第2話 チョロリン-攻略と克服-
水曜の放課後、タツマは駅前でイリアを待っていた。
時刻は5時半を回っているが、季節は7月の初旬である。太陽は未だ夕暮れの手前にとどまっている。平日の放課後ではあるが、デートには十分な時間が残されているだろう。
もっとも、デートという認識はタツマにはない。
タツマにとって今回のこれは指令であるし、チームメイトの女子と二人でどこかに行くという事であれば、中学時代にカヤと何度も経験していた。
その経験をデートだと思ったことは、タツマに限って言えば一度もなかった。
しかし、イリアにとっての今回の指令は生まれて初めてのデートであったに違いない。
放課後そのまま遊びに行こうかと提案したタツマに、イリアはおずおずと申し出た。
「一度家に帰って、着替えて来てもええ?」
その言葉を断る理由は無かった。
そうして待ち合わせの時間と場所を約束した二人ではあったが、タツマとイリアはご近所同士、帰り道は一緒である。
共に下校して、イリアのマンションの手前で別れた後、最寄りの駅前に集合するという、どうにも締まらない待ち合わせとなった。
タツマの格好も締まらない。
ジーンズにTシャツ、サンダルだけの、近所に買い物に出かけるような格好だ。
これならば制服の方がまだマシだったかもしれない。
「タツマくーん! おくれてごめんじゃけえー!」
子犬の鳴き声のような、高い声が遠くから聞こえた。
タツマが声の方を振り返ると、真っ赤なイリアがタツマの方に向かってパタパタとかけてきた。
真っ赤なイリア。タツマの目に映ったイリアは、余すところ無く赤かった。
赤いヘルメットに赤いメガホン、赤い上下のユニフォームに、赤いソックス、赤いスニーカーに、首に巻いた赤いタオル。それら全身の赤い装備の至る所に、カトゥーンなタッチでデフォルメされたアークデーモンのワッペンがその存在を主張していた。
タツマとてこのヒロシマに生まれヒロシマに育った者。イリアの格好の意味は直ぐに理解できた。
「(ああ、これ。赤ヘルの応援スタイルだ)」と
「……ええっと、イリア。今日は随分と…赤いな」
「あ、赤いっ!? ほ、褒め過ぎじゃけぇ…、タツマ君」
イリアは撫でられた子犬のような甘い声を出すと。ヘルメットと同じぐらい顔を赤くして、俯いた。
「赤いね」タツマは思ったことを口にしただけであったが、熱狂的な赤ヘルファンにとっては、それは最高の褒め言葉となる。
彼らはスタジアムに応援に向かうとき、その身を悉く赤で固める。赤ければ赤いほど、熱心な赤ヘルファンであることを意味しているのだから。
赤ヘルファンの魂は赤信号ですら愛することができる。
「きょきょ、今日は何だか、あ、暑いねえ」
そう言うとイリアは、ユニフォームの胸元を引っ張ってパタパタと手で扇いだ。
まるでタツマに見せつけるかのように。
何かを期待する眼差しでタツマを見上げているイリア。鈍感なタツマとて、イリアが自分に何かしらのアピールをしている事は察せられた。
「あれ? 15番ってダーククロー選手の番号か? 懐かしいなあ」
タツマが見つけたものは胸元の番号。イリアが纏う応援用ユニフォームは闇魔法の使い手にして、レッドヘルバトラーズの元エースであったダーク・クローの物に違いなかった。
「わ、わかるん? これね! これね! ずーっと前に買ってもらったんよ! ダーク・クロー選手がアメリカに行く前に! 今はおらんけどね、きっと来年こそ帰って来るけえね!」
タツマの回答は正解だった。イリアがタツマに見て欲しかったのは胸ではない。そもそも見せる程の物もないのだから。見せていたのは胸元の番号である。
応援用ユニフォーム、それは熱狂的なプロ冒険者ファン達にとっての必須アイテムだ。プロ冒険者達は、それぞれ独自の装備や甲冑を所持しており、その多種多様で個性的な姿もプロ冒険者観戦の楽しみの一つとなっている。
