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第24話 境界を超える者達


オルタがタツマの手からするりと抜けだすと、治療の為にバーン達へとカサカサと走っていった。

ここまでタツマ達を引っ張ってきたイリアの催眠も、もみじによって速やかに解除された。

カエデが守る屋上のヘリポート。左側の階段から駆け上がってきたのは5人。


その先頭に、カエデの夏がいた。



「わからないです。俺には」



瀬戸内の暖かい海風が吹き抜けると、カエデの髪がもう一度揺れた。


風で僅かに乱れた髪を、カエデは手櫛で後ろに流して整える。

厚く艶のある唇をギュッと噛む。一瞬漏れた声と心を引き締めるように。

驚きに縦に開かれた目を、鋭く横に長い物に変えると、冬の空気のように冷たく乾いた声で言った。



「何故ここにいるの、もみじ? 私、今度会ったら殺すって言ったわよね」



カエデが見据えるのはもみじ一人。タツマとは目を合わせない。

タツマなどそこにいないかのように、その横の妹を睨みつけた。



「殺されても構いません。姉さんにもう一度、会いに来ました」



「会いに来ました。カエデさん」



もみじとタツマ、二つの言葉が輪唱される。

カエデは眉根に皺を寄せ、もみじだけを睨みつける。自分の本当の姿が見えているはずのもみじだけを。


カエデの目にはタツマの姿など映らない。カエデの耳にはタツマの言葉など聞こえない。

少なくともそう、カエデは振る舞い続ける。



「殺されてもいいだとか、生きている幸せも義務も知らないからそんな事が言えるのよ。貴方が死んだら、父さんと母さんがどれだけ悲しむと思っているの?」



「姉さんこそ! 父さんと母さんがどれだけ悲しんだか知らないくせに! 私達がどれだけ哀しんだか知らないくせに!」



「カエデさんって呼ぶのも変な感じですね。俺たち互いの名前も知らなかったんですから。コンビニの店員と客、それだけの関係だったんですから」



「…私には関係のないことよ。貴方と私では住む世界が違うの。私はね、あなた達人間がモンスターって呼んでいる存在なのよ。私の事、姉さんだなんてもう呼ばないで」



「嫌です! 姉さんは私にとってたった一人の姉さんです! 大好きな姉さんの事、姉さんって呼べるのは私だけなんです!」



「俺、カエデさんの名前も知りませんでしたから、心の中でずっと午後9時の淑女って呼んでたんですよ。いつも夜9時に来る綺麗な格好をしたお嬢様って意味です。最近は午後10時の淑女って呼んでます。カエデさんはオレのこと、私の夏って呼んでくれましたけど」



「……聞き分けのない子ねえ。私はモンスターなのよ、永遠の冬の世界に、死の世界に住むボスモンスターなのよ。今はもう、貴方の姉でもなんでもないわ」



「私は姉さんの妹です! 誰が何と言おうが姉さんの妹です! モンスターでも、生きていなくても構いません!」



「今更ですが、自己紹介してもいいですか? 俺、タツマです。須田タツマって言います。冒険者部の一年で、カエデさんの後輩になります」



「昔の話よ。今の私には関係ないわ。貴方が誰であろうと、何であろうと」



「関係あります! 私はずっと、生まれた時からずーっと姉さんと一緒だったんです! 姉さんと過ごした時間が、私の全てだったんです!」



「俺、カエデさんの事よく知りませんし、コンビニの中だけの、ほんの僅かな時間だけの関係でしたけど。からかわれたり、際どいことばっかやらされて、正直苦手でしたけど。でも、不思議と嫌じゃなかったんですよ」



「……それがどうしたって言うの? 貴方と過ごした時間なんて、これから永遠にここに住む私にとっては、きっと一瞬の出来事よ。楽しいことも、嬉しい事も、貴方の事も、すぐに全部忘れてしまうわ。貴方もとっとと私の事なんて忘れてしまいなさい」



