第21話 イリア・覚醒
「ごめんじゃけえ、ごめんじゃけえ…」
小さな少女は泣いていた。自分の不甲斐なさに泣いていた。
エースなのにと、泣いていた。
「イリア……」
イリアはエースナンバーを背負うには早すぎたのだ。
魔法練習場でのイリアの魔法の威力を見ただけで、前監督の五井がイリアにエースナンバーを与えてしまったのは、イリアには不幸な出来事だった。
せめてウィリスが引退するまでは、五井はイリアにエースナンバーを渡すのを控えるべきだった。
厳島が監督になった後も、一度渡したエースナンバーを取り替えることなどできるわけがない。
イリアのエースナンバーは五井が残した負の遺産の一つとなった。
「ごめんじゃけえ、怖くて‥、魔物が怖くて…」
魔法練習場では非常に優れて見える魔法使いが、いざ、試合の場にたった途端精彩を欠くといったことはしばしば起こり得る。
それとは逆に、魔法練習場ではそれほどの魔法使いに見えなくても、試合では一流の活躍をする選手もいる。
前者がイリア、後者がウィリスである。
二人の間にある精神力と経験の圧倒的な差。それは本来の実力の差を簡単に覆す。
ウィリスはエースナンバーなどにこだわりはないが、エース番号を受け取ってしまったイリアは違う。
エースになりたかったわけではない。しかしエース番号を与えられた以上、それにふさわしい活躍をせねばならぬというプレッシャーが、本当はずっとイリアにのしかかっていたのだ。
その重圧が、ここに来て遂にイリアを潰した。
イリアには、ゼッケン1番は重すぎた。
「‥怖いけえ、動けんの‥、動かんといけんのに動けんの…、なんでこんな私がエースなん? 役立たずじゃのに、ウィリス先輩の方がずっとずっと上手じゃのに…」
タツマにはイリアに掛けるべき言葉が見つからなかった。いつも明るく幼い少女が、これほど思いつめているなどとは思ってもみなかった。
カヤもアイアンもオルタ何も言えなかった。この場での気休めのフォローは、イリアを余計に傷つけるだろう。
そして無言が場を支配する中、ただ一人、そろりと挙手をする者がいた。
「あの…、魔物が怖いのでしたら、少しだけならお手伝いできるかもしれません」
万十もみじが控えめに言った。
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五円玉と糸
古風ではあるが、もっとも手っ取り早く、もっともメジャーなアイテムと言えよう。
「催眠術、ですか?」
「はい、姉さんほど得意ではありませんが、一応私も夢魔ですから」
精神力というものは、スポーツの世界では選手の優劣において最も大きな要因を占めている。しかしそう簡単に鍛えられるものでもない。
一日二日で精神が鍛えられれば、皆が一流選手になってしまうだろう。
しかし精神を鍛えることは出来なくとも、一時的に誤魔化す事はできる。
例えば興奮による脳内物質の多量の分泌であったり、クスリや酒と言ったあまり褒められる物ではない手段であったり。
催眠術は後者に近い。但し、未成年のイリアに施した所で違法ではない。
「ではイリアさん。この五円玉をよく見ていただけますか?」
もみじが五円玉を左右に揺らし始める。イリアの泣いて真っ赤になってしまった瞳が左右に揺れる五円玉を追いかける。
「この迷宮のモンスターは偽物です。鬼も魔物もみーんな風船です」
「ふうせん……?」
「ええ、だから怖くなんてないですよ」
「怖くないん?」
「ええ、ただの風船ですから怖くなんてありません。パーンと割ってしまえばいいんです」
「パーンと、割ってもええん?」
「はい、パーンと割りましょう」
「うん、わかったけえ。パーンと割っちゃるけん!」
もみじがパンッと手を打った。
「はい、これでおしまいです」
もみじの催眠術はあっという間に終った。イリアの方は外見的には変化はない。
「あんなのでいいんですか?」
タツマはもみじに尋ねた。タツマのイメージする催眠術というものは、眠ったような状態のまま、術の操り手の命令通りに動くイメージがあったからだ。
「催眠術、正確に言えば催眠療法なのですが、本当はこの程度の物なのです。人間の意識に作用するホンの僅かな暗示に過ぎません。テレビなどではちょっと大袈裟に表現することが多いようですが……」
もみじが困ったような表情でそう言った。
「その…、あれでも効果はあるのでしょうか?」