しかし、練習中やファンサービスの時には、プロの冒険者たちはチームごとに色分けされたユニフォーム姿がお馴染みとなっている。ユニフォームはチーム内の一体感を産む。その効果は馬鹿にはできない。
そしてファン達も、贔屓の選手の番号がプリントされたユニフォームを来て、スタジアムで力の限り応援をする。選手たちとの一体感を感じながら、10人めの選手として戦いに加わる為に。
「ね! ね! タツマ君、今日はどこに連れてってくれるん?」
『今日はどこに行く?』赤ヘルの応援スタイルで身を固めた少女は、タツマに行き先を委ねた。
タツマを見上げるその瞳は、たった一つの正解回答を期待していた。
「(行きたいんだろうなあ…、赤ヘルのスタジアム…)」
女性の気持ちを察する能力が絶望的に欠けているタツマにすらわかる。イリアは赤ヘルの応援に行きたいのだと。
イリアは徐ろに、ぐっぐっとタツマの目の前で屈伸運動を始めた。
「(準備体操してるんだろなあ…、応援の為に…)」
赤ヘルファンはスクワットをしながら応援をすることで知られている。
選手と苦しみを分かち合うために生まれたともいわれる、赤ヘル名物スクワット応援である。
運動能力に乏しいイリアでは、それは結構な負担となるだろう。その為の準備運動だという事は容易に想像できた。
「ちょっと喉乾いたからジュース飲んでええ?」
イリアは赤いポーチの中から『セイレーンの歌声』と書かれたペットボトルを取り出した。
「(声出し対策も…、完璧か…)」
セイレーンの歌声とは、漢方と魔法薬を合わせた清涼飲料水である。
決して美味いものではないが、声だけはよく出る。
「ね! ね! 今日はどこに連れてってくれるん?」
セイレーンの歌声を三分の1程飲んだイリアは、もう一度タツマに尋ねた。いつもより幾分通る声で。
そんなイリアにタツマは「ついて来てくれ」とだけ言った。
▲
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「お好み焼き屋?」
2人が向かったのは待ち合わせの駅から徒歩三分、ヒロシマ風お好み焼きの店舗であった。
どこか昭和の香りがする雑居ビルの一階にその店はあった。
赤いエンビ板の看板に『赤恋』という店名が白字で抜かれていた。
「そう。イリアはスタジアムに行きたかったかもしれないけど…」
「う、ううん、そ、そんなことないけん! どこでも嬉しいよ!」
イリアは慌てて否定したが、その声はわずかに沈んでいた。
タツマとて、イリアの希望通りレッドヘルバトラーズのスタジアムに行くべきかとも考えたが、今日の目的は赤ヘルを応援することではない。
イリアがオルタに少しでも慣れて貰う事が目的なのだ。どこかで腰を落ち着けて、じっくりと話し合う必要があった。
スクワットしながらでは、腰も落ち着けられない。
「さあ、入ろうぜ。イリアの期待通りじゃないかもしれないけど、きっと気に入ってくれるはずさ」
イリアはコクリと頷くと、タツマの後に続いた。
「へい、らっしゃい! …って、タツじゃねえかよ。最近見なかったが元気かぁ?」
「久しぶりテツさん。二名だけど座敷使ってもいい?」
そう言うとタツマは一歩だけ横にずれた。タツマの背中で死角になっていた赤い少女が、店長のテツの視界に止まった。
「ぅぉおっ! なんじゃあこの気合の入った嬢ちゃんは! おうっ、あがれあがれぇ! 座敷は赤ヘルファンの為のもんじゃあ!」
イリアが入ったお好み焼き屋『赤恋』。入店以降、ぽーっと熱がでた子供のように呆けていたイリアが一言
「赤い…」
と呟いた。
イリアの感想は表面的な物ではない。
赤恋の店内は、椅子や机が赤いわけでも照明が赤いわけでもない。
ヒロシマならどこにでもある普通のお好み焼き屋である。少々古臭いということを除いては。
しかし、お好み焼き屋『赤恋』は魂が赤かった。
