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第23話 きれいなあなた






「カエデさん!!」



最初に駆け出したのはウィリスだった。ウサギが跳ねるように飛び出すと、真っ直ぐにカエデを目指した。

ウィリスはカエデが大好きだった。ウィリスの正確な魔法コントロールとタイミング、彼女が自分の持ち味をここまで磨き上げる事ができたのは、カエデとのマンツーマンの練習の成果だった事は、当時のメンバーなら誰もが知っている。

魔法使ピッチャーいと司令塔キャッチャー。仲の良い二人は、同性でありながら夫婦のように息が合っていた。

カエデにもう一度会えたことに、カエデが生きていた事に、ウィリスは喜びと共に飛びつこうとした。ウィリスの無表情が完全に崩れる程の喜びだった。



「動くな!!」



重い気合の声が刺すように響いた。特徴のある低めのアルトボイス。

カエデの指示だ。ウィリスの足がビクリと止まる。

カエデの言葉に従う事、それはウィリスの体に、心に刻み込まれているのだから。



「言ったでしょう、ウィリス? ボス部屋だって。それ以上近づかれると私、貴方を殺さないといけないのよ。そういうルールなの」



カエデの薙刀の切っ先がウィリスへと向けられる。禍々しいという他に表現しようのない武器だ。黒い蔦が幾重にも絡んで作られた柄に、不吉に輝く紫色の刃。

妖気に満ちた刃が、ウィリスに真っ直ぐに向けられていた。


なぜ、その刃を自分に向けるのか。なぜ大好きだったカエデが怒気と殺気をぶつけてくるのか、ウィリスにはわからなかった。「なぜ?」と尋ねようとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。



「ボス部屋とか、攻撃だとか! どういうことだよ!? カエデさん!」



沈黙したウィリスに変わり、バーンが叫んだ。


バーンもカエデの事を尊敬していた。尊敬する先輩であり、大切な友人だと思っていた。

カエデの気の良くあっけらかんとした性格は、学年も性別の垣根を感じさせなかったし、誰よりも強く頼りになった。

カエデと共に戦うと負ける気がしなかった。司令塔であったカエデは、バーンにとっては群れのボスのような感覚だった。


そのカエデが、何やら不吉な事を言っている。

言葉の意味を理解したくないから、尋ねた。解ってしまうから、否定して欲しかった。



「相変わらず周りが見えないのね、バーン。よく見てよく考えなさいって、あなたにはいつも言っていた筈よ。いい? ここは昇り型の迷宮の最上階。最上階にボス部屋があってもおかしくないでしょ? もう一つ、ここには私以外誰もいないわよね? 要するに私が、この迷宮のボスモンスターなのよ。二人とも、解った?」



「冗談キツイぜ……、カエデさん」



バーンは掠れた声でそれだけを言った。カエデのカミングアウトはバーンが思い描いた最悪の想像通りだった。周りが見えぬとカエデに評されたバーンとて、本当はそれくらい、察していた。



「私はね、冗談は言うし、シモネタも大好きだし、嘘だってつくけれど、これは本当。信じなさい。……でないと、死ぬわよ?」



低く優しい声音の中にも、剥き出しの妖気が込められていた。人の持てる気配ではない。

カエデの言葉が真実であることを、バーンは唾とともに飲み込んだ。



「見えるでしょう? そのHの丸」



カエデが薙刀で地面に描かれた円を示した。

ヘリポートとなっている屋上にはオレンジ色のペンキで巨大なHの文字が書かれている。そのHの記号は、直径30m程の大きく太い色の丸でかこまれていた。


バーンとウィリスのすぐ目の前に、剥げかけたペンキで丸く切り取られた境界がある。



「そのHの丸の中に入ってきちゃだめよ。HはHな子って意味じゃなくてHELLのHなんだから。そこを超えたら、本物の地獄が始まるわよ」



バーンは無意識の内に一歩後ずさっていた。壁も扉も、遮るものは何もないただの地面。そこに描かれた何の変哲もない標識。それが地獄への入り口らしい。



「いい? この丸の中には絶対に踏み込まないようにして、あちら側の出口まで行きなさい。向こうからも何人かこっちに向かってきているようだから、合流してみんなでお家に帰りなさい。今回だけは見逃してあげるから。もみじのことなら心配はいらないわ。こっちで対処しておいたから」