「ひょっとしたら…、ですね。効果はそれほど大きくはありませんし、持続的なものでもありませんが、深層意識での恐怖心を少しは和らげてくれる筈です。あとは実際にモンスターと対峙してみないとなんとも…」
タツマはもう一度イリアを見る。タツマと目が合ったイリアは、にこにこと笑い返してきた。
確かに先程までの恐怖心も自己嫌悪も影を潜めているように思える。
「ええーと、じゃあ、行ってみましょうか」
タツマたちは次の部屋の扉の前へと向かうことにした。イリアはやはりにこにこと、タツマの服の裾を掴んで隣を歩いていた。
「来ます! 多分一体」
もみじの警告の声が響く。もみじには獣人のような嗅覚はないが、夢魔という精神に深く携わる魔族であるゆえに、魔物の核である魔石の存在を微弱ながら感じ取る事ができるらしい。「姉さんや神妙先輩のように広い範囲を探るのは無理ですが……」と、もみじは控えめに話してはいたが、この狭く視界の悪い迷宮においては心強かった。
アイアンが前列に立つ。扉から現れたのは先程と同じ魔物。フランケンシュタインの鬼だ。
タツマ達に向けて魔物が突進する。アイアンが全員を庇うように、低く腰を落とし両手を広げる。
しかし、魔物とアイアンがぶつかり合うその寸前、魔物の肉体がパンッと弾けた。
胴体を無くしたフランケンシュタインの鬼の首がころころと転がった。
一瞬の出来事に、一人を除いて誰も動けなかった。動いていたのはそれを成した張本人のみ。イリアが転がって行く頭を追いかけていった。
「見て見てタツマ君! おっきな風船じゃけえ」
イリアはタツマの目の前まで走って戻ってくると、フランケンシュタインの頭部を両手で、真上に掲げた。びちゃびちゃと、赤黒い血がイリアのピンク色の髪の毛に降り注いだ。
鬼の頭部は真っ赤に染まったイリアの手の中で、魔石へと変わった。
「あれえ? 風船が魔石になってしもおた。タツマ君に見て欲しかったんじゃけど……。風船、もっと集めてくるけぇね」
イリアはそう言うと、タタッと一人で先行すると、がちゃりと次の部屋の扉を開けた。
「どーん! どーん! どーん!」
イリアの短い詠唱と、パンッと何かが弾け飛ぶ音が三度響いた。
しばらくして、ピチャピチャという足音と共に、イリアが何かをずるずると引きずりながら部屋から出てきた。
イリアは赤かった。
あの日タツマがお好み焼き屋でデートをした日以上に赤かった。白いローブが真っ赤に染まっていた。
ピンク色の髪の毛も、色白の肌も、水色のスニーカーも、顔も手も足も、全てが真っ赤に染まっていた。
「あれえ? また魔石に変わってしもた。風船って割ると魔石になるんじゃねえ」
イリアの魔法の音に魔物達が気付いたのだろう。行く先から次々と扉が開いた。
「あー、風船がいっぱいじゃけえ! どーん、どーん、どーん、どーん」
イリアの魔法の属性は光である。死の迷宮に住む魔物たちにとっては、イリアの光魔法はもっとも苦手な弱点属性である。
イリアの強力な魔法が、次々と魔物の肉体を破裂させていく。イリアのレアアビリティー詠唱☆超短縮による連続攻撃が、魔物に隙を与えない。
彼女は今、魔物と戦っているという自覚はない。ゆえに魔法練習場と同じ感覚で魔法を放っている。イリアの気負いのない魔法は、コントロールと制御という、イリアの二つの弱点をクリアさせていた。
イリアの歩む先に、肉塊と血と魔石がみるみるつみあがっていく。
しばらくして、固まっていたタツマ達の時間がようやく動き出した。
「ちょ、ちょ、ちょ、どういうことですかもみじさん! アレ、どうみてもヤバイ状態でしょう!? 何がホンの僅かな暗示ですか!?」
「ご、ご、ご、ごめんなさい! 普通なら私程度の催眠であんなことになるわけがないのですが、イリアさんがそういう体質だとしか」
催眠のかかり易さには個人差がある。まるで酒を飲める人、飲めない人のように。アルコールでたとえるならば、イリアは一滴の酒でも酔っ払う体質だったのだろう。
魔物への恐怖心などどこにもない。イリアは魔物に向かってかけ出すと、血しぶきを受けきる程の近距離から魔法を唱えて続ける。イリアだけでなく、病院の通路も瞬く間に真っ赤に染まっていった。
「どうするのよタツマ! あれじゃあイリアの方が糸の切れた風船だわ! どこに飛んで行くかわかったもんじゃないわよ!」
「……糸の切れた、風船!?」
カヤの言葉にハッとした。タツマの頭に、閃きが舞い降りた。
・・・・・・
・・・・・・