壁は往年のレッドヘルバトラーズの名選手たちのプロマイドや、白紙部分がすっかり黄ばんでしまったサイン色紙で埋め尽くされている。その壁の真中には、20年以上前のリーグ優勝の瞬間を収めた写真が、額縁に収められ、まるで神棚のように祀られていた。
店内の客も殆どが赤かった。赤いうちわを持つ者。赤いネクタイを付けたもの。赤いリストバンドをした者。
今しがた入ってきたスーツ姿のビジネスマンなどは、グイッとスーツとワイシャツを脱ぐと、その下に赤ヘルのユニフォームを肌着代わりに着用していた。
「タ、タツマ君! …ここは!?」
「店長のタツさんが大の赤ヘルファンなんだ。スタジアムまで行かなくても、ここなら赤ヘルの応援ができるだろ? ご飯だって食べられるし」
タツマがイリアをここに連れてきたのは、イリアと落ち着いて話す為だけではない。スタジアムに毎日通うせいで、生活費と栄養を不足させているイリアにこの店を紹介する目的もあったのだ。
「タ、タツマくん……」
イリアが熱い、湿った声でタツマの名を呼ぶ。
タツマにはそのような意図など無いし、イリア本人も気がついていないのだが、
イリアという少女は今、完全に落ちた。
―ジューッ-
切り目からこぼれたソースが鉄板の上で泡となって弾ける。
甘い醤油の香りがイリアの鼻孔と食欲をくすぐれば、鉄板の熱で生まれた上昇気流で、かつお節が生き物のように踊る。タツマは6つにわったお好み焼きの一つを、自分の皿へと運ぶ。
その様子をみながら、イリアも自分のお好み焼きにヘラを入れていく。そろりと、恐る恐る入れたヘラは、お好み焼きを割くことなく、中身の蕎麦を鉄板の上にこぼしただけだった。
「ああ、俺がやるよ」
タツマはそう言うと、手慣れた手つきでイリアのお好み焼きを6つに切った。
「(タツマ君にお好み焼き切ってもろおた。ホント上手じゃねえ。)」
お好み焼きを切ったことでイリアの好感度が上がった。
「マヨネーズもいる?」
ぽーっとした表情でコクリと頷いたイリア。タツマはマヨネーズをタップリとかけた。
「(タツマ君、マヨネーズのかけ方も豪快じゃねえ。かっこいいなぁ)」
マヨネーズをかけたことで、イリアの好感度がさらに上がった。
「青のりもいる?」
タツマは青のりをサジで満遍なく散らしていく。
「(ちゃんと端の方までかけてくれとる。細かいところにまで気配りできるんじゃねえ)」
青のりをかけたことで、イリアの好感度がもっとあがった。
「紅しょうがもいるだろ?」
お好み焼きの上に、紅しょうがが花のように散った。
「(ううー、タツマ君はなんで私がしてほしいことを全部してくれるんじゃろ、やさしいよぉ。やさしいよぉ)」
イリアの好感度の上昇はもはや天井知らずであった。
人は、異性のふとした優しさに惹かれると言われているが、それは間違いではなかろうか。
異性のふとした優しさに気付く時点で、きっと既に相手に惹かれている。
相手の事をよく見ているからこそ、他愛もない行動を優しいと思ってしまうのだ。
それはちょうど、今のイリアのように。
イリアは潤んだ目で、タツマが自分の皿にお好み焼きを載せる様を見ていた。
「…さてと」
お好み焼きを載せた小皿をイリアの手前においた後、タツマはすっと姿勢を正す。
タツマはお好み焼きを食べる為にここに来たわけではない。
イリアと個人的に仲良くなる為にこの場所に来たわけではない。
当初の目的をすっかり忘れていたイリアとは違い、タツマは自分たちが今日、何の為にここに来たのか一度も忘れたことはなかった。
「オルタ様、ご飯ですよー」
お好み焼き屋『赤恋』に響いた悲鳴は、一つだけではなかった。
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・・・・・・・・