地獄の中央に立つボスモンスターは優しかった。

子供に言い聞かせるように帰りなさいと言った。



「バーン先輩、ここはひとまず…」そう、イクアラが囁いた。「退いた方がええ」と、金太も頷いた。

バーンはどうすれば良いかわからなかった。

カエデはバーンの記憶通り、優しくてきれいだった。ボスモンスターだなどとはやはり思えなかったし、思いたくなかった。

しかしこのH境界を超えてしまうと、全てが終ってしまう気がした。



「やだもん」



一人、聞き分けの悪い子供がいた。



「一緒に帰ろうよ。カエデさん」



ウィリスが前へと歩く、Hの丸の中に踏み込んで、カエデに会いに行こうとした。


そして、ウィリスの足が境界線を跨ぐ直前、ウィリスの体が空に浮かんだ。

風に拭かれたビニール袋のように、あっさりと高く舞い上がっていた。



「先輩!」



ウィリスの後にいたイクアラが落ちてくるウィリスの体を受け止める。イクアラの腕の中で、ウィリスはむせて咳をする。唾には赤い血が混ざっていた。



バーンですら、その動きを目で終えなかった。円の中央にいたはずのカエデが、一瞬で境界線の手前までやって来ていた。気がついた時には、カエデの白い足が高く振り上げられていた。

カエデがウィリスを蹴飛ばしたのだと後から理解した。



「カエデさん! アンタ……!」



『なんて事しやがる!』そうバーンは叫ぼうとした。可愛がっていたウィリスを蹴り飛ばすなど、なんて事をするのかと。



「なんてことするのよ!」



しかしその言葉はカエデの口から放たれていた。カエデの顔が焦りで固まっていた。



「死にたいのッ!? 私にあなた達を殺させないでよ!!」



本当に怒った時にしか見せぬカエデの剣幕に、バーンの毛が縮み上がった。

カエデは必死だ。必死に何かと戦っているように見える。

ウィリスは腹を抱え込むように咳き込んで、目に涙を浮かべながらカエデを見上げた。



「ウィリスあなた! もう少しで本当に死んでいたのよ、わかってる!? あと一歩で私があなたを殺してたのよ!」 



一息に捲し立てて、カエデはようやく息を付いた。



「……私はね、この線を踏み越えた者は誰であろうと、何であろうと殺すわ。赤子だろうが、可愛がっていた後輩だろうが、例えもみじや、父さんや母さんでもあっさりと殺すわ。そういう風に作り変えられちゃったのよ」



「んだよそれ!? わかんねえよ、わかんねえよカエデさん! 殺すとか、作り変えられたとか。意味がわかんねえよ!! カエデさんはカエデさんだろうが!! 強くて、格好良くて、優しいカエデさんだろうが!!」



バーンの言葉を、カエデは首をゆっくりと左右に振ることで否定した。小ぶりな顔が、随分重たそうに見えた。



「私ね、迷宮の花嫁になっちゃったのよ」



カエデの言葉の意味は、バーンにはやはり意味が解らなかった。



「迷宮の花嫁って言葉は聞いたことがあるかしら? 迷宮が人間を娶ってずーっと一緒に暮らそうとするの。そんな与太話、私もこうなるまでは信じていなかったけどね……」



カエデは重たい息を吐いて踵を返すと、Hの円の中央に向けて歩いて行く。カエデの向かう先には、よくはわからないナニカがあった。一メートル程の台座の上に、赤紫色に輝くナニカが載せられていた。その物体は不吉な光をまき散らしながら、まるで生きた心臓のように、鳴動していた。