「忘れません。大好きな姉さんの事は絶対に忘れません!」



「たぶん、心の何処かで楽しみだったんですよ。貴方がコンビニにやってくるのが。約束なんてなかったですけど。貴方はいつも忘れずに、同じ時間に来てくれました」



「勝手な事ばっかり言っていないで、帰りな‥さいよ。いい子だから、帰ってよ。何で‥、黙って帰ってくれないの…?」



「帰りません! 悪い子でもいいから帰りたくありません!」



「カエデさんが突然いなくなって、何でって思いましたけど、俺、何をするべきか解らなかったですけど……」



「……もう、…放っておいてよ…、私を一人に、しておいてよ」



「嫌です! 姉さんこそ私を一人にしないでください!」



「俺の守護神様が言ってくれたんです。カエデさんが一人で寂しいだろうって。馬鹿ですよね、俺。少し考えてみればわかるのに、寂しいに決まっているのに。こんな迷宮の中で、カエデさんが一人で寂しいに決まっているのに。だから俺…」




「ぁ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」




髪をグシャグシャと掻き毟ると、カエデは突然、叫んだ。

もみじと会話を続ける間、石膏のように塗り固めていたアルカイックスマイルが、ぐるりと怒りの表情へと変わった。


限界だった。無視し続けることに限界だった。カエデはその目を、遂にタツマの方へ向けた。

真夏の鬱陶しく熱い太陽を睨みつけるような。憎々しげな目だった。




「何よッ! 何よッ! 何なのよあなたは!! 何で割り込んでくるのよ! 空気も読めないのッ!? 私は今妹と話しているのよ! さっきからズケズケ、ズケズケ、ズケズケ、ズケズケ、私ともみじの間に踏み込んできて! 好き勝手に一人で喋って! 何で分かってくれないのよッ!? 私は貴方に会いたくないの! 私は貴方を見たくないの! 貴方に話しかけてほしくないの! 何で私に会いに来たのよ! 何でそんな嬉しそうな目で私を見るのよ! 何でそんなに楽しそうに私に話しかけてくるのよッ! どういうつもりなのよ貴方はッ!」



「だから俺は、貴方に会いに来たんです」



「あ゛ぁああッ!!」



怒声とも歓喜ともつかぬ境界ギリギリの叫びがカエデの口から漏れた。



怒りの声をぶつけるつもりだったのだろう、しかし口から飛び出た叫びには歓喜が混じってしまっていた。

口を「あ」の形にしたまま、それを自分が出した声だと気付いたカエデは、慌てて口元を抑えて、隠す。



両手を口に当てながら、何かに耐えるように身を縮めるカエデに、空気の読めない乱入者は攻撃をやめなかった。



「あなたに触れに来たんです」



-あぁっ-という小さな声が、手と口の隙間から漏れていた。

硬く固めた躰の中で、不意に柔らかいところをぎゅっと押されてしまった時に出るような、油断した声だった。

女の見栄と理性でガチガチに固めてたはずの心、その隙間を縫った不意打ちに、カエデの心は揺さぶられる。



「あなたにもう一度、触れに来たんです」



カエデの唇がガチガチと鳴った。

まるで今更寒さを思い出したように、ガチガチと歯が鳴り出した。



「なんでよ…」



震える歯から生まれた声も、同じように震えていた。



「なんで…、なんでそんな事いうのよ!」



「カエデさんが俺に言ったんじゃないですか。もう一度触れてくれって、俺、あの時のカエデさんのお願いをまだ聞いていません」



カエデの目がぐらぐらと泳いだ。居場所を無くして左右に揺れていた。

タツマから目線を左右に動かしながら、視線が通り過ぎる度にタツマを見る。

タツマから目を逸らしきれない。

カエデの見栄が、女のギリギリの我慢がぽろぽろと崩れていく。



「無理よ…。私には触れられないわ。貴方がわたしに触れる前に、私が貴方を殺すもの。この子が、嫉妬深い迷宮が、今も貴方を殺せと言っるの」



カエデは迷宮の心臓を撫でながら、震えた声でそういった。無理だと言いながら、その顔が震えていた。恐怖と喜びに震えていた。



「殺されません。俺が貴方に触れるまでは」



迷宮の心臓を撫でていた手がビクリと止まった。止まった後に、手も震え始める。



「脅しじゃ……、ないのよ。私は本当に、貴方を殺すのよ。私のお願いなんて忘れなさいよ。お願いだから忘れてよ。ただのコンビニの客の、頭のおかしな女の願い事なんて忘れてよ…」