「‥えっ? 蕎麦だけでいいんですかオルタ様? そっちの方が食べやすいから? あっ、すみません気が付かなくて、オルタ様は歯がないですもんね。…すみませーん、テツさーん。焼きそばだけの注文でもいいですか?」
「な・な・な・なんじゃあ? タツゥ!? その物体はぁ!?」
店中の客を恐慌の渦が吹き荒れる中、店の主としてテツが代表してその正体を尋ねた。
「あ‥っ、紹介してませんでした。俺の女神様です。」
「お前は何言っとんじゃ、タツぅ!?」
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「……なんじゃそういうことかい、だったら最初にゆうとかんかい! …ちゅう事じゃけえ、お客様、何の害もない本物の女神様らしいんで安心してつかぁさい」
「すみません皆さん。驚かせてしまったようで」
タツマは体育会系の高校生らしく、立ち上がってきっちりと頭を下げた。
タツマとしてはすっかり慣れきってしまったオルタの姿も、初めて見る客には衝撃が強い。
ひと通りの説明を受けた店内の客達はやれやれと自分の食事に戻っていった。箸の進みが急激に遅くはなっていたが。
「しかしのぉタツゥ、あの嬢ちゃんの事はええんかぁ?」
テツが指差す先では、座敷の隅でガクガクと震えるイリアがいた。赤いヘルメットでその顔を完全に覆った状態で。
「大丈夫ですよ。今日はその為に来たんですから」
タツマは自信ありげに答えると、リュックから子供用のオレンジ色のワンピースを取り出した。先日、タツマがオルタの為に買ったものである。
ワンピースをタツマが広げると、オルタはにゅるにゅるにゅるっとスカートの部分から中へと侵入していく。
剣から生えた髪が、ぐんぐんとワンピースに飲み込まれていく。
胴ができ、手ができ、足ができ、顔ができ、最後に輪郭だけは人の形が出来上がった。
何かに例えるとすれば、髪の毛で作った藁人形のような風貌ではあったが、ツインテールの髪型と、目と口の部分に開いた3つの穴が、ただの藁人形とは一線を画していた。
「ほーらイリア、人型になったオルタ様だぞー。怖くない、怖くないぞー」
タツマの作戦とは、オルタを人型にすることであった。
オルタは今までタツマ以外の人間の前で人型をとったことはない。オルタのヒト形態はタツマの家で家事をするときだけに限られていたからだ。
変異体との戦いで体が半分になってしまったオルタは、今やヒト形態になってしまうと小学校の高学年程度の身長である。
蛇のように長い鞭状態や、紅白戦の最後に見せた高速移動用の虫形態よりも、こちらの方が愛らしい筈だ。
…と、タツマは思っている。
同じぐらいの身長のイリアなら、きっと仲良くなれるんじゃないか。
…と、タツマは思っている。
眼球も鼻も歯もないが、埴輪のような顔つきだし、愛嬌があっていいじゃないか。
…と、タツマは思っている。
「ひ…、人型?」
イリアは恐る恐るとヘルメットをずらして行く。
イリアのくりんとした丸い愛らしい目と、オルタのぐりんと穿たれた孔のような目が合った。
「む・む・む・無理! 無理! 無理じゃけえ!」
イリアは再びヘルメットで顔を隠し、ぶんぶんと顔を横に振った。
「…くそっ!! これでも駄目か!」
「駄目にきまっとるじゃろうがぁ、タツゥ」
タツマが自信を持って挑んだ作戦は、あえなく失敗に終った。
失敗の原因は『慣れ』であろう。人間は、大抵のことには慣れてしまえる生き物である。
オルタとの同居生活も10日を過ぎた今、タツマはオルタという存在に慣れてしまっていた。ヒト形態ならマシだと思えてしまえる程に。
「一体、どうすれば‥?」
タツマにこれ以上の策はない。イリアは今だ、座敷の隅で震えている。
店内の他の客達は、タツマ達のやりとりを黙って見守っていた。
果たして、沈黙を破ったものは、人ではなく機械であった。