「あの日、迷宮の産声の日。この子が私を見初めちゃたのよ。心臓を摘出されたまま、手術台に放り出されてた私をね……。私の体はもう死んじゃってたんだけど、夢魔って元々が精神体の悪魔じゃない? 体は死んでいたくせに精神だけは生き残っちゃってたのよ。……そんな私にね。この迷宮が声をかけて来たの。『死にたくないか?』って、言語ではなかったけど、確かにそう聞かれたのよ。馬鹿だったのよ私、欲が深かったのよ。まだ死にたくないって、おもっちゃったのよ」



その目には自嘲と後悔が浮かんでいた。迷宮が声をかけるなど、バーンにはあり得ない事だとしか思えないが、カエデが語る以上、それは真実なのだろう。



「最後の夏を終わらせたくなかったのよ。甲子園に行きたいって、思っちゃったの。本当に馬鹿よねえ私。手術が成功しても甲子園には間に合わないって分かっていたのに。最後の夏、諦めてたはずなのに。迷宮に唆されて、誘いに乗っちゃったのよ」



去年の夏の事は、バーンもウィリスもよく覚えている。夏の地区予選が始まる前のゴールデンウィークの合宿中の事だった。練習中のカエデが、突然額に大汗を浮かべて蹲っていた。

検査の結果、手術が必要だと明らかになった。危険な手術であったし、成功しても術後の安静が不可欠だった。最後の夏、カエデは甲子園にはいけないとわかった。


残された魚里高校の面々は、せめてカエデにベンチに座っていて欲しいと、必死になって戦った。妹のもみじが、新入生ながら姉さんを甲子園に連れて行くと奮起した。バーンやウィリス、神妙九児達を中心に、地区予選を勝ち進んでいった。

そして軍艦迷宮が生まれた日、彼らのキャプテンと、戦う理由が同時に失われた。地区予選の準決勝で、魚里高校ダンジョン部は、悪夢のような大敗を喫した。



「夢のように朧げにしか覚えていないのだけれど、目の前に赤い実のような物が差し出されたの。コレを食べれば私死なないんだって思ったのよ。ホンの少しだけ、齧っちゃったのよ。まさかあれが迷宮式の三三九度だったとは思わなかったわ。騙されたと思った時には、迷宮の花嫁の出来上がりよ」



フッと笑うと、「これも一種の結婚詐欺ってヤツかしらね?」と言った。箸休めの冗談に反応する者はいなかった。カエデは「面白くなかったかしら」と自嘲すると、言葉を続けた。



「目が覚めた時、私は死んではいなかったわ。生きてもいなかったけれどね。アンデッド。生きることも死ぬこともできない存在になってたのよ。言っとくけどゾンビとは違うわよ。本物のアンデッドはね、決して滅びないの。これ、見える?」



カエデが手術衣の胸元をグッと下に引っ張った。カエデの二つの胸の谷間。美しい白肌に張り付いた、赤くうごめく何かがあった。



「摘出された心臓の代わりに迷宮の心臓の欠片が埋まってたいたの。人間だったころの心臓は手術台の上でしなしなになっていたわ。迷宮の心臓の一部を移植されたモンスター、それが迷宮の花嫁なの。死なずに、生きずに、いつか迷宮が滅ぶまでの果てしない時間を迷宮と共に過ごすの。心臓を守り続けながらね。そういう風に作り変えられちゃったのよ、私」