忘れてと言いながら、その目には諦めだけではなく、縋りつくような期待の光が込められている。



「嫌です。だって俺は貴方に触れたいんだから」



―あぁっ-



カエデの口から、また、喜びの心が漏れてしまった。

喜びと恐怖で、カエデの身体全部が奮えていた。



言いたいことを一人で勝手に言い切ったタツマは、カエデに向かって歩きだす。

タツマが足を踏みしめる度に、タツマが自分へと近づく度に、-あ、あぁ-と、カエデの絶望と微かな希望の声が漏れ出していく。

タツマが円の中に入ればすぐにでも殺してしまうだろう。あの首を薙刀で刎ねてしまうだろう。

それでもカエデは、タツマを止められない。タツマの足を止めるための声も、蹴りも、幻影も、放つ事ができない。

999の絶望の中で、たった一つの希望を知ってしまったのだから。



愚かな女は、小さな希望にすがりつきたくなった。愚かな女に、愚かな男は止められなかった。

タツマは悠々と、カエデのテリトリーであるHの円、その境界を踏み越えようと足を延ばす。


カエデは世界を覆うほどの絶望に、欠片程度の希望を載せた眼差しで、その足を、今正に線を越えようとした足を見ていた。

地獄の蓋が開く瞬間を、愚かな彼女は止められなかった。



「待てェっ!!! タツマァッ!!」



足は、線を超える寸前で止まった。

カエデに何を言われても止まることが無かったタツマの足を止めたのは、タツマの仲間であるバーンだった。



「そこを越えりゃあ地獄が始まるそうだ。そうなるともう、おめえだけの問題じゃあねえんだよッ!」



その言葉に、タツマは「あっ」と言って踏みとどまると、差し出した足を戻した。


カエデの口からも-あっ-と声が漏れた。愚かな二人に、最後の分別が生まれてしまった。


タツマの足と共に、カエデの理性と意地が踏みとどまる。女は愚かではあったが、パンドラの箱を開ける前に我に返った。



「そうっ! …そうよッ!! 私、一度魔物の本性を表すと止まらないのよ! ここにいる全員を殺してしまうの! 迷宮に命じられるままに、貴方だけでなく、妹も、可愛がっていた後輩も、見知らぬ後輩も、全員をッ!! だから、だから…」




「だから、全員でいくぞ」




バーンの言葉にカエデの息と言葉が止まった。カエデは愕然と、バーンを見た。



「全員で、準備してから越えるぞ」



愚かな二人を止めた男は、ホンの少しだけ賢かっただけで、やはり同じように愚かだった。



タツマは今、丸腰である。

バーン達の治療を終えたオルタが、タツマ元へと急いで戻って来る。タツマの手の中にぴょんっと飛び込むと、共に戦うという意志を示すように右腕に巻き付いた。「一人で行こうとしてごめんなさい」と、タツマはオルタに謝った。