ローカルテレビ局のナイター放送、レッド・ヘルバトラーズ対ストライプ・ハンガーズのナイター中継の始まりを告げるアナウンサーの声が赤恋の店内に響いた。
それまでイリアの方を心なしか悲しそうに見つめていたオルタはくるりと振り返ると、チョコンと正座して、天井付近に設置されたテレビの方へと孔の目を向けた。
「なんじゃあ? 女神様もナイター見るんか?」
テツの言葉に、オルタがコクリと頷いた。
「ああ、オルタ様もダンジョン競技のルールを覚えたいからって、最近見るようになったんですよ。赤ヘルの試合だけですが」
「つーことは、女神様も赤ヘルファンかぁ?」
オルタは再びコクリと頷いた。
「元々オルタ様はヒロシマの土地神だったそうなんです。自分が守護していた土地のチームだから、自分も赤ヘルを応援したいって」
「おお! そうかそうかあ! 女神様の加護があれば今年こそ赤ヘルは優勝じゃあ! なあ、みんなあ!」
テツの言葉に店内の赤ヘルファンたちが頷いた。
赤ヘルファン達の絆は深い。
万年Bクラスの弱小チームを応援し続ける為には、共に支えあい、励まし合っていく必要があるからだ。
オルタに向けられていた奇異の視線が、にわかに仲間に向けられるそれへと変わっていく。
そしてその変化は、部屋の隅で震えていたイリアにも僅かながらに訪れた。
「あ、あ、赤ヘルファン? オルタ様も、赤ヘルファンけぇ?」
オルタはイリアの方に向き直ると、コクリと頷いた。
「あ、あ、赤ヘルファン‥、赤ヘルファンは、こわくない。赤ヘルファンはこわくないけん…」
イリアが呪文のように何かを唱え始める。声は震えていたが、そこには確かな意志が感じられた。
オルタへのトラウマは、イリアとてどうにかしたいと思っているのだ。
チームの為に、自分のために、そしてオルタの為にもトラウマを克服したいと願っているのだ。
「こ、こ、怖くない、怖くないけん。赤ヘルファンはみんな友達…」
イリアは今、オルタに歩み寄ろうとしていた。依然部屋の隅で頭を抱えたままだが、心だけはオルタへと震える足取りで近づこうとしていた。
イリアの内面の戦いに気付いたタツマに、閃きが舞い降りた。
「そうだ! みなさん! 俺に力を貸してください!」
タツマは店内の他の客達に呼びかける。
「俺に! 皆さんの赤ヘルグッズを貸してください!」
やるべきことを決めたタツマの行動力は凄まじい。
メガホンやうちわ、リストバンドや靴下やユニフォームをタツマ達は店内の客から次々と回収すると、それをオルタに着せていく。
ブカブカのユニフォームを着たオルタは、頭以外、足の先まですっぽりと赤に覆われた。
イリアは未だ座敷の隅でヘルメットで顔をおおい隠しながら、「怖くない、怖くないけん」とおまじないを繰り返している。
タツマはイリアの方へ歩いて行くと、イリアの赤いヘルメットをそっと奪った。
オルタと目を合わせないように、目隠し代わりに使っていた赤いヘルメットを。
最後にオルタの頭にそのヘルメットをぽすんと被せた。オルタは今、余すところ無く赤くなった。
イリアと同じぐらい、赤くなった。
なおも俯くイリアに、まるで穴に隠れた子犬を呼び出すような優しい声で、タツマは呼びかける。
「ほーらイリア。オルタ様も赤いぞー。こんなに赤いぞー。イリアと同じだぞー」
「わわ、わたしと…、同じ?」
イリアがこわごわと視線を上げていく。
イリアとオルタがもう一度見つめ合う。
孔のような目が、自分を心配そうに、不安そうに見つめているのがイリアにもわかった。仲良くしたかったのは、自分だけではないのだと気がついた。
イリアはこの時、初めてオルタを一人の人格として認めたのだ。
それはちょうど4日前の紅白戦で、タツマがオルタを一人の意思ある人格だと認めたように。
覚悟ができた。
口をきゅっと結ぶと、イリアが立ち上がる。震える足取りでオルタへと近づいていく。
