第15話 エントランスホール
病棟の中に入った途端、息が詰まった。
空気が粘着くように重く、喉に絡みついた。
冷凍室の中に入ったかのような、あるいは真夏に路上に放置していた車の中のような、寒いとも熱いともいえぬ不快な刺激が肌をさした。
鳥肌の立った腕に目を落とすと、自分の肌が腐ったような緑色に変色していた。
心臓が止まるほど驚いた。
よく見れば、非常灯の緑の灯りに照らされているだけだった。
今、タツマ達は病院のエントランスホールの入り口に立っている
上空から俯瞰すると凸型に張出している第一病棟の建物、その出っ張りの部分がエントランスホールとなっている。
そもそもこのエントランスホールは教会をイメージして設計されたそうだ。
ガラス張りのドーム型の屋根に加え、三面の壁面が全てガラスと骨組みで構成されており、日の出から日没まで、常に日光を取り入れられるように設計されていた。
ステンドグラスこそ存在しないものの、光溢れる美しい空間は、当時の患者たちに明るい漆喰の白壁の教会を想起させたことだろう。
左右にシンメトリーにならんでいる待合用のソファーも教会のベンチの配列を模した物であったらしい。
教会で言えば祭壇に位置するホールの最奥には、受付のカウンターがずらりと並び、天使のような笑顔を浮かべた看護婦達が訪れた客を迎え入れるのだと、デザイナーがドキュメンタリー番組で朗々と語っていたのをタツマは思い出した。
中学の時、実際にその目で見た時に「なるほど」と思った記憶もある。
そんな記憶が、悉く迷宮に踏み潰されていた。
ガラス張りであった壁面は、黒い鉄か鉛のような物質に置換されており、まるで肥満症の老人のたるみきった腹のように皺が寄り、波打った状態で固まっていた。
象牙色の合成皮革で覆われていたソファーは、カバーも綿も何処かに消え失せて、中の骨組みやスプリングが露になって錆び付いていた。
「まるでソファーの化石だ」
タツマは呟いた。
白衣の天使たちが控えていた受付カウンターは、錆びついた鉄格子がまるで牢獄のように張り巡らされていた。鉄格子の奥は闇に満ちていた。
空間全体は、昏いながらも黄緑色に浮かび上がっている。
天上から吊るされている蛍光灯は全て切れていたが、所々に残された非常灯が妖しくホール全体を照らしているのだ。
燃料などとっくに尽きているであろうに、島内の非常用の自家発電所は何故か生きていた。
もっとも、その光量はようやく地形が判断できる程度の心許ないものではあったが。
「迂闊に動くなやぁ、何処にトラップがあるかわからんぞ」
トラップの判別は冒険者全員に必須の技能であるが、得手不得手は存在する。タツマも観察力には自信があるが、集中した時の金太には敵わない。
金太の後を追って、8人はエントランスホールの中央をゆっくりと進んでいく
タツマはぐるりと慎重にホールを見渡す。指向性の強いLEDランプで、慎重に、ホール全体をなぞるように光源を動かしていく。
天上、壁、ソファーの影、何処に魔物が潜んでいるか分からない。
不意に袖が引っ張られた、イリアが受付カウンターの鉄格子の奥を指さしていた。
「ケ、ケ、ケルベロスが…、牢の奥にキリストのケルベロスがおる!」
キリストのケルベロス。最初は何のことか解らなかったが、イリアの指差す先をランプで辿ることで、その言葉の意味を理解した。
非常灯の明かりの届かぬカウンターの中、鉄格子を抜けた牢屋のようなその場所に、壁に手と足を杭で貫かれたケルベロスが十字の形で張り付けられていた。まるで磔のキリストだった。
黒い犬の3つの首が、左右と後ろを向いている。
地獄の門番ケルベロス。言わずと知れた神話の時代より生きる魔獣である。
敵う相手ではない。タツマ達の間に緊張が走ったが、ケルベロスが動かぬことと、伝説に比べると余りにも小さすぎる事に気が付いた。
「脅しのつもりなのか、それとも趣味が悪すぎるだけか……」
イクアラが安堵の息を吐きながら、皮肉も吐いた。
磔のケルベロスは青銅の作り物だった。
エントランスホールには、生きている魔物は存在しなかった。