「…何? 一体何なのよ、その剣…?」



カエデはタツマの持つ剣を初めて見た。疑惑と、期待を混ぜた目でタツマの手の黒い剣を見る。



「俺の守護神のオルタ様と神剣です。何でも癒やすオルタ様と、何でも断ち切る神剣です。例え貴方に傷つけられてもオルタ様がきっと癒してくれます」



「何でも癒して、何でも断ち切る…」



神剣は何でも切れる。例えばそれが迷宮の心臓だとしても。

カエデが守る迷宮の心臓の鳴動が、まるで怯えているかのように早くなる。

カエデの偽りの心臓の鼓動も早くなる。

希望に煽られ、早くなる。





-アォオオーン-





タツマの心臓がドキリとしたのは、ハウリングがすぐ側で響いたからだ。


バーンだった。狼の雄叫びを海に向かって上げていた。

バーンの見据える先、瀬戸内海の向こうから、丸く大きな月が顔を出している。


バーンの体がタツマ達の目の前でみるみると膨れ上がっていった。

筋肉が膨張し、毛深い体毛がいっそう濃く繁りだすと、毛皮のように変わっていく。

猿のようであった顔の輪郭が、狼のように鋭く前へと尖っていく。

狼化。

ダンジョンの中では決して見ることのできないバーンの切り札である。

満月の輝く空の下こそ、人狼のバーンはその力をもっとも強く発揮するのだ。



「『全員で』っつったが強制じゃねえぞぉ。帰りたい奴はそこの出口から降りろ。恨みもしねえし、侮りもしねえ。ここからは本物の地獄らしいからなぁ!」



暫くバーンは待ったが、動き出す者は誰もいなかった。カエデの目線だけがあちこち彷徨い、揺らいでいた。

バーンは狼の口を愉しそうに歪めると、カエデを見据える。



「満月の下なら、例え相手がカエデさんでも負けねえよ」



一回り躰が大きくなったバーンが、タツマの右隣へと歩いて行った。




バーンの反対から、アイアンが無言でタツマの左隣へと歩きだす。

両肩と首をぐるりと回して軽くほぐすと、カエデの方を向いた。



「昔よりずっと硬くなった。カエデさんでも、俺を壊せない!」



豊かな鉄の大胸筋。胸を張って、己の丈夫な肉体をカエデに見せつけた後、アイアンは腰をどっしりと落とした。

片足を僅かに退いて低く構えると、相撲の立ち会いのような姿勢になった。鈍足のアイアンにとっては、これがもっとも早く動き出せる形である。

鉄巨人の準備も整った。



「Hojotoho! Hojotoho!」



最初は楽器か、馬か何かのいななきだと思った。

メロディーがあるので歌声だと分かった。夜の空を切り裂いてしまうような高く突き抜ける声だった。



「Heiaha! Heiaha!」



オルタの回復魔法で表面上の怪我を癒やしたとは言え、中身は疲労困憊、満身創痍のタツマ達の体にみるみると力が湧いてくるのがわかった。

どこから力が湧いてくるのか、タツマは力の源を探す。



「Hojotoho! Heiaha!」



槍を右手に、ヴァルキューレが歌っていた。



「…ウィリス、先輩?」



鋭く、高く、強い。ソプラノ・ドラマティコ。

どういう意味の言葉なのか、何語なのかすらもわからぬ歌声は、脳にではなく魂に直接響き、タツマ達の全身を貫く。



「Hojotoho! Hojotoho! Hojotoho! Hojotoho!」



魂が捻られ、螺旋を描き、そのまま空へと持ち上げてられていくような感覚をタツマ達は味わった。

魂が踊りだす。体と神経が研ぎ澄まされていく。

これが戦いの歌なのだと、初めて知った。



「ウィリスてめぇ…、こんな隠し球持ってやがったのかよ」



3年間共にいたバーンも知らなかったウィリスの能力だった。

ウィリスは9人のヴァルキューレの一人である霧のミストを守護神に持っている。

ミストからウィリスに与えられたアビリティーは全部で3つ。『身体能力向上』と『ミストの槍』、そして『戦意高揚』。

ウィリスの歌声は3つめのアビリティー『戦意高揚』を発動させる為の戦乙女の歌だった。

その効果は9人のヴァルキューレ達の神話に倣い、自分を含めた9人の人間の戦意を高め、潜在能力を引き出す事にある。

手札の多いウィリスにとっても、戦乙女の歌は本当の最後のカードである。




「Heiaha! Heiahaha!!!」



最後のフレーズを歌い終わったウィリスは、ドンと槍の柄で地を打つと、カエデを真っ直ぐに見て、気を吐いた。



「カエデさんの事大好きだから、絶対に殺されてあげないもん!」




ウィリスはタツマのすぐ後へと並ぶ。バーン、アイアン、ウィリス。カエデに縁の深い三年生達が、まずはカエデに意志を示した。



「バーンに貸しつくったまま、逃げ出すわけにものぉ」



金太はバーンの隣に立つ。言葉では不承不承に同意を示す金太の顔は、笑っていた。



「タツマのフォローは私の役目!! 一人で勝手に行かないでよ!」



カヤの宣言には、僅かな嫉妬も混じっていたのかもしれない。タツマの左後に並ぶと、タツマの脇腹をキュッと捻った。



「こんな面白そうな戦い、参加せねば一生後悔するというもの。こっち側のフォローは任せろ! タツマ!」