カエデは台座の上で鳴動するナニカを愛おしそうになでた。その仕草は花嫁というよりもまるで子を慈しむ母のようだった。



「笑えるでしょ? こんなのが旦那だなんて。気持ち悪くて、憎くて、滅ぼしてやりたいのに! ……今、この場にいると愛おしいのよ。何に変えても守らなきゃってそう思っちゃうのよ。洗脳だって、そういう風に作り変えられただけだってわかっているのに、どうしようもないのよ。……だからあなた達がこの円の中に入ると、私はあなた達を殺すわ。今だって本当はぐちゃぐちゃに引き裂いて殺してしまいたいのよ。……本当に、今が夏で良かったわ。冬だったら問答無用で殺しちゃってたと思うから」



カエデの目を瞬だけ昏く渦巻く闇が通り過ぎたが、闇はすぐにカエデ本来の目の光に上書きされた。



「夏はね。この子の力が1番弱まる季節なのよ。死の迷宮だからでしょうね、命溢れる夏が苦手みたい。だからこうして、私も魔物の本性に抗っていられるの。この子が眠っている隙に幻を見せて、ちょっとだけなら迷宮を抜け出すこともできたのよ。迷宮の魔物であることを忘れて、もう二度とできないと思っていた恋をすることもできたのよ。夏って、やっぱりいいものよね」



カエデはナニカを撫でながら、別の何かを噛みしめるように、幸せそうに笑った。



「……でも、誰かがこの円の中に入ったら別よ。この円の中だけは永遠の冬。私はあなた達を全力で殺すわ。言っとくけれど私、昔の何十倍も強いわよ。ほら、こんな風にッ…!!」



その言葉を合図にカエデが突然襲いかかった。カエデの目が黄色い白目と、黒い闇に塗り替えられる。



対応する間もなかった。武器を構える間もなく、バーン達は全員が真っ二つに切り裂かれる。頭から股間まで、薙刀の刃が肉と骨を内蔵を通り抜けて、二つに割った。



慌てて両手で体をつなぎ合わせようとして。

何故か両手が動くことに気がついて、それが幻だったのだとようやく気が付いた。



バーン達が感じた死はカエデが見せた幻だった。


ホッとして、ゾッとした。



カエデの言葉が真実であることは、カエデから伝わる力の奔流でわかった。あの円に中に入れば幻が現実になると、死への恐怖と共に叩きこまれた。



「これでわかったでしょ? わかったなら今すぐここを去りなさい。この円の中に入らないように通り抜けて、お家に帰りなさい」



カエデの口調が再びやわらかな物に変わる。バーン達の記憶のままの、カエデの優しい目が微笑んだ。



「今日起こった事は忘れて、懐かしいお家に帰りなさい。あったかいお風呂に入って、美味しいご飯を食べて、柔らかい布団の中で眠りなさい。太陽が昇ったら寝坊しないように朝練に行くのよ。部の皆と一緒にお日様の下でいっぱい練習しなさい。練習後はみんなで甘いもの食べて、合宿では寝不足になるまで騒いで、勝った負けたと悔しがって、喜んで、ついでにちょっとだけ恋もしながら、甲子園を目指しなさい。ウィリス、バーン、それと金太だったかしら、リザードマンの貴方も。あなた達なら絶対に行けるわ、甲子園に。私の夏は終わったけれど、あなた達の夏はこれからだもの。絶対に行ってね、甲子園」



その言葉を最後に、伝えたいことは全て伝えたという風に、カエデは笑った。



その笑顔が余りにも綺麗だったから。「ああ、これは幻なのだ」とわかった。


あんなにきれいな笑顔で言える言葉では無い筈だから。


自分たちが見ているカエデの笑顔は、カエデが見せている夢なのだとわかった。


この世のものではない夢なのだと、もはやカエデがこの世の物ではないのだと、わかってしまった。


この世の物ではない彼女を、連れ戻すことなどできないと、わかってしまった。




「わかりません」




カエデが声の方へと振り向いた。-あっ-と、カエデの口から音が漏れた。


パンパンに張っていたタイヤから、空気が漏れるような、油断した、気の抜けた声だった。


終ったはずのカエデの夏がそこにいた。暖かい風が吹き抜けて、カエデの髪を揺らした。




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