「いいかー、イリア。3m以上は絶対に離れるんじゃないぞ」
「うん! わかったけん! タツマ君!」
「3m以内なら自由に動いていいからな」
「うん! わかったけん! タツマ君!」
「魔法を使う時も、オレの3m以内にいなきゃだめだぞ」
「うん! わかったけん! タツマ君!」
「ではオルタ様も、3m以上伸ばさないようにして下さいね」
オルタが了解の丸を作ったが、いつもの力強さはない。
オルタとて、思う所があるのだろう。
今、タツマの握る黒い短剣から、オルタの髪の毛がイリアの所まで伸びている。
オルタの髪はイリアの首に、閉まらぬ程度に巻き付いている。
傍から見れば、まるで犬の首輪とリードのように見えるだろう。
もちろんこの場合、イリアが犬で、飼い主はタツマである。
「どうだカヤ? 糸が切れた風船ならば糸を付ければいいだけなんだ! カヤの言葉がヒントになったぜ!!」
「私は……、私はタツマにこんな事をさせるために言ったわけじゃないのにッ!!」
カヤの悲しみはタツマには届かなかった。
『初めて犬を散歩させるときは、まずはリードの長さを覚えさせる事から始めましょう』
そう、タツマは何かの本で読んだ覚えがあった。
「皆さん! 右から来ます!」
右のドアから現れた魔物に向かって「あーっ、風船だー」と勢いよく駆け出したイリアは、突然「ぐえっ」と悲鳴を上げてのけぞった。
3mと言いつけられていたオルタの髪が伸びきっていた。
イリアが切なそうな目でタツマの方を振り返る。タツマの良心がズキリと痛む。すぐにでも、謝って頭を撫でてしまいたい衝動に襲われたが、タツマは必死に自制した。
『散歩に出ると、興奮して暴れだしてしまう犬もいますが、そういう時は厳しく叱りましょう。悪い事をしているという自覚を犬に与えなければいけません』
「3m以上離れちゃだめだって言ったじゃないか! イリア」
痛む心を押し殺し、タツマはイリアを叱りつけた。イリアがしょぼんと頷いた。
アイアンが一人で魔物と格闘している間。タツマもまた、一人で心の中で自分と格闘していたのだ。
「……ええっと、次は左から来ます」
今度は左の部屋から魔物が飛び出してきた。イリアは今度も、「次の風船だ―」と、勢いよくかけ出したが、再び「ぐえっ」と首が閉まった。何かを言いたげな目でイリアが振り返るが、タツマは厳しい表情で睨み返した。
『リードの長さを覚える事は、急な飛び出しによる事故を防いでくれます。愛犬の命を守る為にも、決して甘さを見せてはいけません』
これもイリアの為なのだから。強力な魔法を持つとは言え、魔物への無謀な突進を繰り返せば、いつかイリアは怪我をしてしまう。
アイアンが二匹の魔物と奮戦する中、タツマも自分と戦い続けていた。
「そのぉ……、次は…、奥からきます」
さらに廊下の奥から三匹目のフランケンシュタインが姿を現した。イリアの首から、今度も「ぐぇっ」という音が漏れた。
『覚えるまでは何度でも同じことを繰り返しましょう。決して情にほだされて、途中で投げ出してはいけません』
アイアンが三体の魔物に囲まれている時、タツマもまた、苦しい戦いをしていたのだ。
「あのぉ……、今度はいっぱい来ました」
現われた魔物達に向け、イリアは勢い良く駆けだしたが、今度は、3mの少し手前で止まった。
そして…
「どーん! どーん! どーん!」
イリアの魔法が魔物達に炸裂した。魔法を全て放ち終えたイリアが、ばっとタツマの方を振り向いた。
タツマが笑った。満面の笑みでイリアに答えた。イリアの顔にも笑顔が咲く。タツマの元へと嬉しそうに駆け寄ってくる。
『ちゃんとできた時にはしっかりと褒めてあげましょう。主人と犬の間の、正しい愛情と関係の構築が、躾にはもっとも大切なことなのです』
「よく覚えたな、イリア! えらいぞー! えらいぞー!! よく出来たな、イリア!!!」
イリアの血でべとつく頭を、タツマはガシガシと撫でる。もっと撫でて欲しいのだろう。イリアは、キラキラとした瞳でタツマを見上げながら、タツマの体にぎゅっとしがみついてくる。
「(これで、もう恐れるものはない)」
イリアの頭を撫でながら、タツマはそう、確信していた。
制御されたイリアの光魔法は、この迷宮を攻略する鍵となるはずだ。
タツマ達の最大の不安要素が、今、最大の武器となったのだ。
「さあ、準備はOKだ! みんな、行こう!!」
イリア以外、タツマには誰もついてこなかった。