イクアラはいつもの知的な笑みではなく、裂ける程に獰猛な口元を釣り上げると、タツマの右後に立つ。



「き、き、気がついたら屋上におるっ!? よ、ようわからんけど、みんながおるから頑張れるけえ!」



事態をほとんど把握していないイリアではあったが、ギュッと杖を握ると、遅れまいとパタパタとかけて、集団の後ろに並んだ。



8人が固まってカエデを見て、そしてもみじを見る。



「須田さん、バーン先輩、皆さん…、本当に‥、本当にありがとう。私だけじゃ、どうしようもなくて。姉さんの為に‥、本当に、ありがとうございます。姉さんの為に…」



もみじだけは、その場に立ち尽くしていた。「姉の為にありがとう」と、全員に頭を下げた。



「お前の為でもあり、みんなの為だ」



アイアンの言葉に、もみじはくしゃりと顔を崩した。



「とっととこっちに来んかい、もみじ。ブランクを言い訳にすんなや」



金太の発破に頷くと、もみじが最後の一人として、9人の集団ができあがる。



18の瞳が、カエデを真っ直ぐに見つめた。眼のないオルタも、臨戦態勢に入っている。



「つーわけだカエデさん。不出来な後輩ばっかだけどよぉ、これが俺たちの意志だ!」



全員の意志を纏めたバーンの言葉が、カエデにぶつけられる。

まっすぐに自分へと向かってくる9人と一柱の意志に、カエデはたじろいで、後ずさる。



「……何よ、何よ、何なのよあなた達! 弱いくせに、後輩のくせに! 一体どういうつもりなのよ!!」



「カエデさん。俺たちは皆、貴方の為に、俺達の為にここにいるんです」



集団の先頭で、追い風を受けたタツマが言った。



「教えてください。俺たちに何ができますか? カエデさんの為に何ができますか?」



声は一つであったが、それが全員の言葉だ。

愚かだったのは、カエデやタツマ達だけではなく、この場にいる全員だった。



「貴方の本当の願いを教えてください。俺は、俺達は、貴方の望みを全力で叶えます」



全力で見つめてくる18の瞳に、カエデはさらに後ろに下がると、ドンと何かにぶつかった。

迷宮の心臓を載せた台座だった。



迷宮の心臓が怯えるように鳴動している。

カエデは迷宮の心臓を守るように、大事に両手で抱えると、口をパクパクと動かした。



ボスモンスターとしての本能とカエデの理性、それに対し、カエデの願いと欲が抗っていた。



「わた‥、わたしを…」



本能は迷宮を守れという、理性はタツマ達を帰すべきだという、

しかし愚かで憐れな女の心は、浅ましくも別のことを考えていた。



「お願い‥、わたしを…」



『放っておいて』と、言うべきだと解っていたのに、

口から飛び出た言葉は、別の言葉だった。



「……解放してッ!!」



遂に心を曝け出してしまったカエデに、タツマは微笑んで答える。



「はい、わかりました」



一度堰が破られると、もう、止まらなかった。



「貴方の剣でこの子を滅ぼして、私を助けて!」



「はい、わかりました」



欲の深い女は、次々と願い事を言う。

七夕の空の下で、ありったけの願いを言う。



「それで私に、…私に、もう一度触れて! 貴方の暖かい手で、私の頬に触れて! しっかりと触れて私の頬を撫でて!」



「はい、わかりました」



絶望の女の願いに、最後の希望が笑って答える。



「私の…、冷たく寂しい冬を終わらせて! 私の夏!!」



「はいっ! わかりました!」



冬の願いに、元気な夏が答えた。





・・・・・・・



・・・・・・・






「…いい? 一度戦いが始まったら、体制を整えようだとか、持久戦に持ち込もうだとか絶対に思わないこと。こっちは不死身な上に体力も無限なの。戦いが長引けば、誰かが死ぬわ。どんどんと死んでいくわ。速攻で一気に決めなさい!」



『はい!』という9つの声が重なる。



「1対9だけど、油断も手加減も絶対にしちゃ駄目よ。私はとんでもなく速くて強くて、容赦もないわ。ウィリスを蹴った時の比じゃないわよ。一撃一撃が全部必殺の致命傷になると思いなさい! 特に薙刀には絶対に気をつけて、死んだら回復魔法も効かないんだから」



『はい!』という返答が再び重なる。

カエデの指令に、元・魚里高校最高の司令塔キャッチャーの言葉に全員が従っていていた。

心の内を晒してしまったカエデは今、もう、開き直っていた。



「迷宮は神剣におびえているわ。戦いが始まったら、私は必ず神剣を持つ人間を狙うと思うの。喰い止めて、全員で彼を迷宮の心臓の元へと、道を開いて。迷宮が滅べば、私の洗脳も攻撃衝動も解けるわ」



殺せと命じる迷宮の衝動に抗いながら、カエデは凛と立って、15m離れた場所からタツマ達に激を飛ばしていた。

迷宮の心臓を大事そうに後手で守りながらも、堂々と迷宮を裏切っていた。




「まず最初に、私はきっと、幻覚であなた達を混乱させようとする筈よ。どんな幻覚かはわからないけど、惑わされればアウトだと思って。モンスターになってからの私の幻覚の能力は以前の比じゃないわ。9人全員に幻を見せることぐらい朝飯前よ」