受付カウンターのすぐ前には、院内の全階の概要と、見取り図を描いたパネルがぶら下がっている。
第一病棟は7階建て。階層ごとに科が別れており、屋上には緊急患者収容用のヘリポートまで備え付けられている。
見取り図を確認していたバーンの視線が、ある一点で止まった。
「循環器科は、四階かよ」
タツマはカエデの事は何も知らない。名前でさえ昨日初めて知ったばかりだ。
もう少し、カエデの事が知りたくなった。
「バーン先輩、カエデさんの手術って?」
「心臓だ」
聞かなければよかったと、タツマは思った。
「もみじは右の階段へ向かったようじゃなあ」
入り口から向かってホールの右奥。二つに分かれた分岐路で金太が言った。
第一病棟はホールだけではなく建物全体が完全にシンメトリーの形で設計されている。
そして、上階に向かう手段は主に3つに分けられている。
その内の二つが階段だ。エントランスホールの最奥に位置する受付カウンター、そこから平行に左右に伸びる二本の通路がある。それぞれ通路を病棟の両端まで進んだ場所に上階への階段が設置されている。もみじはその内の、右の階段を選んだようだ。
三つめの手段は、受付カウンターを回りこんでさらに奥に進んだ場所にある七基のエレベーターである。
「エレベーターは、使いたくないわね」
カヤの言葉に皆が同意した。電源は生きているようではあるが、院内の劣化具合から見ると事故が起こっても不思議ではない。
おまけにここは迷宮。扉が開いた瞬間に何が飛び出してくるかも分からない。
「これまで通り、もみじさんが進んだルートを追いましょう」
タツマは右の通路を眺めながら言った。もみじの足跡と臭いは、これまでタツマ達を最も近道の安全なルートで導いくれたのだから。
タツマの目線の先には幅3m弱の細い通路が、非常灯の鈍い灯りに照らされて奥まで続いていた。
イクアラが頷きながら、言った。
「ここからは通路が狭くなります。先行隊と後攻隊に別れるべきだと思います。」
病院内の廊下は狭い。8人が共に歩めば団子になって、モンスター相手に満足に動けなくなる。
先行隊が罠とモンスターに対処して後攻隊を導き、後攻隊は背後からの奇襲から先行隊を守る。道幅が狭く、危険なダンジョンを探索するときのセオリーである。
「だな。んで、どう別れんだぁ? イクアラ」
バーンはイクアラに人選も任せた。
イクアラは8人全員の面子を見渡した。ここは戦力と各々の役割と相性を考え割り振るべきであろう。
イリアがタツマの服の裾をぎゅっと握っているのが見えた。この二人は離さぬ方がよいだろう。精神的に未熟なイリアにとって、タツマが支えとなっているのは明らかである。
カヤもタツマと共にいた方が良いだろう。タツマと共にいる時の方がカヤは強い。それに気丈に振舞ってはいるが、カヤの目にも不安の色が見え隠れしているのが、付き合いの長いイクアラにはよくわかった。
鼻の利く金太が先行隊を率いるのは決定事項であるし、経験豊かなバーンやウィリスも先行隊であるべきであろう。最強の防御力と遅い足を持つアイアンには、最後尾で奇襲に備えて貰いたい。
ならば解答は自ずと決まる。
「先行隊は金太先輩、バーン先輩、ウィリス先輩と私。後攻隊はタツマ、カヤ、イリア、アイアン先輩。これでどうでしょうか?」
誰からも反対は起きなかった。もっとも適切な組み合わせである。魔法使いは一人ずつ。より危険が多い先行隊が上級生中心に構成される編成となる。
「よっし、おめえら。いくぜぇ!」
バーンの掛け声と共に、先行チームが右の通路に向けて歩き出した。後攻隊はその場にとどまり、先攻チームがある程度進んだ所で動き出す手筈になっている。
金太を先頭に、先行隊の三人は薄暗い通路を慎重に、一歩一歩進んでいく。
勇敢な三人の男達が……
「……あのー、ウィリス先輩も先行隊ですよ?」
「…………わかってるもん」
タツマの隣にいたウィリスが一度だけタツマの方に振り返った後、三人の後を追った。
いつもの無表情が少しだけ不服そうに見えた。
東京さ行ってくるべ
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