、痺れるような快楽を覚えていた。


カエデに喰われて腹の中に入れば気持ちがいいだろう。

赤子のように気持ちがいいだろう。

そう、想像するだけで堪らなかった。




-須田さんッ!!! 退いてぇッ!!!-




視界が変わる。黒い闇も興奮も快楽も一斉に退いていく。欲に沸いていた頭が一瞬で冷えた。



世界は再びぐるりと裏返って、屋上へと戻る。ひび割れた灰色のコンクリートの地面がタツマの目に飛び込んできた。オレンジ色のペンキも見えていた。



-頭を起こしてッ! 首を退いてッ!!!-



カエデの強力な幻覚を破ったのは、もみじの感覚同調だった。自分の視界ともみじの視界、二つの映像がタツマの脳に同時に届けられる。

タツマの視界は地面を見ている。タツマの後にいたもみじの視界は、深々とお辞儀をして首を差し出しているタツマと、薙刀をタツマの首へ振り下ろそうとするカエデの姿を捉えていた。



我に帰った時には遅かった。カエデは恐ろしく速かった。



頭を起こす暇など無い。圧倒的な死の気配をうなじに感じた。

『最初に幻覚が来る』そうカエデが警告していたにも関わらず、タツマはまんまと夢魔の幻覚に嵌っていた。



カエデともみじは夢魔の血を引く一族である。


夢魔の血脈は冥府の女神・リリスに遡る。夢魔はリリスの子達として、夜と性欲の悪魔として、古代から中世にかけてもっとも恐れられてきた悪魔だ。

死の迷宮である軍艦病院が、カエデを迷宮の花嫁としたのも、メソポタミアの冥府の女王であるリリスの血を嗅ぎとった故なのかもしれない。黄泉に生きる自分の花嫁としてふさわしいと。


夢魔は人の眠りに侵入し、淫夢を見せて魂を奪う悪魔だと言い伝えられている。

しかしその淫乱な性質に反し、夢魔の血を引く一族の数は極端に少ない。


夢魔は邪な夢を見せる隙に魂と命を奪う悪魔である。わざわざ人と交わってやる必要など無い。


その僅かな例外、現在にも残る本物の夢魔の血脈の一つ。それがカエデ達の家系であった。

夢魔が本気で人を愛し、人との間に子をなしたなどという言い伝えが、カエデ達の家には残されている。



カエデは一族の中では特に強い力を持っていたが、それでも、本物の夢魔には遥かに届かぬはずだった。せいぜい見た目を誤魔化したり、敵一匹に幻覚を見せて視覚を奪うといった手合のものである。