迷宮だけではなく、僅か先の未来の自分も裏切っていた



「だからもみじ、貴方が全員の目になりなさい。感覚同調、できるでしょ? 開戦と同時に8人全員と視覚を合わせなさい」



「そんな!! 私には無理です! 8人全員と感覚同調なんて!!」



感覚同調。精神に関わる技が多い夢魔の術の中の奥義である。

夢を見せるのと同じ要領で、うつつを見せる。言葉の助けを借りる事無く、意志を伝える事もできる。

万十カエデが魚里高校最強のキャッチャーとして君臨していたのは、その感覚同調に理由があった。言葉を使わぬから命令のタイムラグがない。選手の死角の風景も届ける事ができた。


もっとも、感覚同調の能力は欠点もある。魔力の消耗が激しい故に、長い時間使えるものではないし、効果範囲も狭い。人数が増えるほどに難度も段違いで跳ね上がって行く。

もみじの感覚同調はこれまでは最高でも3人相手が限界だった。病に倒れる前の全盛期のカエデでですら6人が限界だった。



「やりなさい。できなければ誰かが死ぬわ。最初のホンの1・2秒でいいの。貴方ならきっとできるから。私の幻覚を見破る事ができるのは貴方だけなの」



「でも、わたし…。できない‥、できないよ、姉さんみたいに上手くできないよ」



「お願い…、貴方だけしかいないの。貴方だけができる事なの。わがままで、最低で、こんな頼み事を私ができる筋合いなんてないけれど、皆を、助けて。……私を、助けて…、もみじ」



最後は消え入りそうな程にか細い声だった。カエデの黄色く濁った目が不安そうに揺れている。

もみじにだけには、ずっとカエデの本当の姿が見えている。



もみじの目に映るカエデは、憐れで、醜く、必死だった。

生前のカエデは、強く、美しく、いつも余裕たっぷりで、もみじを可愛がってくれた。

そのカエデが、記憶の中のカエデが見る影も無い。憧れの姉は、もう何処にもいないのだ。


もみじは一度目をギュッと閉じて、血がにじむほどに唇を噛み締めた後、大きく息を吸い込んで、再び目を開いた。



もみじは、今のカエデを受け入れると決めた。

この時もみじは、初めて心からカエデと目を合わせた。

カエデの黄色く濁った目が、もみじにはもう怖くなかった。愛おしいとさえ、思った。



「はい。やってみせます、必ず!」



もみじの返事を聞いたカエデが、ホッと息をついて、微笑んだ。

どんなに変わっても、姉の笑顔はやはり最高に素敵だと、もみじは思った。



「こんな私ですが、皆さんの視覚と命を預けてください! お願いします!」



頭を下げるもみじに8人全員の了解の声が返された。



「ありがとうもみじ、大好きよ」



醜い顔で微笑んだカエデに、「わたしも、大好き」ともみじは言った。



「…それじゃあ皆、準備はいいかしら? そろそろ私も限界なのよ」



カエデが強く握る薙刀がギチギチと悲鳴をあげていた。



「いい? 絶対に遠慮しちゃ駄目よ。心配しなくてもアンデッドは絶対に死なないから。首を飛ばされても死なないから。少しでも遠慮したらあなた達が死ぬわ。殺す気で来なさい。私は絶対に殺されないから」



自信タップリに言った後、



「だからみんな、絶対に私に殺されないでね」



祈るようにそう言った。



「…あと、誰かがこの円の中に入った途端、私は幻影の魔法を攻撃にしか使わなくなる筈よ。だから、本当の姿が見えちゃうの。醜くて、汚い私の姿が…」



先ほどの自信とは正反対に、怯えた声だった。



「でも…、お願いだから、皆…」



震える声で、カエデは呼びかける。

皆に語った言葉であるが、カエデの目は一人の人物だけを見ていた。



「お願いだから…、私の事、嫌いにならないでね…」



「はい!」



タツマの間を置かぬ返事を聞くと、カエデは幸せそうに笑った。

とびっきりの笑顔をタツマの脳に焼き付けるように笑った。



カエデの笑顔に導かれ、タツマが境界線を越える。

カエデの願いを叶える為の境界線を。


空では天の川を挟んで、二つの星が瞬いている。




「もみじ、みんな、そして私の夏。ありがとう、大好きよ」




その言葉を合図に、戦いの幕が上がった。





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