恐る恐る、一歩一歩と。遂に2人の距離が互いの手が届きあう程まで近づいた。イリア自らの意思と足で。
最後はオルタが動いた。するるっと、ユニフォームの袖からオルタの髪が一房伸びる。
イリアは一度だけビクッと体を震わせたが、逃げ出すことはしなかった。
オルタの髪が、イリアの髪を優しく撫でた。
撫でられたイリアは、くにゃりと、ふやけたような笑顔をうかべた。
歓声が、上がった。
「やった! やったよイリア! 克服したんだよ! オルタ様へのトラウマを!」
「くぅーっ、ええもん見せてもらったのぉ! 二人共ぉ、今日は存分に食わんかい! ワシのおごりじゃあ!」
「「「「イリアちゃん! オルタ様! おめでとう!」」」」
タツマ、テツ、そして見知らぬ客達から祝福の声が上がった。
もらい泣きする者、今年こそ優勝だと叫ぶ者、酒をボトルで注文し始めるもの。
皆、様々に喜びを分かち合っていた。
ユニフォームを奪われたビジネスマンが、上半身が裸のまま、メガネの奥でフッと笑った。
こうしてイリアはトラウマに打ち勝ち、今宵の『赤恋』は、近年稀に見る盛り上がりを見せた。
途中、タツマ達の事を案じて電話をかけてきた厳島に、タツマは興奮しながらありのままを語った。
厳島は、「意味がわからないわ」と答えた後に。「お釣り、返してね」とだけ言い残して電話を切った。
試合はレッドヘルバトラーズの完敗ではあったが、スタジアムと違って、赤恋の店内だけは勝ち試合以上に盛り上がり続けた。
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「…ねえ、何かいいことでもあったの?」
成年向け雑誌をポンポンと袋に放り込んでいくタツマに、午後10時の淑女は不機嫌さを隠そうとはしなかった。
「ええ…、実は!」
タツマは女性の顔色など伺えない。厳島にそうしたように、タツマは『赤恋』で起きたことを一部始終語った。赤の他人の筈の、午後10時の淑女に対して。
嬉しかったことを聞いて欲しい、自分が楽しいと思ったことを知ってほしい、そんな子供のような欲求が今のタツマにはあった。
ひと通り顛末を聞いた午後10時の淑女は、
「なあにそれ、意味がわからないわ」
と、厳島と同じような台詞を吐いた。
ただ、厳島とは違い、「意味がわからない」そう言いながらも可笑しそうに笑っていた。
いつもの含み笑いではない、ころころと転がるような笑顔に、こんな顔で笑うこともできるんだな、とタツマは驚いた。
「はい、お会計。楽しい話を聞かせてもらったわ」
お釣りを手渡したタツマは、財布にそのまま硬貨をしまう午後10時の淑女に疑問を抱いた。
「…あれ? 今日は食べないんですか? フランクフルト」
2日続けて注文をされた、タツマがその手で食べさせるフランクフルト。
別にその行為を望んでいるわけではないのだが、少々肩透かしを喰らった気分であった。
「あなたがそんなじゃあ意味が無いもの。お腹は空いちゃったけど、明日まで待つことにするわ」
「は? はぁ…」
午後10時の淑女の言葉はやはりタツマには意味がわからなかった。彼女は雑誌だけを持つと、踵を返して出口へと向かう。
その背中が、不意に揺らいで見えた気がして。タツマはなんとなく声をかける。
「あの…、ご飯はちゃんと食べて下さいね! 夏バテになっちゃいますよ!」
タツマの言葉に振り返った午後10時の淑女は、一瞬目を丸くした後、もう一度ころころと笑った。
「…あなたって本当に夏みたいねえ。暑っ苦しくて、自分勝手で、鬱陶しくて、たまに優しくて」
「は‥、はぁ?」
午後10時の淑女の言葉はやはり意味が解らなかった。ただ、楽しげな声が耳に心地よかった。
「また明日ね、私の夏」
その言葉を最後に、午後10時の淑女は自動ドアから消えていった。
熱帯夜のじっとりと暑い空気が、コンビニの中に吹き込んで、散った。