本物の夢魔の淫夢など使えないはずだった。


しかし、人としての死を迎え、黄泉の迷宮の花嫁になったことにより、カエデは今、夢魔そのものになったと言える。


本物の悪魔である夢魔。その力は神族にも拮抗する。神の寵愛を受けた聖者を悉く堕落させ、命を奪ってきたのが夢魔なのだから。

夢魔の幻覚は、人間の道徳だとか理性だとか、生物の生存本能ですら、たやすく性欲で塗りつぶし、相手の意志まで支配してしまう。

故に夢魔に夢を見せられた者は二度と悪夢から醒めること無く、自ら望んで命を刈り取られるのだ。



ちょうど今、タツマが頭を垂れて、命を差し出しているように。




-須田さんッ!!-




もみじの声がもう一度脳に響いた。もみじはベストを尽くしていた。8人全員との感覚同調に成功していた。

ただ、遅れてしまった。成功はしたが、速やかにとは行かなかった。姉の幻覚の発動から2秒近くは遅れた。

タツマが幻覚を見たのはたったの2秒。2秒でタツマは死線に身体を投げ出していた。


夢魔の幻覚という物を心の何処かで舐めていたのかもしれない。所詮幻覚に過ぎないと思っていたのかもしれない。


本物の夢魔の幻覚は、人の命など簡単に刈り取る。



タツマだけではない。全員がカエデの幻覚に嵌っていた。しかしその中で、カエデ真っ先に狙いを定めたのが、タツマだった。

カエデの薙刀が高い位置から、タツマの首筋に向けてギロチンのように振り下ろされるのを、もみじの視点からタツマは見ていた。



死んだと思った。



その瞬間にカエデの視界も切れた。8人全員との感覚同調は、瞬きの間も持たなかった。


今、タツマの目には屋上のコンクリートしか映っていない。一度解けた幻覚には二度と嵌まる事はないが、今のタツマはそれどころではない。



-顔を上げなきゃ!-



自分の意志に身体が遅れている。躱しきれない事が分かった。

それでもタツマは顔を上げる。



ギィイイッっという音がタツマの脳に響いた。



死んだつもりで頭を上げた。首が落ちたと思いながら顔を上げた。

タツマの首はしっかりと繋がっていた。




顔を上げれば、薙刀のギロチンはアイアンの腕に半ばまで食い込んで止まっていた。






カエデの幻覚は、全員に等しくかけられた物である。幻覚の効かぬもみじ以外、全員がタツマと同じ風景を見ていた。



タツマがカエデに殺される事を『そういうもの』として、カヤもイクアラも何故か受け入れてしまっていた。

夢の中で、自分の思い通りに身体が動かない。抗えぬまま悪い方へ悪い方へと向かっていく。奇妙な感覚を味わっていた。



自分の身体と意志が切り離されていた。『動けない』そう思い込まされていたカヤやイクアラは、七人のカエデがタツマに襲いかかるのを、ただ、ぼうっと見ていた。


自分の愛しい人、自分の親友の首が落とされるのを、ただ見ていた。



全員が幻覚を見せられ、もみじが感覚同調に神経の全てをつぎ込んでいる中、ただ二人だけ、動けた者がいた。



まずは、アイアン。



タツマを守る。



アイアンはそれだけを考えていた。


『戦いが始まったら、私は必ず神剣を持つ人間を狙うと思うの』戦いが始まる前の、本物のカエデの言葉を信じていた。

信じるべきは目に映る物ではなく、本物のカエデの言葉。守るべきは本物のカエデが守りたいタツマ。



タツマと同じように幻覚を見せられた時、アイアンは幻覚から目を離しタツマを視界に捉えた。タツマが頭を下げたのを見て。何処を守るべきかを判断した。


二年間、ブロックだけを磨いてきたアイアンの技術と勘が、正しい位置に、自分の体を滑りこませた。


カエデが振るうのは鉄をも断ち切るであろう妖刀。高速の振り下ろしは、恐ろしく鋭く、重かった。



死の薙刀の一撃に対し、アイアンは己の鍛え上げた鉄の上腕二頭筋だけで迎え打った。



紫の刃が銀色の力こぶに食い込んだ。



ギィイイイッという、文字通りの金切り音が上がった。妖刀の刃が鉄の筋繊維を次々と切り裂いていった。


血しぶきが上がった。鉄の肉体を持つアイアンの、滅多なことではお目にかかれない赤い血だ。

カエデはアイアンの腕ごと、タツマの首を切り落とすつもりなのであろう。いっそう強く刃を振リかざした。

悪魔となったカエデの渾身の一撃を、アイアンは腕一本で迎え討った。



「オォオオッ!!」



己の体に食い込んでくる刃に対し、アイアンは一歩も退かない。


ラリアットで押し返すように、アイアンは腕を持ち上げた。己の肉体は鉄よりも硬いと信じて、肉をさらに硬する。硬くあれと、願う。



タツマを守る為に、本物のカエデの願いを守るために。



偽物のカエデの薙刀は、アイアンの鉄の筋肉に二寸ほど食い込んで、止まった。



首と命を繋いだタツマは、カエデの顔を見た。

カエデの顔が、忌々しげに歪んでいた。醜い魔物の顔がそこにあった。



カエデではあるが、カエデではない。カエデはこんな醜い心はしていない。


本物のカエデの心は、迷宮に塗りつぶされているのだと、タツマは理解した。



醜く歪んだ魔物の顔が、次の瞬間さらに歪む。


魔物が視界に捉えたのは赤い拳。


それは狼男の赤い拳だった。




「ッらぁああッ!!!!!」





バーンの容赦の無い、全力の拳が、カエデへと伸びる。



カエデが見せた幻覚の中で、動けたのはアイアンと、バーンだけだった。



バーンも、ただ一つのことだけを考えていた。




カエデを殴る。




バーンはそれだけを考えていた。『殺す気で来なさい。私は絶対に殺されないから』

自信満々に言い放った、カエデの言葉を信じた。

タツマと同じように幻覚に惑わされながらも、カエデを殴ることだけを考えていた。


どんな幻覚がこようが、カエデを殴る。

女を殴るなどバーンには初めての経験であったが、躊躇いはなかった。



カエデの為に、カエデを殴る。



力いっぱい、殺すつもりで、頭を吹き飛ばすつもりで必殺の拳を振りぬいた。



本物のカエデの願いと約束を乗せたバーンの赤い拳が、偽物のカエデの頬に突き刺さった。





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